4彼の場合
彼女は高いところから、世界を見ている。寂しいことに、その世界に僕はいない。触れたくて手を伸ばしても、その手が彼女を掴むことはない。
そして、世界の外から僕は顎を上げて、彼女を見上げているのだ。
☆★ ★☆
何気ない風を装っていたが、鼓動はいつもよりも早かった。
「神崎さん、ノート見る?」
勇気を出して発した声は、震えていなかっただろうか。
いつも通りの香水の壁から、ノートと体を滑り出す。
「……」
「はい、ここから……ここまで。君が休んでいたときの分ね」
いつも潤んでいる大きな目を丸くさせ、桃色の唇が少し開いている。
その驚いた顔も、可愛らしかった。
「雪、ここんとこ教えて」
「あ、うちが先よ〜」
「はいはい、ちょっと待って」
授業中だというのに、関係なく人が集まる。
自分としては、もっと彼女と話がしたいのに。
チャイムが鳴ると同時に、香水をかき分け、後ろの席を確認する。案の定、そこに彼女の姿は無かった。
「ねぇ、雪一緒に帰ろうよ」
「今日の放課後は文化祭の冊子作るから」
「そうなの?」
「相変わらず大変ね」
そう言うと、香水達は帰る支度を始めた。
さて、面倒なことになる前に彼女を追わなくては。きっと、また保健室だろう。体調を崩してではないといいのだが――
香水に浸かっているような教室から逃げるように、彼女の後を追った。
半分の歩数。一歩歩くごとに、足音が一つついてくる。
「っ……」
思い出すとつい、笑みがこぼれた。
「何?」
資料をホッチキスで留めながら、ちらりと彼女の視線がこちらに向けられた。くるりと大きな瞳が、いつもより近くにある。
「いや……神崎さんって、何だかんだで優しいよね」
「何それ?」
つんっと唇が尖る。
あぁ、それは反則だ。
可愛らしすぎて、口元が緩むのを押さえられない。
「資料、手伝ってくれるし」
「……ノートのお礼よ」
「そっか」
静かな教室に、ホッチキスの音が二つ響く。
「……何?」
「何って?」
「……」
顔を上げると、口を一文字に引き結んでホッチキスで留める彼女の姿があった。ほんの少し耳の先が赤くなっている。
「ん〜……資料のこと、言ったんだけどね。こうやって残って手伝ってくれたのは神崎さんはだけだった」
「あの子達は?」
「皆、帰ったよ」
今日はいつもより、饒舌だ。
「何故?」
「何故って、帰りたかったんじゃない?」
「好きな人とは、出来るだけ一緒にいたいものじゃないの?」
「さぁ、どうなんだろうね。彼女達にとって、僕はその程度のものってことかな」
バサリと、冊子の束が机に置かれた。相変わらず、彼女の口は一文字に結ばれている。
どうしたのだろうか。いつもは見ない表情をしている。
「その程度って……」
「ん〜〜」
彼女は、"好きな人とは"と言った。それならば、今、僕と一緒にいる彼女にとって僕は何なのだろうか。
「神崎さんは……出来るだけ、一緒にいたいの?」
真っ赤な夕陽が、窓から射し込んでいた。
彼女の綺麗な黒髪が風に舞う。
「帰る」
真一文字に結ばれた口。
無意識に伸ばした手が、何かを掴むことはなかった。
「くそっ……」
きっと今、自分は彼女と同じように、夕陽に顔を染めていることだろう。
☆★ ★☆
彼女の言動、一つ一つに心が動かされる。
自分よりも小さな歩幅。少し後ろを歩くその姿に、無性に心が騒いだ。
早く、その上から降りて、僕の隣に立ってくれないだろうか。この手を取って……くれないだろうか――