第三話「正直者」
ただならぬ空気が張り詰めていた。
畳が敷き詰められた小さな道場で、二人の男が向かい合っている。そのうちの一人は空手の胴着に、黒帯を締めた男性。坊主頭の、見るからに空手家の風貌を漂わせている。
そんな生粋の空手家と向かい合っているのが、白髪交じりのざんばら頭をした初老の男性だった。
彼は紺色の袴に白色の胴着を着ており、見るからに格闘技など到底できないような、そんな雰囲気を醸し出していた。
対照的。
半身立ちをする空手家に対して、袴を着た男は「構える」ということをせず、ただ立ち尽くしていた。
もちろん、先手を打ったのは空手家だった。
じりじりと距離を詰めた瞬間、気合いの息吹と同時に左の上段回し蹴りを放つ。狙うは男の側頭部。直撃すれば、致命傷は免れない。
しかし空手家の蹴りを、男は左手で足の甲を受け止め、さらに右手を使って脛を受け止める。左手にかかる衝撃を、脛という土台を使って右手に分散した。
空手家は慌てることなく右足を戻し、距離を離す。そして次は踏込みを入れ、突きの用量で繰り出す足刀蹴りを鳩尾に目がけて放った。前動作が大きいために、男は後退することによって回避。
だがそれは囮だった。
空手家は突きだした左足をすぐに床に付け、弓で絞るように右足を蹴りだし、右正拳突きを繰り出す。
あまりにも早すぎる一撃。伸びるように右拳が男の胸板へ直撃すると誰もが想像した。
男は冷静だった。
向かってくる右拳の甲の部分を捌くように右手で振り払う。お互いの右拳と右手の接触を保ったまま、男は踏込みを入れて空手家へ肉薄。
淀みのない動作で空手家の右肘に自分の左手首を挟みながら右手を押し上げる。空手家の右腕が直角に曲がったところで、男は右手と左手首を使って腕を絡ませる。
力が入っていない動作にも関わらず、空手家は為す術もなく体勢を崩した。そして男が気合いを入れた一声と同時に身体を捻り、縦一直線に「斬る」動作をする。空手家は押し倒されるように投げられ、背中が床に付いた。
さらに男は抵抗が無いように手首――関節技――を最後に極めた。
四方投げ。
最小限の動きと力で相手を制し、傷つけない――日本古来の総合武道「合気道」の基本的な技だった。
「参りました」
背中から投げられ、腕関節を極められた空手家は意気消沈といった声色で自分の負けを認める。
男は何も言わずに関節技を解く。空手家はその弟子らしき二、三人の男たちによって肩を担がれるようにその場から退場した。
するとマイクを持った女性リポーターが興奮冷めやらぬ顔で、道場に残っている男へ詰め寄る。
「合気道対空手。その闘いを制したのは、華剛合気会師範『藤田友則』さんの勝利です」
黄色い声援を送る女性リポーターに対して、藤田は無表情というより冷めた顔をしながら、少しだけずれた胴着をきちんと正す。
「藤田師範、お見事でした。今の投げ技、なんでしょうか。あれはどういう仕組みで投げたのでしょうか」
「合気道の基本的な技の一つである、四方投げです。我々合気道とは、相手の技を捌き、そして返す、ということを主流としています」
画面は先程の空手家対藤田の映像に戻り、繰り出された正拳突きを四方投げによって返す藤田の動きがスローモーションとなって再生される。
「先程の正拳突きに対して、私は『相手の攻撃を円状に捌きながら無効化』しています。これが『転換』という身体の動きです。そして次に相手の死角へ踏み込む『入り身』、その次に手刀によって相手の肘を崩し、腕を絡ませて相手の姿勢を崩す『円転の理』。この三つを駆使するのが四方投げです」
映像は、誰から見ても分かりやすいように四方投げの説明をしていた。
「合気道は、総合格闘技やフルコンタクト空手のように武力の勝ち負けを重視していません。争わない武道、動く禅、と言われるように精神力を高める武道です」
藤田の言葉に、女性リポーターは理解して無さそうな歓声を上げた。
諏訪田は高台に置かれたTVから視線を離し、目の前のテーブルに置かれた和風定食に向ける。
フルコンタクト空手の大手である朱雀館の本部が置かれている道場から、徒歩で五分離れた場所にこじんまりとした定食屋がある。味も値段も申し分なく、男手一つで生活している諏訪田にとってこの定食屋は、道場で流した汗や疲れを美味しい食べ物で癒してくれるかけがいのない場所だった。
大盛りの白米に、具沢山の味噌汁。白身魚に白菜のお新香と肉じゃが。
諏訪田が一番好きなメニューだ。
「つまんねぇか、諏訪田」
肉じゃがを咀嚼する諏訪田に、対面で豚肉と野菜炒めを箸に挟んでいる男がニヤニヤとしながら話しかけた。
スポーツ刈りをした頭に、尖った顎が印象的な顔。白色のポロシャツを着ているが、その上からでも分かるぐらいに逞しい筋肉がついていた。
朱雀館空手四段。諏訪田の師匠であり、朱雀館における「切り札」と称される亀山満は、豚肉と炒めた白菜を口の中へ入れる。
「やらせ、ですよね」
TVに映るバラエティ番組の、合気道の特集を見ていた諏訪田は面白くないといった表情をしていた。
「伝統派空手『伊豆見館』。あそこの道場、資金難で苦しいみたいだしこうした『やらせ』で食いつなぐしかねぇんだろ。合気道んところは知らねぇけどよ」
「亀山さんだったら、いくらお金積まれたらやってくれるんですか」
豚肉と野菜炒めを頬張る亀山は冗談じゃない、といった表情を浮かべる。
「馬鹿いうんじゃねぇよ、諏訪田。俺がそんなことしたら、館長に張り倒される」
そうでしたね、と諏訪田は笑い飛ばした。
亀山は、朱雀館の教えに反する「喧嘩に空手を使うべからず」を平然とやってのけている自分の本性を見たとき、どんな顔をするのか。諏訪田はそんな野暮なことを考えながら、お新香を口に入れる。
それにしても、先程の番組は面白くなかった。
伝統派とフルコンタクト。畑は違えど、同じ空手という枠組みに入る。たかが合気道ごときにやられるはずがないのだ。
ブラウン管のテレビは、藤田の冷めた表情を映し出している。しかし諏訪田には、この時の藤田が何を考えているのかすぐに分かった。
「はーい、カットぉ。ご苦労さーん」
口髭を生やし、サングラスをかけた中年の男の一声によって、今まで張り詰めていた空気が堰を切ったかのように和やかな雰囲気に変わった。カメラマンの後ろで視線を浴びせていたテレビ局のスタッフたちは、あっちこっちに向けて労いの言葉を投げかける。もちろん、藤田もその対象に入っていた。
「お疲れ様」
藤田のことを師範と呼んでいた女性レポーターはまるで性格をがらりと変えて、味気ない言葉を彼に言う。彼女はお辞儀もせずにその場からそそくさと立ち去った。その後ろを、飲料水が入ったペットボトルを持ったスタッフが駆け足で後を追う。
今までの仕草表情がまるっきりの演技だったことに、藤田は戸惑いを隠しきれなかった。
「いやー、藤田さん。いい画が撮れましたわぁ」
一声によって道場を喧噪にさせた中年男性が、笑いながら藤田に近づいた。
(うちのテレビ局、ヒーロー戦隊モノのドラマを朝からやっておりましてね。そのキャラクターの一人が合気道を使うって設定なんですよ)
(そいでドラマの宣伝がてらに合気道の強さを見せてもらおうって寸法ですわ。相手はこっちで用意しときますし。ああ、真剣勝負じゃないですよ。打ち合わせ、打ち合わせでいきましょうや)
ある日、道場から突然現れたこの男によって、自分がテレビに出るなんて夢にも思わなかった。しかし、藤田は乗る気ではなかった。
合気道対空手、という特集。事前に台本が書かれた「やらせ」。純粋な格闘家なら一発で見破られてしまうが、何も知らない者が見るとどうなるか。
(お互い様ですよ、藤田さん。私たちみたいな武道は、こうやるしかないんですから)
藤田の相手となった伝統派空手の師範と打ち合わせをしたとき、やるせない口調の彼の姿が脳裏に焼き付いている。藤田はその師範を探そうとしたが、撮影の撤収で人の流れが慌ただしく動いており、この狭い道場では見つけることができなかった。
「にしてもお疲れ様ですわ」
男――バラエティ番組のディレクターであり、今回の合気道対空手という企画を持ちだした彼は、たいそう満足そうな顔で藤田に礼を言う。
「カッコ良かったですよ、藤田さん。それじゃ私たちは撤収しますんで。んじゃま、お騒がせしました」
誰も居ない深夜の河川敷を、藤田はジャージ姿で歩きながら、三日前の出来事を思い出していた。
あのテレビのおかげで入門者が二十人を超えた。その大半がテレビ番組を見た主婦層。少しおしゃべりが過ぎるものの、一応は真面目に稽古を取り組んでいる。
最強の合気道師範と誇張表現をつけられた藤田にとって、周囲の見る目が明らかに変わった。
街を歩けば声をかけられる。時にはサインを強請られる。幸いなことに、喧嘩を吹っかける輩は居ない。
それよりも藤田は「八百長」として、業界から疎まれていることを危惧していた。自分の師範であり、独り立ちを許してくれた田中会長は今回の一件について、合気道を広めるために止む無しと言っていたが他の門下生や各流派の師範がどう思っているのか見当がつかない。
軽率な行動。
それは自分でもよく分かっている。しかし、藤田にとってこの機会を逃せば次は無いと思っていた。
「頭を冷やそう」
そう思い、彼は河川敷を歩いていた。
人の気配。深夜三時という時間帯。反射的に藤田は、気を張り巡らす。百メートル先に、仁王立ちするかのように正面に立つ男の姿が居た。
川を掛かる高架下。トラックの走行音が聞こえてくる中、まるで待ち構えていたかのように男はこちらを見ている。藤田は引き返そうとせず、堂々と男に近づいた。
「藤田師範、ですね」
落ち着いた青年の声。男は、空手のズボンに黒帯を締め、上にはジャージを羽織っている。
前髪と側頭部を短く切り、その顔はどこにでもいるような好青年そのものだった。
「空手家。それも、有段者と見える」
藤田の目は衰えていない。目の前で立つこの青年が、どこにでもいるような空手家ではないことを一瞬で見抜いた。
「手合せを」
「話しの分かる男だと思っていたのだが」
ゆっくりと構えを取る男に対し、藤田は苦言を呈す。この男が放つ気迫を感じ取った上で、藤田は闘いを避けていた。
凄惨な試合。
それで済めばいいかもしれない。もしかしたら、殺し合い――否、一方的な暴力。この男は、空手家という皮を被った、暴力装置にしか見えなかった。
「藤田師範のご活躍はテレビで観ました」
どっしりと正面に構え、拳を目線の高さに。フルコンタクト空手特有の、両構え。
「藤田師範。今なら、貴方は『正直者』になれる」
正直者――藤田は男の言葉に、心が揺らぐ。
藤田の意思とは無関係に、彼はゆっくりと半身の構えを取った。左手を腰に帯びるように下げ、右手は前へ突き出すように。
「手合せを」
男がそう言った瞬間、堂々と正面から早歩きで距離を詰める。藤田は、何が来るか分からない。
異種格闘技戦。合気道でならどんな技が来るか容易に分かるが、相手は空手――それもフルコンタクト。
腹部、頭部、顔面、側頭部、水月、脹脛。ありとあらゆる箇所が、攻撃範囲となる。
前蹴り。
それは、まるで伸びるかのように水月――鳩尾を的確に狙っていた。藤田は両腕を交差させ、十字受けすることによって防ごうとするが、爪先の先端が腹部に突き刺さる。
激痛。合気道という武道を数十年やってきたが、こんな痛みをもらうのは初めてだった。もっとも、既に五十路を超えた身。筋肉の衰えがある。だが、この空手家は一切の手加減をせずに前蹴りを放った。
(これが、実戦)
激痛に堪えながら、藤田は空手家との距離を離す。
「正直者になれる」
その言葉が藤田の頭の中で永遠と繰り返された。
テレビで見せた、偽りの合気道。台本で書かれた試合。実戦ではない合気道を、さも空手よりも格上と示した行為。
「私は、合気道を確かめたい」
正拳突き。
藤田は真っ直ぐ胸板へ向かうそれを左手で手首を取り、捻る。男は合気道のギミックを使ったその技から逃げるために、身体を捻らせる。藤田はそれを見逃さない。疎かになった脚に、払い腰の要領で藤田は男を倒す。手首はきっちり極めたままの体勢で男が背中に地をつける。
空いていた右の拳が、反射的に男の顔面へ鉄槌を振り落した。全力を込めて、男の顔の中央――鼻へ、真っ直ぐ。
しかし、男はそれを寸前で躱すと極めていた右手首を素早く捻り、藤田の左手を振りほどく。そのまま脱兎のごとく、男は藤田との距離を離した。
「さすがですね、藤田師範。容赦がない」
男は鼻から血を垂らしていた。恐らく、あの右拳が掠ったのであろう。
「華剛合気。元は古武術――打撃による技も認められていたが、合気道としての路を歩んだ」
藤田は華剛合気の過去を喋りながら、ゆっくりと構え直す。
右拳に、男の顔面目がけて振り落した右拳の感触が残っている。
藤田はそこまでやるつもりではなかった。しかし、この男との手合せをした時点で自分の中に眠っている「何か」が沸々と込み上げている。それとは別に、男に対する恐怖心も理由の一つだ。
容赦をしなければ、こちらがやられる。
「自分は、テレビに映る貴方の目を見て思いました」
男は空手の構えから、左肘を折り畳み、右手を少しだけ伸ばしたファイティングポーズを取る。藤田が感じていた空手の空気から、まるでケンカをするような――むしろ、総合格闘技に近い風体を醸し出す。
「合気道なんて甘ったるい武道を捨てたい。自分にはそう感じました」
違う。男の言うことは、完璧に見当外れもいい所だった。
「藤田師範。見せてください。貴方の武道を。正直者になるチャンスです」
違う。自分が思っていた正直者とは、嘘を突き続けていた自分を。偽りの合気道を見せていた自分への戒めを。
「狂っている」
眼前に立っている男は。藤田にとってもはや狂人だった。
藤田は構える。今ここで、男を倒す。二度と空手を、あるいは武道を出来ないように。自分じゃなくてもこの役割は果たせるはずだ。しかし、彼は化けの皮を被っている。その正体を知っている藤田しか、この役割を果たせなかった。
本業は空手だろう。しかし、どこかで道を踏み外した結果が、まるで辻斬りじみた暴力を振るう存在。同期である門下生、あるいは先輩に当たる人が居ても、この男の本質を見抜くことは難しい。
「彼を止めることができるのか」
迷ってはいけない。
男は鞭のようにしなるローキックを繰り出す。藤田はそれを片脚を上げることによってダメージを分散し、カウンターの掌底を叩き込む。
顔面に向かってくる藤田の掌底を男は寸前で回避し、バックステップを取るように距離を取る。仕切り直し――と藤田は確信した。
タックル。
男は、距離を離したと見せかけて、中腰状態でのタックルを繰り出した。藤田の腰にがっしりと両腕が絡みつき、左肩を使って突進。
虚を突いたそれは、藤田の体勢を崩すどころか、押し倒すのに充分すぎるほどだ。
「テイクダウン――レスリングだと」
土手の硬いコンクリートに背中を打ちつけた藤田は、痛みに耐えながら体勢を整えようとする。相手がレスリングの技術を持っている以上、アームロックなどの関節技の危険性。藤田は両腕を使って、男からの寝技を拒否しようとする。
だが違った。男は馬乗り状態になっていた。
寝技への対策――テイクダウンを取られた姿勢で、相手からの関節技を切り返す。云わば、守りの姿勢を入っていた藤田にとってそれは誤算。致命的なミス。
馬乗り状態へ移行する隙を狙って切り返しはできたはずだった。
男の、やけに冷めた表情が藤田の目に映った瞬間、右拳が顔面にめり込む。
一発、二発、三発目には藤田は痛みと同時に意識を失った。
「貴方は正直者になれる」
あの夜、あの言葉を言われた藤田は、それがまるで罪のように重く圧し掛かっていた。自分がやりたかった本当の「武道」。あの日を境に、合気道として生きる自分が――馬鹿らしくなってきた。
藤田は脇腹を狙う右のミドルキックを上手くキャッチ。右足の爪先と、その脛を小手の原理を利用して回転させる。それを放った男は、まるで独楽のように胴体を回し、地面へ倒れる。
「やるじゃねぇか、ジジイ」
細身の、坊主頭をした男は両腕を使ってすぐに立ち上がるとファイティングポーズを取る。
見よう見まねの空手と、ジムで習っただけの総合格闘技の技術。年の差で体力だけが男のアドバンテージだった。
ローキックを囮にしての、ハイキック。既に見切っていた藤田は、囮のローキックを放った時点で男に肉薄。無防備な腹部に向けて、掌底の一撃。姿勢を崩すや否、次は右手首を掴み、そのまま四方投げ。地面へひれ伏した男に、藤田は関節を極めている右手首を、いとも簡単に折った。
「力不足だよ」
声にならない絶叫を上げながら、その場でもがき暴れる男に、藤田は冷めた言葉を吐き、踵を返した。
誰も通らない小さなトンネル。ストリートファイトにうってつけの場所。男の絶叫が、まだ聞こえてくる。
あの日、藤田は誓った。あの男に勝つと。その為に、合気道を捨てた。今自分が使っているのは、「古武術華剛流」。合気道と打撃をベースにした、華剛合気道のルーツとなる武道。一度、藤田が捨てたものだった。
正直者。
男の言うとおり、藤田は正直者になった。