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血闘  作者: サトシ
7/12

第七話「二者邂逅」

「いい面構えだ」

 猪江信二は、眼前でこちらを見上げる諏訪田に、悪くない評価を口にした。

 短く刈り上げた髪型。一見、好青年にみえる顔立ちをしているが、猪江は既に彼を「狂犬」と認めていた。

 身長は猪江よりか一回り小さいが、凡そ百七十センチほど。体格と肩幅から計算するに、体重は七十キロか。プロレスラーにすれば、もう少し体重が欲しいところ。

 しかし「空手家」とすれば、バランスが整った、理想的な体格。

「PWW、観てますよ。猪江さん」

 改まった口調で、諏訪田が猪江の所属と名前を尋ねる。地方興業をメインにする団体とはいえ、深夜帯にダイジェスト版が放送されるほどの、「PWW(プロフェッショナル・レスリング・ワールド」。

 畑が違えど、諏訪田が知っていることに猪江はにっこりと笑みで返事をした。

 その瞬間だった。

 諏訪田は腰を大きくひねり、右上段回し蹴りを放った。足の甲が、吸い寄せられるように猪江の顔面に向かう。

 上段蹴りが直撃。まるで張り手のような軽快な音が、駐車場に鳴り響く。

 諏訪田は、冷めた目で猪江を見ていた。対する猪江は、笑みを崩さぬまま、諏訪田を見ていた。

「プロレスラーですね。『自分から頭を動かして、当てにいくなんて』」

 寸前のところで、右足を止めた諏訪田は、わざと自分から上段蹴りを喰らいにいった猪江に笑う。

「それが、俺らの仕事なんでね」

 猪江は笑いながら言うと、それに釣られた諏訪田が表情を崩しながら、ゆっくりと右足を地面につけようとした瞬間だった。

「それと――やられたら、やり返すのがプロレスだ」

 危険を察知した諏訪田は、右足を地面に戻して、「何か」に備えようとした。しかしそれよりも猪江は速い。

 彼は空いていた右肘を曲げた状態――肘鉄を諏訪田の顔面に向けて繰り出した。それが直撃したのとほぼ同時、左膝蹴りを腹部に繰り出す。

 肉と肉が歪にぶつけ合う生々しい音が響く。

 わずか数秒のコンビネーション。顔面と腹部という人体の急所を突いた攻撃。

 しかし、諏訪田は倒れることなく、猪江の前に立っていた。

 第三者から見れば、鼻がひしげ、地べたで這いつくばってもおかしくない。無論、鍛練を重ねた諏訪田の屈強な肉体を知っているにしても、致命傷は免れないはずだった。

「どうした、諏訪田。さっきの威勢はどこにいったんだ」

 何が起こったのか分からない諏訪田。彼は呆然と立ったまま、僅か数秒の間に起こったことを必死に理解しようと、頭を動かす。

 刹那、彼はアスファルトの地面を蹴り上げ、猪江と距離を離す。そこでようやく、構えを取った。

 諏訪田の額に汗が一筋垂らされるのと同時に、彼の鼻から血が流れる。

「おや。少し当たってしまったか。すまないね」

 鼻から垂れた血を手の甲で拭う諏訪田を見ながら、猪江は謝罪した。

 先ほどの肘鉄と膝蹴り。それは、諏訪田にとって全くの無痛だった。

 猪江は、肘鉄と膝蹴りを寸前のところで停止させ、さも当たっているかのように手首や地面を踏みつけ、「音」を演出していた。

 プロレスで言うところの、「演出」。しかし、それはお互いが「ブック」を知っているうえで成立する。

 もし諏訪田が変な行動を取っていれば、肘鉄や膝蹴りが直撃したかもしれない。だが諏訪田は行動できなかった。

 威圧感。

 下手に動けば、壊されるという猪江のプレッシャー。

 それを彼は感じていた。

「さすが、ビッグダディ猪江。容赦がない」

 諏訪田にとって、この二秒という接触で分かった。猪江は自分では勝てない相手だということに。肉体を傷つけさせずに、分からせられた。

「君は優秀なファイターだ。今ここで壊してしまっては、龍神大会に影響するだろうに」

 絶対的優位に立っていると言わんばかりの猪江の言葉に、諏訪田は眉をひそめる。

「目的は何でしょう。脅しをかけている風にも聞こえますが」

 自身の情報を知っている時点で、何やら嫌な予感を察知する。諏訪田はゆっくりと一歩前へ出て、ストリートファイターとしての構え――右手を前に出して、左手の胸の位置に――を取った。

「殺気立つなよ、諏訪田。君の身辺にとやかく言うことではない。ただ俺個人として、君に伝えたいことがある」

 そこまで言うと、猪江は踵を返した。

「君が金田を倒したと聞いて、興味を持った。君が強い奴と闘いたいのなら、良い相手を俺は用意している。君が活動している場所で、ストリートファイターとして放った、とびっきりの『喧嘩屋』だ」

 そこまで言うと、猪江は歩き出した。

「是非、そいつらと戦ってほしい。期待している、諏訪田」

 諏訪田の返事を待たずに、猪江はアパートの駐車場から立ち去る。

 もう少しで朝日が出てくる時間帯。新聞配達屋の原付バイクの音がどこからともなく聞こえてくる。

 レンタル駐車場に車を止めていた猪江は、そこまで向かおうとする傍ら、鼻を指で拭った。

 鼻血。

 諏訪田の前で、出てくるのを必死に抑えていた。彼の上段蹴りは、確かに猪江が故意にぶつけたものだった。しかし、ちゃんと上手い具合に頭や体を動かして、ダメージは最小限に抑えたはず。

「諏訪田か。確かに、優秀すぎる」

 猪江がプロレスリングで培った「受け身」の技術を持ってしても、諏訪田の蹴りを押さえるのに不十分だという。

「闘いてぇ」

 猪江は、無邪気な子どものような笑みを浮かべた。

 



 畳が貼られた道場。

 中央にはお互いに構えたまま一歩も動かない藤田と金田。二人は華剛合気道の袴と胴着を着ていた。

 時刻は二十一時手前。ここ最近、金田は藤田の道場に通い詰めていた。

 とはいっても、主婦や門下生に交じってやっているわけではない。二十時ぐらいに道場へ着き、そこから準備をして今に至る。

 それは「合気道」の練習ではなく、「古武術華剛流」の練習だった。

 藤田は半身の構え。対する金田は、構えを取らず、両手を下げている無防備な状態。そんな金田に向けて、藤田は動く。

 一歩前へと飛び出し、左前蹴りを繰り出す。

 合気道の稽古では絶対に使用しない足技。

 それは金田の鳩尾へ向かうと思いきや、柔軟な関節により、畳へ左足が着く。そこから、本命の一撃――右人差し指を折り曲げ、首に打突を繰り出す――首狩りを放った。

 わずか一秒のフェイント。

 しかし金田は冷静だった。自身の首に向かってくる藤田の右手を自身の左手で捌きながら、手首を掴んだ。そのまま、金田は流れるような動きで半回転し、藤田の動きを抑制しつつ、彼と向かい合うように動いた。

 そのまま、藤田が動く隙すら与えずに、金田は空いていた右手と左手を器用に使う。

 藤田は自身の右腕と関節を極められながら、投げられる。藤田は受け身を取り、ダメージを最小限に抑えた。しかし、右腕が極められているため、動けない

「さすがですね。突き小手返しをされると、どうしようもない」

 神妙な面持ちで、藤田は降参を口に出した。それを聞いた金田は何も言わず、右手と左手を解放する。

 その後、一時間余りの稽古を終えて、二人は向かい合ったまま、胡坐をかいていた。

「この二ヶ月余り。金田くんの成長は著しいと思います」

「いえ、ご教授のおかげですよ。正直、合気道と古武術華剛流の二つを覚えるのには苦労しましたが、先生の教えがあってこそです」

 あくまで低姿勢な金田の言動に、藤田は笑う。

「さて、もうそろそろいいでしょう。君も、色々と我慢している節がある。小手返しで決めたのも、そのせいだろう」

「見抜かれていましたか。さすがに、華剛流は使えませんでした」

 やはりそうだったか、と言わんばかりに金田は表情を崩し、小さく笑った。その後、すぐに表情が殺気立ったものへ変わった。

 藤田の次の言葉を望むような――狩場へ向かう飢えた獣の表情。

「君が培ったプロレスの技、剛を制す華剛合気道、そして――古武術華剛流。この三つを短期間のうちに吸収し、組み合わさった金田くんの力。ストリートファイトで、ぜひとも発揮してほしい」

「ええ、期待に応えて見せます。先生」

 金田はそう答えると、ゆっくりと立ち上がった。そして肉体が疼く。

「早く戦いたい」と。




 大阪此花区。大阪湾に面している漁港に、二人の男が面と向かい合っていた。

 水面が揺られる音が薄らと聞こえる中、猪江信二にスカウトされた「元」プロボクサー、早瀬辰見はやせたつみは中々の好敵手に巡り合えたと喜んでいた。

 身長百七十七センチ、体重七十五キロ。トカサのように立てた髪型が特徴的な、スポーツ用ジャージを着た男。それが、早瀬。

 早瀬にとって、ここ一週間のストリートファイトはひどく味気ないものだった。少し――といっても、一分も立っていればいいもので、大抵は三十秒も経たないうちにダウンする。

 些細な喧嘩により、プロボクサーとしての職を失い、今は小さなジムでインストラクターを務める早瀬。前科により、公式非公式問わず試合が出れない身の彼に目をつけたのが、猪江だった。

「強い奴と戦いたいなら、この界隈に入ってみないか。まぁ保険はつかないけどな」

 最初は半信半疑だと思っていた。ただの喧嘩に過ぎないと。しかし、いざストリートファイトの世界へ飛び出すと、それは麻薬のように早瀬の身体を満たした。

 実戦だからこそのリスク。本気で痛がる相手の顔や表情。どういう技が飛び出すか、全く分からないスリル。

 これほどまでに面白い「格闘技」――否、「ストリートファイト」があったのだろうか。

「これだから、楽しいんだよ」

 早瀬はぼそりと呟き、目の前に居る男を見た。相手は、まるでプロレスラーかのような体格の男。ジーンズに、黒色のTシャツを一枚だけを着ている。

 シャツの上から自己主張がすごぶる激しい筋肉の盛り上がり。そして微かに臭う、「ストリートファイター」の雰囲気。

 ようやく、楽しませる相手が出てきたと早瀬は思う。

(しかし、これが猪江さんが言っている『とびっきりのファイター』では無さそうだな)

 猪江から聞いた話には、この大阪北区で『とびっきりのファイター』を見つけて、倒してほしいと頼まれた。 この地区でのストリートファイトを始めてから、一ヶ月は経っている。しかし一向にその男には出会えない。

 猪江は早瀬他に数人のファイターをスカウトし、同じようにストリートファイトをさせている。同業者の情報を貰っていない以上、その数人が例の男に既に倒されていたり、目撃情報を共有することができない。

 もちろん、同業者と戦う可能性がある。が、やはり大阪北区といえども、広い。そういった出来事は無きに等しかった。

(まぁどうでもいい。今は集中しろ)

 早瀬がそう思った瞬間、仕掛けてきたのは、相手からだった。

 距離は三メートルも離れているのに、男の巨大な足――スニーカーを履いた足底がすぐ目の前に迫っていた。早瀬は落ち着いて、それを対処する。

 ダッキング。

 上半身を前へ屈むようにしながら、相手の攻撃を回避。ボクシングの基本的な防御術であり、顔面を狙った男のキックを回避するのにもってこいだった。

 早瀬は男のキックを凌ぎながら、潜るようにして肉薄。攻防一体のダッキングは、早瀬がもっとも得意とするものだった。もちろん、その直後に繰り出すパンチもだ。

 完全に隙を見せた男の脇腹に向けて、上半身を捻りながらボディブローを早瀬は繰り出した。

 裸拳が、屈強な筋肉の壁を破壊する感触。例え男がどれほど腹筋を鍛えても、それ以上に鍛え、破壊力を蓄えた早瀬の拳が屈することはない。

 男のうめき声を耳にし、手応えを感じるものの、早瀬は男から離れるようにバックステップを行う。

 仕切り直し。

 距離は三メートル。

(一筋縄ではいかんか)

 先制攻撃を加えた早瀬だったが、舌打ちをする。並――否、屈強な格闘家でも、あのボディブローで全てが決まるはずだった。もちろん、今までのストリートファイトもそうだ。

 しかし、早瀬は本気で打ち込めなかった。打ち切る直前で、嫌な予感が背中に走った、といったほうがいい。

 目の前の男は痛みを和らげようとしているのか、両肩で息をしながら、構え直す。

(あのまま打ち切っていれば、掴まれていた? 柔術、それとも古武道か)

 先程のキックは囮――ボディブローを来ると予知していての、「肉を切らせ、骨を断つ」。そんな予感を早瀬は感じ取っていた。

(打撃技を、牽制で振れば致命傷になる。それじゃこっちも――)

「同じことをさせてもらう」

 早瀬は両手の拳を顔に密着させるボクシングの構えを解き、両手を前へ大きく伸ばす。その構えを見て、男の表情がどよめきに変わったのを早瀬は見逃せない。

 柔術の構え。

 早瀬は、柔道で黒帯を取っている。さらには総合格闘技の技術が詰まっており、いうなれば「打撃」と「組技」を文字通り「両立」させていた。

 無論、それは中途半端ではなく、完全に極めている。

 ボクシングと柔術をインプットさせた早瀬は軽くステップを踏み、男との距離を詰めた。

 掌底。

 まるで突きの用に繰り出される掌底に、男はタイミングを合わせて掴もうとする。しかし、それは囮だった。

(本命は、腰)

 ベルトで絞められたジーンズの後ろを早瀬は左手を伸ばし――掴んだ。早瀬は自身の背中を男の身体に密着させ、腰を乗せる。そのまま、両膝をバネにし、一気に男を前へと投げた。

 大腰。

 柔道の腰技の一つ。

 体重差は確かにあるものの、早瀬は器用にバランスを取りつつ、男をアスファルトの地面に向けて「叩きつける」。

 実戦だからこそ、投げ技の危険性は何倍、何十倍にも増す。早瀬は、投げ技の危険性と実用性をストリートファイトで実感している。

 仰向けに倒れている男の顔面に、早瀬は有無を言わさず右拳(鉄槌)を浴びせた。しかし男は、それを片手で受け止めようとした。

 嫌な予感がした早瀬は、すぐに右拳を引っ込める。そのまま、男との距離を離した。

 絶対的優位なポジションに立てるタイミング。それを逃してしまったという、致命的なミス――と捉えられる。

 だが、早瀬は迂闊な攻撃が命取りになると、本能が命令し、それを実行した。

 しかし、戦ってみてようやく分かった。

(底が見えない。見えなさすぎる)

 仰向けの状態から素早く立ち上がった男は、トレードマークとも言える顎鬚を摩り、ゆっくりと構えを取る。

 外面は、ただのパワーファイター。力と忍耐力が売り。少し前の早瀬の目には、この男がそう分析されていた。

 迂闊な攻撃は出来ない。

 だとしたら、一撃で決める。

 早瀬はダッキングを織り交ぜ、前へと突出。もう一度、男へ肉薄した。

 相手の胸の中へ潜り込んだ早瀬はボディブローではなく、男のTシャツの襟首と左腕を掴む。そこから、一呼吸もかからない速度で、背負い投げを繰り出そうとした。

 違和感。

「くそったれ」

 早瀬は思わず声を出すと、組んでいた両手をすぐに離す。そして反撃を貰う前に、男との距離をまた離した。

「どうした。演舞をやっているわけじゃねぇんだぜ」

 退屈そうな表情と声で、男は早瀬を煽る。

 早瀬は男の煽りを聞き流し、打開策を考えた。

(先程の違和感、これでようやく分かった)

 男はまたもやゆっくりと構えを取り、仕切り直す。だが早瀬は一歩も動かずに、男の出方を伺う振りをしながら、思考する。

(打撃と組み技寄りのパワーファイター。そして、『合気道』。これは厄介だ)

 男の接触を数回繰り返して、早瀬はようやく全容を掴む。この男のファイティング・スタイル。それは、打撃と組み技を高い練度で両立させつつ、持ち前の屈強な肉体では耐え切れない打撃や、受け身不能の投げ技に対して合気道を使い、捌く。

(こちらの打撃を捌くことは無理だと悟り、組み技を複合して合気道の投げ技――関節を極められなかったのが、不幸中の幸い)

 合気道に関しては、まだ上手く扱いきれていない。恐らく実戦で経験値を溜めようとしているだろうが、そこが命取り。

(分析は終わった。相手が捌ききれず、かつ組み技が使えない速度で、一撃を叩き込む)

 プランが出来上がった早瀬は、ステップを踏みながら、接近。

 さらに小刻みなフットワークを錯覚させたダッキング。そこから腰を捻り、右腕を大きく背中まで伸ばした瞬間、まるで弓を引くように彼の右ストレートが男の顔面に向かった。

 渾身の一撃。

 だが、男は真っ直ぐ向かってくる早瀬の右腕を左手で捌いた。最小限の力によって、彼の渾身のストレートが向かうべき顔面ではなく、空を切り裂く。

 そこから男は、空いていた右手を捌いた早瀬の右腕を掴もうと腰を捻った。

 衝撃。

 腹部に衝撃が走る。

 男の腹部に、早瀬は左足を軸足とした右ミドルキックを放っていた。

 フェイント。

 カウンターのカウンター。早瀬は、最初からそれが狙いだった。

 あまりにも器用すぎる早瀬の攻撃に男が戸惑う。それを、彼は見逃さない。

 すかさず、掴まれようとしていた右腕の上腕をエルボーの形にすると、そのまま男の顔面に肘鉄を喰らわせた。

 これまでの接触で、一番の手応え。完全に肘鉄を打ち切った早瀬だったが、彼の右腕は男の顔面から離れなかった。

 否、打ち切っていない。

 踏み止まれていた。

「不味っ――」

 早瀬が危険を察知したのと同時、彼の腹部にお返しとばかりに衝撃――膝蹴りが入った。あまりの威力に、早瀬の両足が地面から浮く。

 それでも彼は倒れることなく、激痛に顔を歪ませながら、膝蹴りの衝撃を活かして、男から距離を取った。

 三度目の仕切り直し。

 しかし今度は、お互いにダメージを負っていた。

「楽しいな、おい」

 顔面に肘鉄を喰らった男は、鼻血を垂れ流しながら、不敵な笑みを浮かべる。一方の早瀬は呼吸を整えながら、膝蹴りのダメージを軽減し、男の笑みに鼻で笑った。

「ほんと、ワケわかんねぇなストリートファイトって」

 こんな化け物が居るなんて、楽しすぎる。早瀬は心の底から、強い相手に巡り合えたと思った。

 早瀬はあくまで、攻めの姿勢を崩さない。

 呼吸の動きが落ち着いた瞬間、男へ詰め寄る。

 ワンツーパンチ。

 電撃の如く、鋭く速い拳の二連撃。

 それとすれ違うかのように、男の右手が早瀬の喉元へ向かった。右手の人差し指を折り曲げた打突。それが、早瀬の喉を潰す。

 一方で、彼のワンツーパンチは男の顔面と頬を直撃。お互いに均等なダメージを負いつつ、次の行動へ両者は移った。

 正直、身じろぎする激痛だった。

 だが早瀬は、我慢する。ここで折れた方が負けてしまう。それは、あの男も同じことを思っているはず。

 ボディブロー、そこからジャブ。

 右フックからの、ミドルキック。

 早瀬と男は、打撃技の応酬を繰り広げる。お互いに技を叩き込みつつ、耐える。

(ただの根比べと思うなよ)

 早瀬は一歩先を見据えていた。

 攻撃を繰り出し、相手のそれを耐えながら、三つ目の思考を張り巡らせていた。

 それは、一撃必殺のカウンター。相手に叩き込むための、布石。

 早瀬と男の肉体では、明らかにこちらが不利だった。体重差という明確なハンディがある以上、打撃の撃ち合いでは確実に早瀬が不利。

 自分の土台に相手が乗ったおかげで、向こうは調子づいている。だから、打撃技に意識を完全に集中させていた。

 だが、早瀬は違う。相手の行動パターンを分析し、確実に相手の意識を奪える一撃必殺を叩き込むチャンスを伺っていた。

(あいつの頭の中は打撃のコンビネーションしか考えていない。既に、カウンターを狙った合気道は狙ってこないはず)

(そして次は右のフック――それを俺は)

 左腕でミドルキックを防御し、早瀬は踏ん張る。そして次に、丸太のような重さを持った右のフックが早瀬の顔面へ向かった。

(狙う)

 予想通りの攻撃。

 早瀬はそれを寸前のところで、頭を横へ振って、回避。その状態から腰を深く落とし、四股を踏む。そのまま、無防備な男の顎に向けて、右のアッパーカットを繰り出した。

 ほぼ回避できない距離のはずだった。

 しかし、男の巨大な左手によって、早瀬の右手首が掴まれていた。

 悪寒。

 それも、死を予感する悪寒。

 男は早瀬の右手首を掴んだまま、器用に体を回転。それによって、早瀬も否応なしに動くしかなかった。

 腕を極められた状態のまま、男と早瀬は奇妙な体勢となった。

「お互いの背中を合わせた状態」。しかし、早瀬はその間に空いていた左腕や関節を極められ、身動きが取れない。

 左腕はくの時に曲がったまま、背中に押さえつけられるように。右腕は、手首を掴まれた状態で腰の位置に拘束されていた。

「古武術華剛流が不受身技ふうけみわざ

 囁くかのように、男の声が背後から聞こえてきた。次の瞬間、早瀬の視線が一回転した。

 アスファルトの地面に向けて、叩きつけられるという「予感」。

「千鶴落とし」

 男がその技の名前を言った瞬間、早瀬は激痛と同時に意識を失った。




 同時刻。此花区、高架下。



 

 諏訪田の眼前に、一人の男が倒れていた。男は既に意識を失っており、ぐったりとアスファルトの地面に倒れ込んでいる。

 倒れている男の顔は打撃技を受けたと思わしき、打撲の跡と――右腕の関節が正反対の方向へ折れ曲がっていた。

 諏訪田はそれを見て、鼻で笑い――やや離れた先に居る、初老の男性を眺めた。

 男の人体を破壊したのは、諏訪田ではない。自分がこの場所に来たときには、「試合」は終わっていた。

「久しぶりだね」

 袴と胴着を着た初老の男――藤田は、にっこりと笑った。いつぞやらに、諏訪田が戦った合気道の師範。しかし、彼の風貌はどこか垢抜けており、前回の雰囲気とはがらりと変わっていた。

「これが、藤田先生の実力とやらですか」

「なぁに。君が相手するまでもなかったよ」

 右腕をへし折られた男の背中を指しながら、諏訪田は藤田に問いかける。

 空手でも合気道でも総合格闘技でも、このような形で人体を破壊することは難しい。諏訪田は内心、少しだけ恐怖が芽生えていた。

 いったいどうすれば、こんな風に人の関節をへし折ることができるのだろうか。それも、筋力の衰えが著しい、藤田にできるのだろうか、と。

 諏訪田は気乗りこそしないが、構える。

 しかしそんな彼を安心させるかのように、藤田は踵を返した。

「猪江くんが、君を倒すためだけに喧嘩屋を放った。しかし、私たちも指を咥えているわけにはいかない」

 そこから一歩二歩と藤田は歩く。

「他ならぬ虎狩りを行うのは、私ではなくもう一人の男だ」

 そこまで言うと、藤田は諏訪田から離れていった。

 武者震い。

 諏訪田の全身が、震える。

 先程の「宣戦布告」。数少ない藤田の言葉から、確かに感じ取った。

 あの日、自分が徹底的に負かした男――杉本ジムで邂逅した、あの男。

 断定できる材料など、何もない。しかし、諏訪田は確かに感じ取った。藤田の言葉から滲み出る、あの男の匂いを。

「これだから、やめられないんだよ」

 諏訪田は歪に笑った。

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