第四話「遭遇戦」
「大阪に空手はあり」という謳い文句さえ出てきた、フルコンタクト空手の名門「朱雀館」の本部。その道場では、厳しい稽古の最後に組手が行われていた。そして今日最後の組手が始まろうとしている。
「構えて」
板張りの道場で、三人の男が立っていた。どちらも道着を着ており、腰を黒帯を締めている。その他の門下生は正座の姿勢のまま、審判と組手を行う二人を挟むようにして道場の壁に背中を合わすように列を組む。
朱雀館二段を持つ船林正弘のコンディションは絶好調だった。
技にキレとスピードが乗っている。単なる「絶好調」ではない。ようやく「コツ」を掴んだからだ。
打撃と打撃の合間に行う呼吸、体重の乗せ方、相手の視線を考える防御の仕方。ここ数週間の淀みが、ようやく今日払拭できた。
船林は、自分と同じ構えを取る男――同じ朱雀館の三段を所持する諏訪田を睨む。百七十センチの自分より少し身長が高く、体重もほぼ一緒。
前髪と側頭部を短く切り、その顔はどこにでもいるような好青年そのものだった。しかし、柔和な表情からは想像できないぐらいに、彼は朱雀館の三段を二十四歳で授かっている。
船林は三つ下で、尚且つ四年前に朱雀館へ入門した諏訪田に段位で負けている。組手は無論、ここ数年の龍神大会――朱雀館内でのトーナメント選手権――で諏訪田に全敗を喫している。このことを負い目に感じている船林にとって、このコンディションで諏訪田と組手をすることは千載一遇のチャンスだった。
(勝てれば値千金)
気分が高揚する。船橋は心身ともに、この組手に全身全霊をかけた。
「はじめっ」
審判を務める男から威勢の良い声が出た瞬間、間髪を入れずに船橋は下段蹴りを諏訪田の右足へ叩き込む。鈍い音と同時に諏訪田の脚がぐらついた。それを船橋は見逃さない。
摺り足を使って二歩ほど下がり、中段蹴りを繰り出す。さすがの諏訪田も片腕を使って防ぐが、蹴りの重さに身体が振り回された。
短く呼吸を切りながら、船林は姿勢を崩した諏訪田の胸板に正拳突きと貫手を浴びせる。鍛えに鍛えた筋肉の壁に打撃を叩き込まれるが、諏訪田はびくともしない。だが諏訪田も、ここでようやく反撃を行った。
お互いの吐息が聞こえるほどの至近距離。腹部、脚部、胸元に向けて、正拳突きや貫手、中段下段蹴りの応酬。
船林と諏訪田はそれらを捌きながら、その一方で防げなかったそれを肉体で受け止める。
我慢比べ。
空手の打ち合いを、侮蔑を込めて言う人が居る。しかし、空手が「武道」である以上、耐えるという「精神」が必要不可欠だった。瓦割り、スイカに貫手、木製のバットを下段蹴りでへし折る。
肉体を痛める練習。
空手は「格闘技」ではなく「武道」。だからこそ、不恰好ともいえるこの打ち合いが、空手が空手であるための行為だった。
正拳突きを繰り出す船林は、諏訪田の動きに乱れが出ているのが分かった。
下段や中段蹴りはうまく捌いているが、正拳突きや貫手を捌ききれずに受け止めている。そして受け止めた打撃によって、諏訪田の動きに淀みが出ていた。
(畳み掛ける)
船林は息吹を行い、ラッシュをかける。下段、中段蹴りと正拳突きの乱れうち。そのラッシュをまともに受けた諏訪田は、とうとう構えを崩してしまった。
この瞬間を待っていた。
船林の身体は自然に上段蹴りを繰り出していた。構えを崩し、完全にノーマークとなった諏訪田の頭部。冴えに冴えた行動。
しかし船林の背足は、諏訪田の頭部に直撃しなかった。上段蹴りにタイミングを合わせるかのように、諏訪田は腰を低くしながら前廻りをするのを船林は見た。
胴廻し回転蹴り。
次の瞬間、船林の頭部に諏訪田の踵が直撃した。脳が揺さぶられる衝撃と共に、両脚を床に付けていた船林はその力が急に抜けたことを感じる。踏ん張ろうにも踏ん張りきれず、そのままゆっくりと倒れた。
「一本」
審判が狼狽した声を上げると、倒れてしまった船林へ駆け寄る。一方の諏訪田はゆっくりと立ち上がると、失神した船林を見るなり、バツの悪そうな顔をした。
「おう、諏訪田」
今日の稽古が終わった後、着替え室で道着を畳んでいた諏訪田に、道着姿の亀山が声をかける。
「亀山さん、どうしたのですか。」
畳んだ道着を、エナメルバックに仕舞い込んだ諏訪田は、こちらに近づく亀山に声をかけた。すると彼は、ポンと諏訪田の肩を叩く。
ごつごつとした岩を思わせるような亀山の指が、ポロシャツ越しに伝わる。
「さっきの組手なんだが。俺の言いたいこと分かるよな」
亀山の言葉の後、少しだけ指の力が入っていることを諏訪田は気付く。もちろん、亀山がわざとそうしていることも見抜いていた。
「お前が船林を失神させたのは問題じゃねぇ。諏訪田、もうちょっとリラックスしろや」
少し苛立った口調で諏訪田を諭した亀山は最後、彼の背中を軽く叩いた。
「ええ。そうしてみます」
亀山に気付かれていた。さすがと言うべきか、否か。
少し前のストリートファイト――合気道家である、藤田との一戦が未だ心に残っていた。彼はあの後、ストリートファイターとして活動をしているらしい。
彼と戦った全員が、人体を破壊されている。あの日を境に、藤田は己の鎖を引き千切った。そんな彼と戦うのを想像した諏訪田にとって、朱雀館の組手はひどく味気ないものとなりつつあった。
「今日は確か、キックボクシングか」
身支度を済ませた諏訪田に、さっきとは全く違った軽い調子で諏訪田に話を振った。
最後の組手が終わっても、朱雀館では自由練習と称した、クールダウンのそれが行われている。しかし、今日は木曜日。諏訪田は朱雀館の他に、市内でキックボクシングのジムへ通っていた。今日がその日だった。
「二足の草鞋を穿くと、調子が狂ってしまう門下生も多い。が、諏訪田は大丈夫だな。キックボクシングやってから、蹴りのキレが良くなってるしよ」
「ありがとうございます。それでは、自分はこれで」
控えめな返事をした後、諏訪田は亀山にお辞儀をしつつ、着替え室から出た。
大阪梅田のビル街。時刻は十八時を回っており、そこかしらで仕事終わりのサラリーマンが今日の飲み会の場所を選別する話をしていた。
そんな中を、金田は黙々と歩いていた。彼の右手には、一枚のパーカーが握られている。
一週間前、金田は雨宮とストリートファイトをした。結果は引き分け。その際に、失神した金田は雨宮に布団代わりのパーカーを預けられていた。
そして今日、その借りを返すために金田は、雨宮が所属しているキックボクシングのジムへ向かっていた。
「ここか」
小さなビルの入り口前で金田は立ち止まる。三階に位置する外壁のガラスには、「杉本キックボクシング」と大きく書かれていた。
「ん、入会希望か」
ジムのドアを潜るなり、浅黒い日焼けした肌をしている、タンクトップ姿の男が金田に声をかけた。ジム自体の広さは中々のもので、しっかりと組み立てられたリングが二個置かれている。結構な設備があるといって過言ではない。
金田はジムを吟味した後、右手に持っていたパーカーを男に見せる。
「ちょっとした用事だ。雨宮は居るか」
雨宮良治と刺繍が彫られた右肩の部分を見せると、男は眉を顰めた。
「あいつは今、合同練習で居ないんだ。忘れ物なら預かっておくが」
「そうしてくれ」
もし雨宮が居たのなら、この前の借りを返そうとしたが、居ないならしょうがない。金田は男にパーカーを預けると、そのまま踵を返し、ジムから出て行こうとした。
「もう帰ってしまうのか」
そのとき、一際大きな打撃音と同時に金田を引き留める声がした。
呼び止められた金田は立ち止まり、ゆっくりと顔だけを後ろへ向ける。
「あんた、ドラゴン金田さんだろ」
ジムの中央に設けられたリングの上で、二人の男が居た。一人は、ヘッドギアを装着し、キック用の長方形ミットを手にした男。そして、その男が持っているミットにミドルキックを放った男。
金田を呼び止めたのは、後者だった。
「遊んでいきなよ。あんたが杉本コーチと雨宮にストリートファイトしたってのは、みんなが知ってるぜ」
ボクサーパンツと、肌に密着するアンダーシャツを着た短髪の男はもう一発、ミットへミドルキックを放った。
静まり返ったジムに響き渡る、鞭のような打撃音。金田は鼻で笑い、男が居るリングへ近づこうとする。
「綾野、やめんか」
雨宮のパーカーを渡した、タンクトップ姿の男が怒鳴り声を上げる。
金田を引き留めた男――綾野はすまし顔で、リングのロープに凭れながら、タンクトップ姿の男と金田を交互に見る。
「川尻先生。俺らは喧嘩売れてるんですよ。」
半笑いを浮かべる綾野の表情は、茶化しているというより、怒りが交じっていた。その証拠に彼は、リングのトップロープを握り締めている。
「先生が止めても、他の人らが黙っているはずないでしょう」
川尻、と呼ばれたタンクトップ姿の男は周囲を見回す。練習に勤しんでいた門下生は皆、綾野の意見に賛同するかのように、金田を睨みつけていた。
その迫力に押され、川尻は腕組みをしながら一歩下がる。
「なら話は早えな」
片腕を風車のように振り回しながら、金田はリングへ近づく。
「そうこなくちゃ、ドラゴン金田さん」
嫌味を込めた口調をしつつ、綾野はロープから離れる。彼の打撃練習を付き合っていた、ヘッドギアの男は綾野の肩を軽く叩き、静かに激励するとリングから降りた。
慣れた手つきでリングに上がった金田はゆっくりとTシャツを脱ぎ捨て、コーナートップへそれを掛けた。
「ルールは」
金田はストレッチで身体をほぐしながら、試合形式を問う。
「1ラウンド、10分。組み技、投げ技及びローブローは禁止。どちらかが倒れたら、試合終了だ」
後ろからルールを説明する川尻の声が聞こえると、リングの中央に水色のボクサーグラブが投げられた。金田はそれを拾い、両手に嵌めながら、青コーナーへ戻る。彼の対面、赤コーナーには綾野が凭れていた。
「BOX」
川尻が試合開始を告げる掛け声と同時に、ゴングが鳴る。その瞬間、リングに立っている綾野と金田は一斉に構えた。
綾野の構えは、拳の位置を顎の下まで落とした、ダウン気味に。一方の金田は綾野よりも構えを下げており、胸元まで。
ゆっくりと両者は近づく。リング中央で、二人の牽制技が届く距離になったとき、綾野が仕掛けた。軽い右ジャブを、金田の頬へ。
すぐに反応できる速度。綾野は冷静に、金田はどういう対応をするのか把握したかった。
彼の右ジャブは、なぜかガードされず、金田の顔面へ直撃。
「え」
思わず声が出る。しかし、冷静に綾野は対処する。すぐに左のジャブを加えた、ワンツー。そしてそれも無防備な金田の顔面へ当たった瞬間、次は右フックを打ちこんだ。
重い一撃は、またしても金田の頬を打ち抜くはずだった。が、右のグローブが押し止められていた。金田の首によって。
――不味い。
綾野はそう思い、すぐに後退しようとしたその瞬間、お返しとばかりに金田は右のアッパーカットを放った。それに気づいた綾野は慌てて顎を引き、両腕でガードする。
だが、金田のアッパーは、綾野のきっちりとしまった両腕の割れ目を強引に突き破った。
顎を引いたせいで、その一撃は顔面に直撃。綾野の意識はまるで、脳を揺さぶられたかのように前後左右へ回転。方向感覚を失った後、視界が真っ黒に染まった。
「呆気ねぇ」
金田は首を回しながら、鼻で笑う。あれほど粋がっていた綾野は、焦点が定まってない目を浮かべて倒れていた。
時間にして、二十秒もかからなかった。
「綾野」
川尻と、数名が慌ててリングに上がる。仲間に介抱される綾野の目を、ペンライトで確かめながら、川尻はため息をつく。
「あんたの勝ちだ。時間を取らせてすまないが、騒ぎを起こしたくない」
「そうするつもりだ。雨宮に、俺が来てたことを教えておけよ」
金田はミットを外し、その場で落とす。
「綾野が目を覚ましたら言ってやれ。『体重差で負けたんじゃない』ってな」
あっさりと終わってしまった試合に対し、金田は不機嫌になっていた。彼はコーナートップに掛けていたシャツを着て、そのままリングへ降りる。背後から視線を感じながら、ジムを後にした。
「つまんねぇ」
ジムを出た金田は、細長い廊下を歩いている。エレベーターを使う気にはなれないので、階段を使う予定だった。
思わず不満が口に出てしまうぐらいに、さっきの試合は酷かった。子どもの喧嘩。そう言い切ってしまうぐらいに、金田にとって何も残らなかった。
綾野以外に誰かが勝負を申し込んでくるかと思いきや、誰もが辟易としていた。
舌打ちを鳴らす金田の前方に、ポロシャツ姿の男が見えた。エラメルのバッグを肩に掛けており、杉本キックボクシングの門下生だろう。
廊下を歩く金田は視線を落としたまま、その男とすれ違う。そして、彼は足を止めた。
「へっ。こんなところに、上物が居たとはな。そうだろ」
金田と、男しか居ない廊下。すれ違った男も足を止めていた。
お互いに背を向けたまま、無音が続く。
「杉本と雨宮。お前がそうだったのか」
ここまで有名になった覚えはないが、警察沙汰になるよりマシだった。金田は低い声で笑いながら、男の言葉を肯定する。
「てめぇんところのジム、まるでお子ちゃまの遊技場だな」
辛辣な言葉を、金田は吐く。だが男からは、反論が来なかった。同意見だろう。彼にとってあそこのジムは、技術だけを学ぶ場所に違いない。
「雨宮と杉本。あいつらぐらいしか、楽しませる奴が居ないと思っていたが――お前みたいな、飢えた野獣の臭いが染みついた奴が居るなんてよ」
金田はそこまで言うと、ゆっくりと階段に向かって歩き出した。
「このビルの路地裏がちょうどいいだろ。待ってるぜ」
男からの返事は来ない。金田は階段を一歩ずつ踏みしめながら、歪んだ笑みを浮かべた。あの男から感じる、ストリートファイターとしての素質。それは今まで出会ってきた奴の中で、飛びっきりの臭いを発していた。
思わず身震いをする。最後の最後に、あんな殺気立った奴と戦えるとは、金田は思ってもいなかったからだ。
もちろんそれは、これから杉本キックボクシングで取るに足らない技術を学ぼうとしていた、諏訪田も同じ考えだった。
杉本キックボクシングが置かれているビルの路地裏。誰も通らない、狭い空間。
十メートルほど離れた先に立つ、顎髭を蓄えた大男――金田を諏訪田は捉えていた。彼の噂は、諏訪田の耳に入っている。ストリートファイト界隈で有名な、クラッシャー(壊し屋)と大層な異名を持っている。
そして最近、金田が杉本と雨宮とストリートファイトを行ったのを聞いて、諏訪田は少しだけ楽しみにしていた。もし彼がその気なら、自分が所属している杉本キックボクシングのジムへ行くはずだと。
そうした期待を胸に秘めた結果、こうして彼と対峙することになった。
諏訪田は正面に構え、拳を目線の高さに合わせる。一方の金田は、右腕を少し前へ突出し、左腕を顎の下へになるように構えた。
カラスの鳴き声が聞こえた。それが合図となって、二人は距離を詰める。
先に仕掛けたのは、諏訪田。助走を付けて、三メートルも離れた距離から足刀蹴りを繰り出した。
金田はそれを両腕で防ぎ、片足だけで立っている諏訪田の左足をローキックで刈り取る。だがそれに彼は気付いており、繰り出した右の足を素早く地面へ叩きつけ、それを支点に左の上段蹴りを放った。
金田のローキックは空振りに終わり、頭を狙う上段蹴りを右腕で防ぐ。肉と骨にその衝撃が走り、思わず顔がにやける。
二人は仕切り直しをするかのように、距離を置く。
約二メートル。
踏込みを入れて、距離を詰める。諏訪田は目にも止まらぬ速さで、下段蹴りを金田の脹脛に叩きつける。
まるで風船が破裂したかのような音と同時に、金田はよろけた。確かな手応えを感じた諏訪田は、まるで岩のような金田の胸元に正拳突きを放った。
しかしこれは、金田にダメージを与えられない。右と左。交互に放った拳は弾き返される。それはまるで、サンドバックのような、感触。
そのせいで姿勢を崩した諏訪田に、金田は前蹴りを繰り出した。諏訪田は前屈みをすることによって、攻撃対象だった水月ではなく、胸部へ逸らす。
ごつごつとした足の甲と爪先が胸に直撃し、諏訪田の呼吸が詰まる。だが前蹴りを受け止めたことによって、諏訪田はそれを両手でキャッチすることができた。
「なっ」
金田は声を上げる。直後、諏訪田はキャッチした右足を左脇へ締め付けた。そのままテイクダウンを狙おうとする。
しかし金田は挟まれた右足を軸に、身体を捻らせながら跳躍。残っていた左脚を使って、諏訪田の頭に蹴りを叩き込んだ。
諏訪田は抑え込んだ右足を離して、防御せざるを得ない。
だが、金田は先程の蹴り技で倒れてしまい、起き上がろうとしている最中。それを諏訪田は見逃すはずがない。
両手を地面についた金田の顔面に、諏訪田はローキックを叩き込む。だが金田は、地面についた両手を勢いよく押し出すことによって、跳躍。その反動で後ろへ下がり、ローキックを回避した。
ふぅ、と息を吐く金田は立ち上がると同時にもう一度構え直す。
そして彼は十六文キックを放った。諏訪田の踏込みとは、比べものにならない速度と間合いの詰め。それは、対応しきれない諏訪田の顔面に直撃した。
シューズ越しに、人の顔を踏みつける感触。そのまま金田はギロチンの要領で、彼の顔面を捉えた十六文キックを、地面に叩きつける。その勢いは、諏訪田ごと地面に叩きつけるのに充分だった。
だが諏訪田は寸前の所で顔を逸らし、金田の足と地面のサンドイッチを回避。それに気づいた金田が、追い討ちをかけた。
仰向けになって倒れている諏訪田の腰に、金田は両足で挟む形で中腰に。その姿勢で金田は、ストレートパンチを繰り出した。諏訪田はそれを、両手でキャッチ。右の手首、そして腕を掴んだ。
金田は諏訪田を引き剥がそうとするが、彼は冷静だった。両足の踵を使って地面を蹴り上げる。さらにキャッチした金田の腕をバネにして、上半身を起こした。
体勢を立て直そうとする諏訪田に、金田は彼の腹部に向けて膝蹴りを叩き込んだ。諏訪田はあっさりとキャッチした金田の右腕を離し、両腕で膝蹴りを防御。
そして、片足立ちの状態になった金田の右脚を、諏訪田は水面蹴りで刈り取った。
「おっ」
金田はバランスを崩し、背中から倒れる。その間に諏訪田は起き上がると、金田へ馬乗りした。
諏訪田は金田の両腕を両膝で挟もうとするが、それに気づいた彼は馬乗り状態を脱しようと抵抗せず、顔を守るようにガードをする。
目論見が外れたのを悟った諏訪田は、マウントポジションを維持し、ガードが甘い金田の頬へパンチを繰り出す。が、金田は直前でガードを解除し、パンチを受け止めた。右頬に伝わる、裸拳の一撃。
そこで諏訪田は気付いた。相手は生粋のプロレスラーだということに。
決して軽くはないパンチの一撃を耐えつつ、両腕の自由が効いた金田はアッパーカットを放った。倒れている状態なので、力が入らない。しかし、そのカウンターは油断した諏訪田の顎へ直撃した。
諏訪田はその一撃によって仰け反り、マウントポジションを崩してしまう。身体にかかっている圧力が緩んだことを知った金田は、鼻血を垂らしながら上半身を起こした。
形勢逆転のチャンス。
金田は諏訪田の顔を右手で押さえつけ、そのまま地面へ叩きつけた。しかし諏訪田も防御意識が働き、顔を逸らして、後頭部ではなく頬を叩きつけさせた。
金田は、仰向けに倒れた諏訪田の腹部に片膝を乗せる。
ニーオンザベリー(浮固)。もう一つの足は、相手の力を抑えるために、しっかりと地に付けた。
諏訪田は体勢を立て直そうとするが、金田はそれを赤子をあやすように腹部に当てている膝を使って、制御する。
埒が明かないことを知った諏訪田は、自由が効く足技を繰り出すが、膝による圧力を腹部に加えられているため、思った以上に力が入らない。
「終わりだ」
空手家、それも総合格闘技を嗜んだ諏訪田に金田は称賛を送りつつ、勝負を終わらせる。
顔面を狙った、鉄槌。それは諏訪田の顔面を叩き潰した。
鼻がひしゃげる音。金田の右拳に、鼻血がべっとりと付着する。それでも金田は辞めず、もう一発叩き込もうとする。
鼻血を垂れ流す諏訪田は、地面に転がった小石を偶然にも右手で拾った。半ば無意識のまま、それを金田に叩きつける。
「くっ」
金田は呻き声をあげて、両目を細める。ニーオンザベリーを崩すのに充分だった。
諏訪田は身体を仰け反りつつ、金田を引き剥がし、立ち上がった。その間に金田も後ろへ下がりながら、目を擦りつつ向かい合った。
「お前みたいな奴と闘えて嬉しいぜ」
何でもありがルールのストリートファイトにとって、諏訪田が繰り出した石つぶては反則ではない。金田は、ようやく「ストリートファイトを分かっている男」に会えて、喜んでいた。
「楽しいな」
諏訪田もまた金田のような男に会えて、心底楽しんでいた。鼻から垂れる血を右手で拭きながら、諏訪田は笑う。それはまるで、修羅の如き表情だった。
そして二人は笑い合った後、攻撃を仕掛けた。
金田は、右のストレートパンチを繰り出す。踏込みを入れて、突きの要領で繰り出される。諏訪田はそれを右の手の平で受け止め、左手で腕を掴む。
支点を手に入れた諏訪田は跳躍し、左足と右足を金田の首を締め付けるように挟んだ。
飛び付き式の三角締め。更に金田の右手は地面ではなく、上空へ向けられている。つまり、腕ひしぎの状態になっていた。
三角締めを極められた金田は、どうすることもできずにその場で倒れる。
一方の諏訪田は躊躇いもせず、金田の腕を折ろうとした。だが金田は腕力に物を言わせ、右腕が張らないように抵抗しする。
だが諏訪田も諦めない。渾身の力を入れようとしたそのとき、彼の身体が宙に浮いた。
「だしゃあああああああああああ」
金田は中腰の体勢になると、三角締めをしている諏訪田ごと片腕を持ち上げた。そして、腰の高さまで持ち上げた瞬間、しがみ付く諏訪田を背中から地面に叩きつけた。
叩きつけられた衝撃と、背中に小石が突き刺さった痛みが諏訪田を襲う。だが諏訪田は諦めない。力を抜かずに、金田の腕を折ろうとする。
我慢比べ。どちらが先に「折れる」かの勝負へ入った。
金田は狂ったかのように、何回も諏訪田を叩きつける。だがそれも、長くは続かなかった。
靭帯が引き裂かれる、鈍い音。金田はそれを感じ取っていた。それに比例するかの如く、諏訪田の力が徐々に強くなる。
金田は腹を括る。
最後の一撃と言わんばかりに、金田は中腰の姿勢から徐々に立ち上がる。そして、三角締めをされている腕を肩の上まで持ち上げた。持ち上げられた諏訪田は、金田の意図を知る。
このまま叩きつければ、自分も無事では済まない。この高さだと、頭から地面に叩きつけることも可能だった。
不安定な体勢の故、思った以上に力が入らない。諏訪田は焦る気持ちを抑えきれず、叫んだ。そして、渾身の力を両手に込めた。
靭帯が引き裂かれる、歪な音。骨が折れる鈍い音。それらを感じ取った諏訪田の身体が、地面へ叩きつけられた。
手応えを感じた諏訪田は、叩きつけられる直前に金田から三角締めを解き、受け身を取っていた。
ゆっくりと立ち上がった諏訪田は、戦意喪失した金田の惨めな姿を見下ろした。
金田の右腕は、折れ曲がっていた。彼は痛みに耐えながら、呻き声を上げつつ、その場で蹲る。勝負は着いていた。
踵を返し、諏訪田は路地裏から表の世界へ向かおうとする。その時、獣のような唸り声が聞こえた。
「俺は諦めねぇぞ。いつか必ず、お前を倒す」
殺気立った金田の表情。歯を剥きだした彼の顔はまさしく、野犬そのものだった。
諏訪田は笑う。あまりにも情けない金田の姿に。そして彼はもう一度、金田と向き合う。
「負け犬が」
冷たく、彼は金田のことを吐き捨てる。そして、片膝を突いてこちらを睨む負け犬の顔に、諏訪田は中段回し蹴りを放つ。
無防備な金田の顔に、渾身の一撃。その一発で金田は半ば失神し、前のめりに倒れた。間髪を入れずに諏訪田は、防ぎようがない下段踵蹴りを金田の後頭部に叩き込んだ。
金田は地面に平伏したまま、小刻みに痙攣する。そして血が、彼の顔から広がった。
気が済んだ諏訪田は、無様な男に背中を見せつつ歩き出す。
「楽しかったなぁ」
鼻血に塗れた諏訪田は、歪な笑みを浮かべていた。