第六話「諏訪田」
四年前、大阪此花区。
この日は一段と蒸し暑い夜だった。建設現場の仕事を終え、帰路へ着く諏訪田は人通りが少ない細道を歩いていた。
両脇には植林が茂っており、月の光を遮っている。細道の横には二車線に別れた車道があり、車が行き交っていた。
時刻は二十二時を過ぎている。今日は少し残業があったため、この時間まで諏訪田は仕事をしていた。
高校卒業後、諏訪田は一人暮らしを始める共に建設現場の仕事へ就いた。小学校から続けていた空手のおかげでそれなりに体力には自信があるから、現場の仕事にも慣れた。
作業服が入ったリュックサックを背負い、コンビニで買ってきたお惣菜と弁当を入ったレジ袋を片手に、諏訪田は歩いていた。
今日もまた、一日が過ぎた。
そんなことを思いながら、帰り道を歩く。
「兄ちゃん、暇してる?」
諏訪田の正面――薄暗がりから、三人の集団がこちらに向かってきた。声をかけてきたのは、その先頭。バンダナを頭に巻いて、黒色のタンクトップを着た男。
脇にいる二人の男も、バンダナを巻きつけた男と同じで柄が悪い。朴念仁だとからかわれる諏訪田でも、この三人が世間話を吹っかけてくるような風には見えないことは分かりきっている。
「――」
諏訪田は何も言わず、男たちの横を通り抜けようと身体を動かした。それを遮るかのように、醜い金属音が響いた。
「あっれぇ。無視しちゃうの?」
さっきまでは暗くてよく見えなかったが、バンダナの男の右手には鉄パイプが握り締められていた。それが、砂利道に何回も勢いよく叩きつけられている。
「ジュンくんを怒らせると怖いよ? 見逃してほしかったら、ちょっと俺らにお小遣いくれないかなぁ」
坊主頭の小柄な体格をした男が、自分の隣に居るバンダナの男のことを差しながら、強請る。
本当に彼らが、自分の頭に向けて鉄パイプを振り回すのは、諏訪田にとって考えられなかった。それでも、身体に向けて「死なない程度」に痛めつけそうな風には感じる。
内心、諏訪田はため息をついた。そして、ズボンのポケットから財布を取り出し、その中から一万円札を三枚ほどを抜き取った。
それを地面に置き、一歩二歩と後ずさりし、諏訪田はその場から逃げるように走った。
後ろから男たちの笑い声が聞こえてきた。諏訪田はぐっと我慢した。
これでいい、これでいいのだと。
出先の建設現場。諏訪田が務めている建設会社は三階建ての小さなマンションを作っており、ようやくその骨組みが出来たところだった。
現場の片隅。機材などが詰まった社用のハイエースに凭れるようにして、コンビニで買ってきた唐揚げ弁当を諏訪田は黙々と食べている。
周りの同僚や先輩たちは各々で楽しく喋りながら昼休息を取っているが、諏訪田はどうも馴染めなかった。
「諏訪田君、ちょっといいかな」
弁当を食べ終わり、スチール缶のお茶を飲んで一息ついている諏訪田を、三個上の先輩がこちらに向かってきた。
彼は諏訪田たちのように現場で働く人ではなく、主に経理や事務を担当している。今日はマンションの建設を依頼した管理人と色々な話をしていたらしく、現場に出向いていた。
「どうしましたか」
「実はちょっとね」
先輩は少し声をひそめて、諏訪田の隣へ腰を下ろす。
「諏訪田君、確かうちの事務所から徒歩で帰っているよね」
「ええ、そうですが」
「実は――もう察していると思うけど、芽呉くんがね。どうやら不良に絡まれたらしくて、病院に担ぎ込まれたんだ」
どうりで、といった表情を諏訪田は浮かべた。芽呉――諏訪田よりも一個上の先輩。図体こそは大きいが、凡そ建設現場で向かわなさそうな気弱な人。
彼とは帰り道こそ一緒だが、あまり話したことがない。
今日の現場で出勤していなかったことから、何やらトラブルがあったものだと思っていたが――不幸に会ったものだと諏訪田は思う。
「被害届を出してるけど、どうもこの辺の警察はあまり仕事をしてくれなくて。しばらく回り道して帰ってくれないかな。今が正念場だし、諏訪田君まで病院に持って行かれるとね」
先輩に言われるまでもなく、諏訪田はあの日以降、回り道をして帰っている。芽呉よりも先に、自分があの不良たちに絡まれていたことを言うと、話が拗れそうになるのでやめた。
「分かりました。今日から気をつけます」
「まー諏訪田君は空手の有段者なんだし、大丈夫と思うけどね。そういうことで、帰り道は注意してね」
先輩は話を切り上げると、腰を上げるついでに諏訪田の肩を軽く叩いた。
空手の有段者――その言葉が、諏訪田の中で引っかかる。
一応、黒帯は取っていた。大会でもそれなりの成績を出せた。スポーツ推薦で空手に強い大学からの誘いも来た。
しかし、諏訪田にとって空手とは所詮、身体を鍛えるための「スポーツ」に過ぎなかった。
不格好な練習
精神論。
ただの、殴り合い。なのに顔面は禁止。
自分がやりたいと思った「攻撃」が出来ない。試合中、いつも諏訪田は考えてしまった。
「このタイミングで顔面に拳を叩き込めば、一発で相手を倒せる」と。
しかし、それをやることは一度も無かった。
結局、自分は「空手」という枠組みに納まってしまったのだと思い知る。
だから、もう空手はやらないと諏訪田は誓った。
しかし先輩の話を聞いていて、諏訪田はある確信を抱いた。
自分が今身に付けている「これ」が、空手ではないとしたら。そしてそれを「振るう」機会があるとすれば。
「もしかしたら、絶好のチャンスなのかな」
諏訪田は独り言を呟き、飲み終わっているスチール缶を片手で握り潰した。
秋山は心底後悔していた。
今日がバイト代が振り込まれる給料日も相まって、少し浮かれていた。だから、散歩がてらにいつも使っているコンビニの道から、少しだけ遠回りしたのが運の尽きだった。
「よぉ兄ちゃん、暇してる?」
秋山の目の前には、いかにも柄の悪い男が三人。
そのうちの一人は鉄パイプを持っており、ひっきりなしにそれを砂利道に叩きつけていた。
今すぐにでも逃げ出したかったが、後ろを回り込まれており、三人目の男が退路を防いでいる。
財布の中には、五万円。
これを強請られたら最後。今月の遊びのプランは破綻。
「お願いします。見逃してください」
秋山はその場で土下座をする。切羽詰っているせいで声を大きくしてしまったのが、不良たちの癪に障った。
「うるせぇんだよ。人が来るだろぉ」
背中に、鈍い衝撃と痛みが走った。自分の背中に鉄パイプが振り落されたのを、秋山は悟った。
痛みのあまりに息が詰まり、その場で声にならない悲鳴をあげる。それを見ている不良たちは、ゲラゲラと笑っていた。
「ケンくん、見張っといてね。あとマサちゃん、こいつのポケットから財布取り出してよ」
鉄パイプを秋山に振り落とした男――ジュンは、連れのケンとマサに命令する。秋山の背後で、坊主頭のケンは見張り番を。
マサは腹を抱えて笑いながら、秋山のポケットから財布を取り出す。
「ジュンくん、大当たり。こいつ五万円も持ってる」
金髪の、この中で一番背が高いマサは笑いながら、五枚の一万円札を扇子のようにして煽った。
それを指示したジュンは笑う。その後、殺気立った目で、目の前でうずくまっている秋山の背中に鉄パイプを叩き込んだ。
「持ってるんだったらよぉ、早く渡せってんだよ」
加減こそはしているが、鉄パイプの一撃は秋山にとって猛烈な痛みを引き起こした。
「ジュンくんを怒らせるとこーなるんだよぉ」
後ろで誰かが来るのを見張っていた、坊主頭の男が秋山の背中に体重を乗せながら片足を置く。それは彼にとって、更なる痛覚を呼び出すトリガーだった。
声にならない悲鳴を上げ続け、秋山はじたばたともがく。
三人の男はそれを見ながら、大声で笑っていた。
そのときだった。
ケンの男の背後から、砂利を踏みつける音が聞こえた。特に慌てる様子もなく、むしろこの雰囲気に水を差す存在に、彼はむしろ苛立ちを覚えながら振り返った。
数メートルほど離れた正面。
パーカーを目深に被った、ジャージ姿の男がポケットに両手を忍ばせながら、立っていた。
「なんだよ」
ケンは、凄みを効かせた声でジャージ姿の男にガンを飛ばす。しかし、それを憶ともせず、男はゆっくりと歩き出した。
「こいつ、人の話聞いてねーぞ」
こちらへ向かってくる男に、マサは鼻で笑う。一方のジュンは舌打ち交じりに鉄パイプを砂利道に叩きつけながら、秋山が逃げないように見張った。
「人の話を聞いてんのかよ」
一方、ケンはこちらに向かってくる男に詰め寄る。パーカーの胸ぐらを掴み、顔を近づかせながら、ケンは脅すはずだった。
しかし、パーカーを掴もうとした矢先――ケンの顔面に拳がめり込んだ。
右拳がケンの鼻をへし折り、何とも形容しがたい生々しい音を後ろに居るジュンとマサに聞かせた。
正拳突き。
パーカーを被った男は、ケンの顔面に向けて、それを繰り出していた。
「んっあぁ」
一瞬だけ、何のことか分からずによろめくケン。
直後、強烈な「痛覚」が顔を中心に広がった。
ケンはその場で両膝を突き、そのまま前へのめり込むように倒れようとした。しかし、パーカーの男はそれを許さなかった。
パーカーの男は、あらぬ方向へ折れ曲がったケンの鼻に向けて、助走をつけた右膝蹴りを繰り出す。
弾丸のように放たれたそれは、ケンの鼻の骨を粉々にするのに充分すぎるほどだった。
「―――――」
まるで獣のような叫び声を上げるケン。彼は秋山よりも激しく身体を動かし、苦しんだ。
パーカーの男はそれを見て満足したのか、ゆっくりと右足を地面につけ、数メートルほど離れた場所で呆然と事の経緯を見ていた、マサとジュンに近づく。
「てめぇ、なにしてぇんだよ」
ジュンは、秋山の顔のすぐ横で鉄パイプを叩きつけ、こちらへ向かってくるパーカーの男に怒号を浴びせた。彼は鉄パイプを両手で握りしめると、走り出す。
マサはそれを制止しようとするが、遅かった。
ジュンの理性は外れていた。
少なくとも彼は、手に持っている鉄パイプでパーカーの男の頭にフルスイングで直撃させるのを躊躇わなかった。
鉄パイプの先端が届く距離。
ジュンは、鉄パイプが男の頭に直撃するのを頭の中で想像していた。
先端が男の頭を横殴りにし、ゆっくりと崩れ落ちる。そこから、ケンを膝蹴りでトドメを刺したように、後頭部に向けて、何回も殴打する。
殺したって構わない。誰も見ていないし、どうせなら財布を盗ったあの男もついでに始末だ。
一時の感情に支配されたジュンは、鉄パイプを真横に振った。
無機質な鉄の棒が――それよりも早く振り上げた男の右腕――直撃。
鈍い音。
全体重を乗せた、渾身の一撃だった。しかしそれが、右腕で防がれた。
動きが止まったジュン。そして、目の前にいるパーカーの男の視線が交わった。
笑顔。
何とも言い難い、歪な表情。
それは、心の底から何かしらの行為に対して湧き上がる「笑顔」とは一線が違っている。
パーカーの男は、少し子どもっぽさが残る顔立ちをしていた。それがより一層、笑顔の不気味さを演出していた。
「楽しいな」
パーカーの男から、そんな言葉が口から漏れた。
ジュンはそれを聞く前よりも早く、鉄パイプを手から離して、逃げようとする。
刹那。
パーカーの男は左足を軸にし、腰を振り絞り、右足を舞い上げた。
右上段回し蹴り。しかし、足の甲を当てるのではなく、右足のつま先で突き刺さるように放った。
綺麗な軌道を描く男の右足は、ジュンのこめかみに直撃。
瞬間、彼は口から泡を吹きながら、膝から崩れ落ちる。無論、それをパーカーの男は許すはずがない。
崩れ落ちるジュンの頭部が、ちょうど腰の位置へ来た瞬間、パーカーの男は左中段蹴りを顔面に向けて放つ。 反動で背中から落ちようとするジュンの腹部に、鳩尾を狙った水月蹴り。
そこから強引に背中から地面へ叩き落とすと、跨るようにして、胸板に正拳突き。
「あははっ。楽しいなぁ」
男――諏訪田は、込み上げてくる「楽しさ」のあまりに声を出して笑う。
眼前で顔面が血だらけになったジュンに、何回も何回も正拳突きを繰り出した。そして、渾身の一撃を叩き込む。既に鼻の骨は折れているため、聞こえてくるのは、生肉を地面に叩きつけたかのような、歪な音。
人としての顔を保っていないジュンを見ながら、諏訪田は笑う。こんなにも、「格闘技」が楽しかったなんて、夢にも思わなかった。
相手を殺す気で繰り出される鉄パイプの一撃。それを右腕で防いだ瞬間、分かってしまった。
これが、本当の格闘技なんだと。
真実を知ってしまったとき、腕の痛みは感じなかった。いや、むしろどうでもよくなった。ルールなんて気にしなくてもいい、正拳突き。
障害が残るのさえ厭わない、頭部への上段回し蹴り。既に戦意を喪失した相手への、攻撃。
今までできなかった行為が全て許容される。
「あはっ。なんで、なんでこんな楽しいことを見つけなかったんだろう」
諏訪田は笑う。そしてそれを聞くものは居なかった。
そこで、目が覚めた。
真っ暗な空間。薄らとみえる、染み付いた天井。木造アパートの一室。その片隅。
敷布団の上で目を覚ました諏訪田は、夢で度々見る「四年前の出来事」に対して、特に何の感情も抱かなかった。
否、この夢を見るときは、ストリートファイトで「好敵手」に出会う前触れのようなものだ。
自分を楽しませてくれた男たちの、「意識が途切れる瞬間」の表情が鮮明に思い浮かぶ。近いうちに、その顔が見られると思うと、笑みが零れた。
ふと諏訪田は、すぐ横の壁に貼られているカレンダーに目をやった。
今日は、九月十五日。
朱雀館で行われるオープントーナメント「龍神大会」は、十月二十五日――館長の誕生日に合わせて開催される。
去年の龍神大会で、ベスト8の実力を叩き出した諏訪田だったが、今回は確実にそれ以上――否、優勝を目指している。
自分の目標である、「亀山満」を倒すこと。それが、目標だった。
「四年前の出来事」の後、諏訪田はもう一度、空手を始めた。朱雀館へ入門し、それ以前からやっていたストリートファイトで培った技術によって、頭角を現す。
しかし、亀山満や朱雀館に存在する実力者との組手をやって、思い知った。どうしても越えられない「壁」があるということ。
ストリートファイトでは無敗を誇った諏訪田が味わった、「敗北」。
空手という枠組みに嵌ってしまった、過去の自分を彷彿させた。
「俺は、何がしたいんだ」
ストリートファイトとしての、諏訪田。
空手家としての、諏訪田。まるで多重人格のように、自分が何をしたいのか分からなくなってしまった。
諏訪田は布団の上から起き上がる。壁にかけている時計を見ると、時刻は午前五時。彼は何かに急かされるように寝間着姿から、ジャージへ着替える。こういう日は、ランニングに限るからだ。
諏訪田は自室の玄関から出て、そのまま近くの公園まで走ろうとする手前、軽く体を解すためにストレッチをしようとした。
しかし、彼の視線の先――玄関先にあるアパートの駐車場に、一人の男が居た。
紺色のスーツを着た、長身の男。オールバックの髪型にサングラスをかけ、一目で「格闘家」だと分かる体格。
その男は、ゆっくりと数メートル先の諏訪田へ近づく。そして、手前で立ち止まった。
男は諏訪田を見下ろせるほどの身長があり、彼の顔をじっくり見た後にサングラスを外した。
「いい面構えだ」
男――「ビッグダディ猪江」こと猪江信二は、満面の笑みで諏訪田を評価した。
血闘。
血に飢えた男たちの闘い。
それは、果てなき己の欲を満たすため。あるいは、失いかけた誇りを取り戻すため。
故に男たちは闘い続ける。
終わりなき闘争。その行く末を、彼らは求め続ける。
血闘 第一部「闘争心」 完。