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血闘  作者: サトシ
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第五話「分岐点」

 ドーム内に犇めき合っている、数千人という観客は激戦に次ぐ激戦にヒートアップしていた。そして、今日の興行を締める、最後の試合が始まろうとしていた。

 大声援に囲まれたプロレスリングの中央に、二人の巨漢が睨み合いを繰り広げている。

 そのうちの一人――オレンジ色の、七分丈のレスリングパンツを穿いたスキンヘッドの男が、眼前で立っているドラゴン金田の右手を見た。

 ずっしりとした、適度に横と縦に伸びた体格。黒色のパンツを履いており、身体の関節には赤色のサポーターを装着していた。

 そんな服装をしたドラゴン金田は、人差し指と親指を立てて、拳銃のように見立てたサインを作っている。

「おめぇ、そのサインが何の意味を持っているのか知っているのか」

 FSWファイティング・シューター・ワールドの有岡は、目の前で大胆不敵に笑っている、青海プロレスのメインイベンター、ドラゴン金田に殺気を宿った視線をぶつけた。

 シュートサイン。

 それは、ブック(台本)無しの真剣勝負を意味する合図。今回の試合は、ブック通りなら有岡の勝ちで決まる内容。

 しかし、ドラゴン金田はそれをぶち壊しにきた。

「ビビっちまったのか、チャンピオン」

 ドラゴン金田は鼻で笑う。

 二人のやり取りを見ていた観客の反応が、段々とどよめきに変わっていく。無理もない。明らかに、試合を開始する雰囲気を両者が持っていなかったためだ。

 リング外で待機している、有岡とドラゴン金田のセコンドも同様だった。だが、誰もドラゴン金田を止めない。この場において、彼を止めれる者など居ない。

 もちろん、有岡も金田の行為を止めはしなかった。

「お山の大将風情が。後悔するなよ」

 有岡はドラゴン金田の挑戦を引き受ける。

 元々、有岡はエンターテイメイトであるプロレスのスタンスが好きだった。例えそれが八百長だったとしても、観客を楽しませることがプロレスの意義であると信じている。

 しかし、ドラゴン金田はその演出を破壊し、真剣勝負を求める「壊し屋」。

 観客と、会社のことを考えない奴。

 気に食わない。

 有岡の、ドラゴン金田に対する印象は最悪だった。

 有岡とドラゴン金田はお互いに一歩、二歩と後ろに下がると、その間を神妙な面持ちをしたレフリーが割って入る。

 そして、試合の開始を告げるゴングが鳴った。

 先手必勝。

 有岡は、構えているドラゴン金田に本気の前蹴りを繰り出した。サンドバック相手にしかやらない、全身全霊を込めた前蹴り。恐らく、まともに喰らえば骨折。

 鞭のようにしなる右足の爪先は、ドラゴン金田の水月へ吸い込まれる。だが彼は、それをキャッチした。

 有岡はその瞬間、残っている左足で延髄蹴りを反射的に繰り出そうとした。それよりも速く、ドラゴン金田は脇で締め付けるようにクラッチした有岡の右足を巻き込むようにして、きりもみするかのように回転する。

 ドラゴンスクリュー。

 ブック有りの内容であれば、有岡もあえて回転することによって、靭帯の損傷を防ごうとする。しかし、お互いに何をやるのか分からない真剣勝負。

 有岡はドラゴン金田の腕力によって、無理やりクラッチされた右足ごと身体を回転させられた。そのまま有岡はマットの上で倒れてしまう。すぐに起き上がろうとするが、その際に捩じられた右足に痛みが走り、変な違和感を覚える。

「どうした、チャンピオン」

 ほんの数秒、立ち上がるのが遅れた有岡の右足に、ドラゴン金田はエルボードロップを叩きつけた。

 体重を乗せた肘鉄が、違和感を覚えた右足の脹脛に直撃。そして有岡が堪えきれる許容量を越えた「痛み」が走る。

 悲鳴。それは、演出ではなく、本当の悲鳴。

 そして、ドラゴン金田は完全に無防備になった有岡に膝十字固めを極めた。




 そこで、夢が覚めた。

 目の前にあるのは、ドームの天井から降り注がれる照明ではなく、一面に広がる白。背中から感じるのは、マットの硬い感触ではなく、ベッドの柔らかいクッション。

 自分がなぜそこに居るのか、金田は理解できない。落ち着こうとするが、それを拒絶するかのように頭痛が走った。そして次に、右腕や身体全身に鈍い痛みが襲った。

 痛みで意識がはっきりとすると、自分の頭に包帯が巻かれていること、そして右腕にギブスが嵌められていることを認識する。

「まだ安静していろ」

 隣から、男の声が聞こえた。恐らく、数年ぶりに耳にする、あの男の声。金田は痛みを我慢しつつ、ベッドから上半身を起こした。

 白を基調とした、個室。微かに漂うアルコールの匂い。自分は、病院に居ると確信する。

「言うことを聞かねぇ野郎だ」

 金田はその声の主を確かめようとして、顔を左へ向ける。

 視線の先には、丸椅子に座っているスーツ姿の男がこちらを見ていた。

「社長――猪江さんですか」

 オールバックに整えた黒髪に、丸みのおびた顎と伏目。スーツの上からでも分かるぐらいに込みあがった筋肉。言うことを聞かない子どもに、苦笑いするかのような表情を浮かべている。

 金田の横で座っている男は、元青海プロレス、現PWWプロフェッショナル・レスリング・ワールドの社長である、猪江信二いのえしんじだった。

「久しぶりだな、ドラゴン金田」

「その名前はもう名乗らないって、決めたはずですが」

 他人行儀な口調で、金田は猪江に冷たい口調であしらう。そんな態度を取る金田に、猪江は笑った。

「相変わらずだな。で、自分がどうしてここに居るのか、理解できたか」

 金田が覚えている記憶では、ストリートファイトで負けたという事実。腕を折られ、顔面に蹴りを入れられたところで、記憶が遮断されている。

「俺のところに、杉本さんから電話が入ってな。ビルの路地裏に、お前が倒れていると」

 金田は唇を思い切り噛み締める。、

「右腕の骨折、後頭部の陥没、その他四肢への打撲」

 猪江は淡々と金田の損傷を述べる。

「分かっただろ、金田。お前が杉本さんに怪我を負わせたことについては、何も言わん。しかし、これがストリートファイトであり、敗北だ」

 反論の余地がない言葉を、猪江は金田に投げかけた。

「もうお前は闘えない。台本の中でも、筋書き無しの場でもな」

 そこまで言うと、猪江はゆっくりと椅子から腰を上げる。そして、そのまま病室を去ろうとした。

「右腕が折れてても、左腕があれば。両腕が折れても、足さえあれば。俺はまだ闘える」

 ドアノブに手を掛けようとしていた猪江は、金田の怒号を聞いて、動きを止めた。

 数秒の無音の後、猪江は片足で床を蹴り上げ、横向きの状態で右足を真っ直ぐ伸ばし――トラースキックを放った。

 床をバネにしたその蹴り技は、二メートルほど離れた金田に右足の踵が突き刺さるように襲い掛かる。金田は頭を左へ逸らし、回避。

 猪江のトラースキックは、金田の後ろの壁に埋め込まれているナースコールの機械に直撃し、粉砕する。割れたガラスやプラスチックの破片が、金田の背中に落ちていった。

「腐っても、メインイベンターか」

 ナースコールを破壊した右足の革靴をゆっくりと離し、両足を床へ付けた猪江は、殺気立った表情で金田を見る。金田自身、まるで弾丸のように放たれたトラースキックをもう一度、回避できる自信はなかった。

「ま、お前のその言葉を聞いて安心した。俺はこれで失礼するよ」

 まるで金田を試していたかのような、思わせぶりな言葉を猪江は言うと、乱れたネクタイやスーツを整える動作をして、踵を返した。そして彼はもう一度、病室のドアへ向かう。

「金田、お前のその気合いに免じて、二つだけ伝えておくことがある」

 ドアの手前で、背中を向けたまま猪江は金田に話しかけた。

「一つ。俺の知り合いだが、華剛合気道の藤田先生がお前に会いたいそうだ」

「二つ。お前を倒したストリートファイターに、俺は興味を持っている」

 最後の言葉に、金田は背筋に悪寒が走った。

「猪江さん、何を企んでいるんですか」

 猪江は「興味」を持っていることに、金田は気付いていた。

「企んでいねぇよ。俺はあくまでプロレスラーだ。金田や杉本さんみたいに、肉体を破壊して、血を流すようなマネは、観客が望んじゃいねぇ。総合だってそうさ。ノールールの格闘技なんて、ただの殺し合いだよ」

 猪江の言葉に、嘘はないと金田は悟った。

 プロレスラー、ビッグダディ猪江として。彼は観客を楽しませる、最高のエンターテイナー。だからこそ、真剣勝負を求めた金田とはベクトルが違う存在。

「猪江信二。個人では別の話だ」

 金田は何も言わない。個人の話なら別だ。それは、ドラゴン金田というリングネームを捨てた自分と、全く同じことだった。

「ま、さっき言った件だが、お前の腕が治る頃に片付けたらいい」

 話はそこまでだ、と言わんばかりの猪江はドアを開けようとした。

「金田さん、何があったんですか」

 その瞬間、慌ただしい声で看護士がドアを開けて部屋へ入っら。が、目の前で立っている猪江へ見て、立ち止まった。恐らく、看護士が来たのは先程のトラースキックでナースコールが誤作動したのだろうか。

 看護士は何ともない金田と、鉢合わせしてしまった猪江を交互に見た後、破壊されたナースコールを見たのか、絶句している。

「ナースコール、請求書はうちの会社宛に送っといてくれ」

 面倒なことになるうちに、猪江は看護士の肩を叩いて、スーツの胸ポケットから自分の名刺を差し出した。




「うむ。ちゃんとやれてますね。そこから、このようにして腕を極めるのです」

 平日の昼時。藤田友則は、自分の弟子に四方投げをしようとしている主婦の手を取りながら、優しく指導する。

 テレビで藤田の合気道が紹介されて以降、入門をする人が地道に増えている。その殆どが主婦で、弟子たちによると、なんでも今人気の戦隊ヒーロードラマの主役が、合気道を武器にしているらしい。

 確かにあのディレクターはそんなことを言っていたが、それでこうも門下生が増えるものなのか。だが、流行が廃れると、また昔に戻るだろう。

 あの日の出来事から、既に三ヶ月は経っている。

「上出来です」

 そうならないためにも、藤田はしっかりと合気道を教えるしかない。

 だが、それも徐々に物足りなくなっているのは確かだった。

「今日の稽古は終わりです。最後に禅を組みましょう」

 藤田はそう言いながら、弟子たちと門下生を一列に並ばせ、禅を組ませる。一時の沈黙が流れる道場。それぞれは、心を落ち着かせる。

 しかし、藤田は違った。彼は昨日の夜の、ストリートファイトを思い出していた。

 路地裏で、キックボクシングの元アマチュアとの対決。

 向こうもそれなりの場数を踏んでいるのか、前蹴りやミドルキックの応酬にに藤田は中々近づけなかった。

 しかし、藤田は冷静に牽制であるミドルキックを寸前で回避し、「首刈り」を放った。

 右手の人差し指を折り曲げ、第二関節の部分を使って、相手の喉元に打突を繰り出す、古武術華剛流の打撃技。

 折り曲げた指の関節は、力が込めやすい。それは筋力の衰えが出てきた藤田にとって、貴重な打撃技だった。

 相手の喉仏に、一点集中の力が込められた「首刈り」は、男をよろめかすに充分すぎるほどだった。

 後ろへたじろく男の右腕に、藤田は複雑に腕を絡ませ、関節を極める。男は為す術もなく、身体を返しながら、右腕を空に向かって掲げた。

 さらに藤田は、男の左手を背後へ回すように自身の左手で掴む。そうすることによって、男は関節が極められた右腕が頭上へ、そして左手は背後に。

 右腕が極められているため、男は動くことができない。さらに、左手も捕縛されているため、受け身すら取れない危険な状況。

「この技は危険ですよ」

 藤田はまるで恐怖を植え付けるように、背中合わせになった男の耳元で囁いた。そして次の瞬間、男は背負いの要領で、地面に向かって投げられた。

 寸前の所で、男は首を逸らして、脳天に直撃することを避ける。しかし藤田は、地面に叩きつける直前に極めていた右腕の関節を折った。

 突然の激痛に、男は首を逸らすことができないまま、頭からアスファルトの地面へ叩きつけられた。そこで、男の意識は途絶えてしまう。

「古武術華剛流、『千鶴落とし』」

 四方投げと背負い投げを複合させた技。相手の右腕の関節と左手を捕った状態で、背負い投げをしつつ、相手の関節を折る「千鶴落とし」。

 危険すぎる故に「地獄落とし」という異名を持つ。

 もちろん、藤田は相手を殺すつもりはない。手加減をしている。

 肘を折られ、痙攣している相手を一瞥し、藤田は踵を返した。

「止めっ――それでは、昼稽古は終わります。また夜もありますので、参加をお待ちしております。」

 感慨に耽るのを止めた藤田は、いつものように禅を終わらせ、締めの言葉を簡潔に述べる。

「ありがとうございました」 

 稽古を終えた彼らの、精一杯の言葉。今の藤田にはそれが、とても味気ないものだと感じてしまった。

 ゆっくりと立ち上がった藤田は夜に備えて、少しだけ昼寝をしようと思い立つ。細かいことは、弟子たちに任せているため、自分の仕事というのはあまりない。

「藤田先生」

 道場から出て行こうとする藤田を、坊主頭の弟子が呼び止めた。

「どうしました」

「先生に会うのを約束していた、と言っている客人がお見えに」

 はて、会う約束をしていた人など居ただろうか。もしかしたら、自分が忘れている案件があっただろうか。

 藤田は自分の記憶力に、自信が無くなった。

 必死に頭の中で、約束事を思い出そうとするが中々出てこない。

「金田という、大柄の男性ですが」

 藤田の事を察してか、弟子は客人の名を告げる。それを聞いて藤田は独りでに納得しながら、手を叩いた。

「ああ、彼か。通してあげなさい。それと、ここで二人っきりで話したいので、お願いしますよ」

 藤田の言葉に弟子は返事をしながら、呑気に世間話をしている主婦たちを、やんわりと道場から追い出す。数分もしないうちに、主婦たちは道場から出ていき、藤田だけとなった。

「案外、せっかちな性格をしているのだね」

 顎に生えた無精髭を擦りながら、藤田はぼそりと呟く。

 そうか、彼が「闘って」から、もう二ヶ月が経ったのか。時間の流れに、藤田は感慨を抱きながら、正面を向く。

 彼の視線の先、道場の入口に二人の男が居た。

 一人は、藤田の弟子。

 もう一人は、スポーツ刈りが良く似合う、大柄の男。

 大柄の男は顎髭を蓄え、掴みどころのない目つきをしている。彼が着ている半袖のポロシャツから、くっきりと浮かぶ筋肉が自己主張していた。一目見ただけで、スポーツあるいは格闘技が好きな人物だと分かってしまう、そんな風貌。

「さぁどうぞこちらへ」

 藤田はそう言いながら、その場で正座をする。

 促された金田は靴を脱いで、道場へ入る手前で一礼をする。それを見て、ますます藤田は彼の事が気に入った。金田を連れてきた弟子は「失礼します」と言い残して、その場から去る。

 道場には、藤田と金田だけとなった。

 金田は藤田の目の前まで来ると、彼と同じように正座の姿勢を作った。

「腕の調子はいいのかね」

 三角締めでへし折られた金田の右腕を、藤田は指す。

 金田は、腕のことを真っ先に聞かれたことによって疑惑の表情を微かに浮かべた。

「二ヶ月もあれば、治りますよ」

 藤田のことを探りながら、金田は右腕を見せつけながら返事をする。

「元気なのはいいねぇ」

 藤田はそう言いながら、笑い声を上げた。

「猪江さんから、お話を聞いています」

 話の腰を折るような、改まった口調で金田は話題を切り出す。藤田は笑うのを止めて、真剣な表情でこちらを見る金田を見た。

「信二さんとは、知己のようなものでね。私が入院した時には、真っ先に駆けつけてくれたよ」

 話の筋が見えない。

 そんな表情を浮かべる金田を無視して、藤田は語り出す。

「あの日、私はある空手家とストリートファイトをした。否、彼が生粋の空手家であるかどうか、私には分からない」

 そこまで話せば充分だろう。藤田はそう思うと、金田の顔を見た。

 殺気立った目をする、金田。それは藤田に向けられておらず、その向こう側――お互いに敗北を叩き込まれた、あの空手家へ向けたのものだった。

 それと同時に金田は、疑惑に感じていた藤田の全体像をようやく掴んだ。自分と同じ、「ストリートファイター」であることを。

「私は彼と闘い、分かったのだよ。武とは何たるものか。もちろん、合気道を否定するわけではない。金田くんも、私と同じだ。私も君も、それぞれが立っている『舞台』では、物足りなくなった。だから真剣勝負でしかスリルを味わえない」

「何が言いたいのです、藤田先生」

「簡単な話です。今ここで私は君に試合を申し込む」

 藤田はゆっくりと立ち上がった。彼から発せられる剥き出しに煽られ、金田は即座に立ち上がると、距離を離した。

「『お話』があると聞いて、伺ったわけですが」

「今ので、ちょうど終わった」

 ゆっくりと構える藤田を見ながら、金田もまた促されるようにファイティングポーズを取る。

 そこまで見て、藤田はもう充分だろうと安心すると、構えを解いた。

「うむ、さすがはプロレスラーというべきか」

 カッカッカと笑いながら、先程までの気迫の片鱗すら見せず、藤田はその場で胡坐をかいた。

 対する金田は何がなんだか分からず、ただ腰を下ろした藤田を見ることしかできない。

「腕が治ったばかりの金田くんに勝負を挑むほど。私は飢えていない」

「それで、こんな茶番をしてまで何がしたいのです」

 金田は少し不機嫌な声色で言いながら、藤田と同じ胡坐座りをする。

「君のような生粋の格闘家とは、近い内に腰を据えて話しがしてみたいものだ――いや、脱線してしまったようだね、すまない」

 一呼吸ついて、藤田は金田を見る。

「こうして君を呼んだのは、他でもない」

 話の本題に入ったのを確信したのか、金田は藤田を真剣な眼差しで見つめる。藤田の、次の言葉を待つような視線だった。

「君に『古武術華剛流』を伝授したい。他ならぬ『虎狩り』のために」

 



「そういえば、もうそろそろか」

 朱雀館の稽古場の片隅。道着姿の亀山満は両手を後頭部に当ててスクワットをしながら、諏訪田に話しかけた。

 既に今日の稽古は終了しており、門下生たちは片付けに入っている。しかし、一部の門下生は別だった。

 もう一度、組手を開始する者や亀山のように筋力トレーニングに励む者。あるいは、諏訪田のように「瓦割り」を。もっとも、諏訪田だけが特別なことをしていた。

「開催は十月でしたっけ。今回から館長の誕生月に合わせるとかで」

 諏訪田はブルーシートの上で固定され、タオルが敷かれた先頭の瓦――その後に重ねられた四枚――に向けて、軽く拳を叩きながら、亀山と会話をしていた。

 話の内容は、第十回目となる朱雀館内でのトーナメント「龍神大会」についてだった。

 前回優勝した亀山や、三回目の出場でベスト8にまで残った諏訪田を含め、「有力者」は稽古が終わっても居残って練習することが許されている。

「確かそうだったな。それで、なんで瓦割りなんてやり始めるんだい」

 他の門下生に瓦割りの準備をさせた諏訪田に、亀山は疑問に満ちた表情で問いかける。

「あれ、知りませんでしたか。今回の演武で、自分が瓦割りをやることになったのを」

「あぁ、なるほど。数で分かっていたが、拳を痛めるなよ」

 気づかれていたか、と諏訪田はそう思いながら、釘を刺した亀山に彼は苦笑いを浮かべる。

 諏訪田が割ろうとしている瓦は、演武などで使われる「試し割り用瓦」ではなく、実際の家屋で使われる「瓦」だった。

 試し割りの瓦は割りやすいように材質が変えられているものの、素人では一枚も割れるかどうか怪しい。

 しかし諏訪田のような空手家なら、試し割りの瓦であれば十五枚以上は余裕。しかし正真正銘の「瓦」になると、話は別だった。

 諏訪田はまだやったことがない、「瓦割り」を試そうとしていた。数は五枚に抑えているが、全部割れるかどうかも怪しい。

 それは諏訪田を含め、他の有段者さえも怪しいところだった。

「どっちにしろ、演武のときは試し割りだろ」

「自分の実力、確かめたいじゃないですか」

 子供じみた反論を諏訪田は亀山に言いながら、息吹をする。稽古場に響く、諏訪田の呼吸。

 諏訪田と亀山の話を聞いていた他の門下生たちは一旦練習を止めて、彼に視線を集中させた。

 精神を統一させた諏訪田は、瓦に向けて右拳――ではなく、右足を頭にまで振り上げた。

 そのまま、踵を瓦に向けて一気に振り降ろす。

「セイヤッ」

 掛け声と同時に、「踵落とし」の直撃を受けた瓦の一枚目が割れる。そのまま勢いを止まず、踵は残る四枚を粉砕した。

 右足をブルーシート越しの板張りの床へ付け、諏訪田は残心を取る。

 彼の目の前に残ったのは、真っ二つに割れた「瓦」の残骸だった。

「いいね」

 亀山はスクワットを続けながら、諏訪田に称賛を送る。

「諏訪田、おめぇちょっとアピールしすぎじゃねぇか」

 瓦割りを見ていた他の門下生は表情こそ出さなかったが、諏訪田の実力の片鱗を感じ取ったに違いない。

 亀山は笑いながら、己が実力を見せつけた諏訪田を茶化した。

 諏訪田は深呼吸をしながら、眼前に残骸を遺した瓦を見る。

(ようやくモノにできた踵落とし。今日の夜にでも使いたい)

 諏訪田にとって龍神大会は重要だ。しかし、ベスト8以上を目指すにはもっと実力を付けなければならない。そのために他の道場で腕を磨いても、限界が来てしまう。

 今日の稽古が終わった後、少なくとも四回はストリートファイトをしたい。

 諏訪田は努力で、龍神大会のベスト8に昇り詰めた。

 しかし、「才能と努力」、その両方を持った優勝候補の亀山に勝つために、もっと場数を踏まなければならない。だが朱雀館の練習では、その域に到達するのに時間がかかる。

 そのために諏訪田は、血生臭いストリートファイトで経験を積んでいた。もっとも、朱雀館に入る前から彼はそれを行っていたのだが。

 朱雀館に入る前の諏訪田は、ごく平凡な実力を持った黒帯。それも、一度は空手を引退した身だった。

 しかし、ある日を境にして「ストリートファイト」を知った諏訪田は、自分が持っている「空手」の、本当の実力を思い知った。

「亀山さん、少しだけ組手してもいいでしょうか」

 ブルーシートに散らばった瓦を片付けながら、諏訪田はスクワットを続ける亀山に話しかけた。もちろん、彼がこうして筋トレをやっているのも、諏訪田を「誘っている」ことだと気付いている。

「待っていたぜ、その言葉」

 豪快に笑いながら、亀山はスクワットを中断する。

「少しとは言わず、がっつりやろうや」

 軽く柔軟運動をしている亀山に、諏訪田は笑顔で応える。

 そんな二人を見てか、帰り支度をしようとする門下生が数人、諏訪田の代わりに瓦の残骸を片付け始める。

 諏訪田は彼らに礼を言いながら、組手が出来るスペースへ移動した。

「諏訪田、お前さんに期待しているからな」

「煽てても何も出ませんよ、亀山さん」

 お互いに構えながら、軽口を叩き合う。

 諏訪田は思う。

 何としてでも、この男――亀山満に勝ちたいと。その一心のために、諏訪田は空手を、ストリートファイトを続けていた。

 そして諏訪田が血生臭いストリートファイトを求める原点となった、決定的な人生の転換期。

 四年前、朱雀館に入門する前の出来事。

 蒸し暑い夏の夜に起きた、事件だった。

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