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嫁が女子高生になりました。  作者: 日吉 舞
2/24

夫の非公開ブログ -2-

 ……というところで暗転した俺の意識。

 ふと目覚めてみると、俺はベッドと壁の間の狭い隙間に倒れ込むようにして寝てるのがわかった。

 寝てるうちにベッドから落ちたのか。

 あれえ、俺ってこんなに寝相悪かったっけ?

 まだふらつく頭を軽く振り、ベッドに手をつきながら立ち上がった。室内を照らす蛍光灯が

やけに眩しく感じられる。

 唸りながらサイドテーブルの上に置いてあった眼鏡をかけると、隣のベッドの隅っこで固まっている嫁がいるのがわかった。

 嫁は泣きそうな顔でうずくまってて、膝の上に低反発素材の枕を抱きしめてる。

 その目は、明らかに敵意を孕んでいた。

「……あれ?」

 その様子を見て、素っ頓狂な声を上げる俺。

 あ、そう言えば、嫁がおかしなことを喚き出してたんだっけ。夫である俺のことを誰だとか、自分がまだ一七歳だとかって。それで、間接照明投げつけられて……

 どうやら俺は、それをまともに顔面に喰らってほんの短い間、気絶してたらしい。それで昨日の晩までのことを夢で思い出してたんだ。

 と、ようやく足元に転がってる間接照明を見て気絶直前までの状況を把握した俺に、嫁が声をかけてきた。

「……まだ、痛いですか?」

「ああ、そりゃまあ……それなりに」

 震える声で訊いてきた嫁に答えて、俺はずきずきする目の下に指先を当ててみた。

 ちょっと腫れてはいるみたいだけど、何とか大丈夫そうだ。

「すいません。あんなの投げちゃって」

 また嫁が、小さい声で言ってくる。

 相変わらず怯えた感じではあるんだけど、ちょっと間を置いて冷静になってきたらしい。怖いのを我慢して、俺から何とか今の状況を探ろうとする姿勢が見えてきていた。

 いや、俺にとっても今の嫁は理解不能なんだけどさ。とりあえずは俺も、嫁がどんな状態にあるのかを把握しないといけないのは同じだった。もし変な病気にかかってて病院に行くとしても、これじゃあ医者に説明できないわけだし。

 とにかく会話だ。

「いや、別にいいよ」

 なるべく平静を装って、俺は改めて嫁の姿に視線を走らせた。

 ガン見するとまた騒がれそうだから、あくまで確認する程度に。

 ベッドにぺたんこ座りしてるパジャマ姿の嫁は、昨日寝る前と特に変わったところはないみたいだった。若干目つきが悪……いのは、超ド近眼なのに眼鏡をかけてないせいだろう。他に、追い詰められた小動物じみた怯えはあるし、さっき怒鳴ってたときの口調がガキっぽくてめちゃくちゃ柄が悪かった、ってのもあるけど……

 今現在はその時と全く逆に大人しくなって、あろうことか俺に対して敬語。嫁のこんな口調は、家の中じゃ誰かが来た時か、電話ぐらいでしか聞いたことがないってのに。

 俺はコホン、と咳払いをひとつしてから本腰をいれて嫁を尋問、いや質問する構えを敢えて見せた。

「それよりも、だ」

「は、はい?」

 嫁がびくりとして、腕の枕を更に強く抱きしめる。

 回り道しても仕方ないし、俺はストレートに核心から入ることにした。

「君、本当に自分が高校生だって思ってるんだよね?」

「だから!思ってるんじゃなくて、マジなんだ……けど、私……こんなに髪が長いわけない……目もよく見えないし、手だってこんなに荒れてなかったのに……」

 激しく頭を横に振って全力否定してきた嫁は、自分の手の甲を顔の間近に近づけてきた時にはもう元気をなくしていた。

 嫁が本気で自分をまだ女子高生だと思い込んでるなら、確かに身体は全く違うものとして感じられるんだろう。昔のアルバムを見せてもらったことがあるけど、高校生の頃の嫁は髪はショートで眼鏡もかけてなかった筈だ。

 肌の具合も、十代と三十代じゃそりゃ違うんだろうし。

 このままじゃ不便だろうから、嫁がさっき投げつけてきたらしい赤いフレームの眼鏡を拾って、ベッドの上にぽんと放る。

「とりあえずほら、これ」

 しかし嫁はびくっと後ずさったのちに、目を細めてしげしげと眼鏡を眺めてから口許をへの字に歪ませた。

「……何それ?他人の眼鏡なんか、超気持ち悪い!大体、この部屋が暗すぎなんだっつの!もっと明るくすれば……」

 言うが早いか、嫁が素早くベッドから下りて窓の遮光カーテンに手を伸ばす。

 途端、重いベッドの角を蹴る鈍い音が寝室に響いた。

「ぎゃ!」

 右足の小指をしこたま打ち込むことになった嫁が、悲鳴を上げて飛び上がる。ただでさえ涙目になってる瞳に新しい滴をせり上がらせて、嫁は左足でぴょんぴょん跳ねた。

「いったたたぁ……」

「ほら。君の視力は〇・一以下なんだから、そうなって当たり前なんだって。それじゃ、まともに家の中を歩くこともできないだろ?とにかくそれをかけてみなよ」

 半ば溜め息をついて、俺はこぼした。しっかり者である一方ドジっ娘属性もある嫁は、よくこうやって足をベッドの角にぶつけてたっけ。そこはこんなことになっても変わらないのか……

 と、これまでと態度が全く違う嫁なんだが、どうやら基本的なところはそのまんまっぽい。

 嫁は背に腹は換えられないと観念したのか、ちょっとだけ安堵する俺を尻目に眼鏡を拾い上げた。

 激安だったけれどお気に入りの筈の、太いフレームの眼鏡を一通りこねくり回し、嫁が呟いた。

「ほっそい眼鏡。変なの……」

 ああ、そうか。

 上下の幅が狭い眼鏡も、割と最近の流行りなんだっけ。

 嫁はデイリー用で似たデザインの眼鏡を他にも幾つか持ってて、ファッション別に使い分けてお洒落を楽しんでたな。

 けれど嫁は、一番よく使ってる色のものを初めて身につけるように、恐る恐るかけている。

 彼女は突然クリアになった視界に驚いたようで、何度か瞳を大きくしばたかせてからきょろきょろと辺りを見回した。

 で、改めて俺をチラ見して一言。

「改めて見たら、この人どんだけオッサンなんだよ……」

 ドスッ、と「オッサン」という単語が音を立てて俺の胸に突き刺さる。ううっ、ダメージは全HPの一割くらいかな……

 そりゃ俺はもう四〇で、若いとは言えないんだけどさ。

 よもや嫁からこんな風に吐き捨てられるなんて、思ってもみなかった。結婚十年の記念日を迎えるにつけ、二人でずっと一緒に歳を取っていければいいねって、よく話してたのに。

 今ベッドの向こう側に立っている嫁は、オッサンという生き物を毛嫌いする女子高生が憑依した別人物のようだった。事実、しゃべりかたまで幼くなってるし。

 何の前フリもなしに記憶喪失とは、お気楽な俺にはとんでもない重荷……

 って、ちょっと待てよ。

 記憶喪失って言うには、どうも違う気がする。

 そういうのって普通、自分が誰だか名前もわからない、今まで自分が経験してきたことやそれに絡んだ物事を思い出せない、とかだよな?

 自分が高校生の頃に戻った、なんて思い込む記憶喪失が果たしてあるんだろうか?

 ここはもうちょっと確認しておくべきなんだろう。

「質問なんだけど」

「何?」

「今は西暦何年?」

 我ながら変なことを突然聞いたかという気がしたが、呆気に取られたらしい嫁は意外と素直に答えてくれた。

「え……えと、一九八×年」

 ……おいおい!

 確かに嫁の年齢から逆算すると、女子高生時代はその年代であることには間違いない。だけど、その年号は咄嗟に計算して出てくるもんじゃなかった。

 一体、嫁の身に何が起こったって言うんだ?

 俺は溜め息をつきたくなるのを押さえて、まずは正解を伝えることにした。

「はずれ。二〇一×年だよ」

「え、にせんじゅう……?」

 ぴんと来ていないらしい嫁は、首を傾げながら正解を繰り返そうとする。不思議そうにしてる顔は、頭の上に?マークがいっぱい浮かんでるのが見えてきそうだった。

 とにかくこの世界がどんなものなのかを認識させないと話にならないと思って、俺は寝室の壁を指差した。

「そこのカレンダー、見てみなよ」

 嫁が目で追った先には、三匹の可愛い子猫が寝転んでいる写真のついたカレンダーが下がっている。そこに記された年号は、当然二〇一×年だ。

 彼女はたっぷり一分ほど、その一点に目を釘付けにされていただろうか。

 絶句の後にこぼれ出た出たのは、未だ信じられないという思いを隠し切れていない一言だった。

「い、いや……でもこんなの、いくらでもごまかしが効くし……」

「まだ疑うようなら、こっちにおいでよ」

「え……」

 まあ、理屈家な嫁がまだ納得しないだろうというのは、俺も予想していた。

 だから後は、今が二〇一×年だという事実を幾つも並べて見せるしか手段はない。多少強引かも知れないけど、それが一番手っ取り早いんだ。

「何もしないって。ついといで」

 それだけ言って、俺は寝室を出た。歩くと、ちょっと顔の打ち身に響く感じがする。

 嫁は、俺が危害を加えてくるわけじゃないとわかってくれたのだろう。俺の五歩くらい後をそっとついてくる。

 フローリングの廊下を抜けてリビングまで来ると、俺は奥のダイニングの突き当たりに設置したパソコンスペースに向かった。

 一つの広いデスクに二台のディスプレイで、椅子が二つ。パソコンも二台、床の上に置いてある。

 ここはつい先月、夫婦それぞれが所有するパソコンを並べて設置したところだった。言ってみれば二人の作業場みたいなもんだ。二人して情報系の仕事をしてるし、パソコンのメンテをするにもこの方が都合が良かったから。

「それ……コンピューター?これで何する……ってこれ、すっごい画面小さくない?奥行きが全然ないけど」

 と、また嫁が古くさい表現を使って液晶ディスプレイを指差す。

 今日び「コンピューター」なんて言い方するのは、いいジジババぐらいしかいないだろう。それに画面が小さいって……ひょっとして、やたらデカくて奥行きがあるブラウン管のディスプレイしか知らない、ってことなのか。

 そしてここ十年くらいは何かあればネットで検索が常識だけど、二十年昔の世の中はそうじゃなかった。俺が何をしようとしてるかも、多分嫁はわからないんだろう。

「そう言や、一九八〇年代ってまだネットの影も形もない時代だったか……まあいいから、見てなって」

 いちいち説明するのも面倒な俺は軽く流しながら椅子に座り、ディスプレイとパソコン本体の電源を入れた。

 いつもと同じように軽く双方が唸り、起動のプロンプトが黒い画面を流れていく。

 やがてOSが起動してからマウスとキーボードを使い、デスクトップにログインすると、嫁が驚愕の表情を浮かべて呟いた。

「あ、絵が出てきた……?」

 女子高生のままで記憶が止まっているらしい嫁は、純粋な驚きを覚えているらしかった。

 パソコンにハードディスクなんてものはなく、メモリはキロバイト、外部媒体は二メガ以下の五インチフロッピーディスクしかなかった頃からしてみれば、二〇一〇年代のパソコンはあり得ないくらいに高性能と言える。

 鮮やかなグラフィックで彩られたデスクトップ画面もなかったんだから、当時のことしか知らない人物にとって、家庭用のパソコンであってもハイテクすぎる代物だろう。

 目を見開いたままで液晶ディスプレイを凝視する嫁に、俺はウェブブラウザを開いて大手検索サイトのトップページに移動して見せた。

「ほら、ここに年号が入ってるだろ」

 後ろを振り向いてから表示されている日付を指差すと、嫁はこっくりと頷いた。

「どうやってこの画面を出したかは、面倒だから説明を省くけど。これはさ、俺が作った画面じゃないわけ。言ってみれば、他人が作った画面にも全部この年号が入ってるってことなんだよ。これも……ほら、こっちも。全部二〇一×年だろ」

 ブラウザで次々と別のニュースサイトや別の大手ポータルサイトへ飛んで、そこに出ている年号が全て同じであることを示して見せる。その中には嫁がよく使っていた旅行関連のポータルや、ネットショッピングのサイトも含まれていた。

 もし嫁が変な記憶違いをしてるなら、これで我に返ってくれるかも……

 と、俺は淡い期待をいだいたが、嫁は戸惑うばかりだった。

「え、いやでも……でも、これは……」

 何とか理由を見つけようとする嫁の顔は、赤くなったり青くなったりと忙しい。額にも冷や汗すら浮いているみたいだ。明らかな動揺は、未だ事実を受け入れられない証拠だとも言える。

 俺は本気で身近なことを覚えていない嫁が心配になりながらも、何とか説得を続けようとした。

「まだ疑うなら、テレビで確認してもいいか。それでも、まだ信じられない?」

「嘘……じゃあ、今の私って、何なの?」

 愕然とした嫁の前でテレビのリモコンを持ち上げた俺は、スイッチを入れようとしてやめた。

 片手で口を覆って目を見開いている嫁は、プルプル震えてる。これ以上の追い討ちをかけるような真似をしたら、それこそ精神が崩壊しそうなイメージすらあった。

 けど、現実を受け入れられてないのは、俺だって同じだ。

 まさか嫁が、いきなりおかしなことを言い出すようになるなんて……

 って、ここで俺が嫁と同じくパニくったらどうすんだ。自分だけでも冷静にならないと、この先どうしようもないじゃんか!

 一緒に喚きたくなるのを抑えて、俺は何とか嫁に質問を続けた。

「う……うーん、じゃあ……とりあえず自己紹介してみ?」

「●●嫁子。せ、一九七●年七月十日生まれの一七歳……しり、私立△△女子学園高等部二年F組、出席番号二三番。出身は一応東京だけど、生まれたのはロンドンで……」

 口に出して言うことは、自分の認識を改めさせる効果があるのかも知れない。

 どもりつつもゆっくりと語る嫁の口ぶりは、だんだん落ち着いたものになっていった。

 それでわかったのは、嫁は自分が誰かということは忘れていないけれど、やっぱり一七歳以降の記憶が一切ないってことだ。彼女が今口にしたプロフィールは、俺も知っているものと内容が完全一致する。なので、そこは間違いない。

 俺は何とか自分を納得させて、まだ好きな食べ物とかの聞いてないネタまで探してる嫁に、次の話を持っていってみた。

「うん……もういいから。わかったよ。うん、とにかくわかったから。じゃあ次、ここはどこだかわかる?」

 途端に言葉を途切れさせ、嫁は首を横に振った。

「自分が誰か、ってことはわかるとして。俺が誰かってことはまったく覚えてない……ってか、わからないんだよね?」

 無言のまま、彼女は頷く。

 目の前で事務用の椅子に座っている俺を見下ろすその目は、さっきと違って不安に満ちていた。

「俺はさ、君と十年前に結婚した夫なんだよ。で、●●ってのは君の旧姓で、今の名字は××に変わってる。戸籍を新しく作ったからね。で、君が俺と結婚したのは二八歳の時で、今の君は三八歳なんだ。そして今は西暦二〇一×年……」

 俺は慎重に言葉を選びながら、ゆっくりと説明を続けた……つもりだったんだが、気がついたら嫁の

目の焦点が合ってない。

 嫁は、呆然と佇んだまま意識を失ってるんじゃないかと思うほどに生気が抜けている。俺は慌てて立ち上がって、その細い両肩を揺すってみた。

「ちょ、大丈夫か?」

 ……嫁は反応せず、がっくんがっくん頭を揺らしてる。長い髪が揺れて乱れるさまは、ちょっとしたホラーかも知れなかった……

 こりゃあヤバい!

 と思ったら、嫁がそのまま俺の方に倒れかかってきた。

 モデル体型なのに、支える力を全て失った身体はずっしりと重かった。

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