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2-22 町中華・万福忍法帖

東北随一の繁華街・国分町。夜の街の片隅で《町中華・万福》を営む世瀬大吾と錬の兄弟には、暖簾の裏に隠されたもう一つの顔があった。それは伊達政宗を闇から支えた隠密集団・黒脛巾くろはばき組の末裔としての顔だ。

ある時、二人は店で収集した情報を元に、若者たちを蝕む違法薬物の元締めを追っていた。しかし潜入した売買拠点で待ち受けていたのは、売人の返り血に塗れた思いもよらない人物の姿だった。

戦国の世から伝わる秘伝の術を駆使し、令和の仙台で戦う忍びたち。二人は人々を蝕もうとする脅威を退け、街の平穏を取り戻すことができるのか――

 杜の都・仙台が抱える東北最大の歓楽街“国分町”。

 深夜一時半。煌びやかなネオン看板を背に、路地を数本入り込んだところに《町中華・万福(まんぷく)》はひっそりと佇んでいる。歩くたびに靴底が床にへばりつき、朱色のカウンターは何度拭いてもべたついてしまう。しかし店内の十席は仕事帰りのキャバ嬢たちでいつも満席だった。


 にぎわうカウンターの端。存在を消すようにうつむく金髪の女性の前にガラスの小鉢が置かれた。万福名物・杏仁豆腐だ。

「ノアぴ、お疲れさま。これ俺からサービス」

「え?」

 顔を上げた彼女の前にはエプロン姿の青年——世瀬錬(よせ れん)が微笑んでいた。

「元気ないけど、どした? もしかしてあの彼氏のこと?」

 長いアッシュグレーの前髪から覗く濡れた瞳の奥で、光彩がゆらりと揺れる。錬の得意としている『幻術・浮色(うきいろ)』だ。この術は対峙する相手が最も信頼する姿に自らを幻視させ、警戒を解かせる。術にかかったノアはそれまで絶望一色だった表情を緩ませ、目に涙を溜めながら口を開いた。

「うん……実はうちの彼氏、仙台駅前でレンタルルームやってるんだよね。でも最近サプリの販売も始めたとかで、忙しそうでさ……」

 ノアがそこまで言いかけた瞬間、厨房から威勢の良い声と鋭い金属音がカンッと響いた。

「——万福炒飯お待ち!」

「はーい! ノアちゃんもごめん、また後で!」

 錬は慌ててパチッと片目をつむり、視線を外す。

「あ、うん……あれ、あたし何言おうとしてたんだろ。まあいっか、杏仁豆腐おいしそー!」

 夢から覚めたように瞬きを繰り返すノアを背に、錬は厨房に向かっていった。


 厨房では錬の兄であり、万福の主人・世瀬大吾(だいご)が大きな中華鍋を振るっていた。大吾の手元では黄金の卵をまとった米が踊るように舞い、焦げたネギと香ばしい醤油の香りが食欲をそそる。さらに錬の嗅覚を刺激するのは微かな漢方の香りだ。

 『香術・あやめ』——大吾が最も得意とする術だ。様々なスパイスや漢方を用い、精神を惑わす調合香を作り上げる。大吾の料理にはこの香によって食欲増進・疲労回復効果が含まれている。

 錬がふんわりと山を作った炒飯の皿に手をかけると、その手がぐっとつかまれた。顔を上げると頭に油で汚れたタオルを巻いた大吾が険しい顔を向けていた。

「大胆すぎるぞ、錬。誰が聞いているかわかんねぇだろ」

「はーい。でも情報収集は俺らの大事な仕事じゃん? 堂々とやった方がばれないってば」

 心配ご無用、とにっこりと微笑む錬の眼差しに幼い日の弟の姿が重なる。「にいちゃん」と駆け寄ってくる無邪気な笑顔に大吾の頬が緩む……が、すぐに我に返った。

「——おい術かけんじゃねえ!」

「はは! ごめんて。でもやっぱりあのレンタルルームがあやしいみたいだね」

 すっと声を潜めた錬の瞳が鋭く光る。大吾は手を放し、小さく頷いた。

「あとで裏取るか」

「オッケー! じゃ炒飯運びまーす」

 錬は指先で炒飯の皿をくるりと回すと、滑るようにフロアへ躍り出る。べたつく床でも一切足音を立てない錬の身のこなしを見届け、大吾は再び中華鍋を火にかけた。


 妙な術を使うこの兄弟——大吾と錬は中華屋の兄弟として溶け込んでいるものの、その正体はかつて伊達政宗の覇業を陰から支えた隠密集団・黒脛巾組(くろはばきぐみ)の末裔だ。

 そんな二人が街を蝕む異変に気づいたのは一ヵ月ほど前のこと。夜明けの国分町で起こった若者たちの集団乱闘事件——彼らの体内から検出された違法薬物がすべての始まりだった。


「ごちそうさま! 錬くん、また来るね」

「はーい、ありがとうございましたー」

 午前二時半。最後の客が会計を済ませるのと入れ替わりに、カランコロンと入口のベルが鳴った。夜風と共に滑り込んできたその姿に、食器を下げていた錬と厨房の大吾が同時に顔を上げた。

「お疲れさまぁ。大吾くん、錬くん元気ぃ?」

 独特の少し間延びした声。長い黒髪を無造作にヘアクリップでまとめた姿——常連客の風俗嬢・美咲だ。彼女は万福開店当初からの常連。夜の街の輝きから取り残されたような、ふんわりとした陽だまりのような雰囲気の女性だ。そんな彼女にとって今夜は特別な夜だった。錬はお冷を美咲の前に置きながら、とびきりの笑顔を向けた。

「最終勤務お疲れさま!」

「ありがと、錬くん。親の借金なのに、私よく頑張ったよねぇ。ようやく昼の仕事だけでやっていけるわぁ」

 そう言って美咲は疲れた顔で笑った。

「親の借金肩代わりして昼夜仕事掛け持ちしてたなんて、本当にすごいよ」

「そんな努力家の美咲さんにはちょっとだけサービスな。ほら、いつもの」

 厨房から現れた大吾が運んできたのは山盛りの野菜と、澄んだ塩スープが美しく輝くタンメンだ。てっぺんにはサービスの味玉が乗せられている。

「わぁありがとう! おいしそぉ!」

 箸をとり、まずは琥珀色のスープを一口すする。濃厚な鶏ガラの香りとともに、大吾の忍ばせた漢方成分が美咲の鼻腔を駆けのぼる。深く息を吐くと、こわばっていた肩の力が抜け、頬にみるみる赤みが戻ってきた。

「はぁ~おいしぃ~。でもさぁ、思うんだよねぇ……私、ちゃんと昼の人間に戻れるかなぁって」

 美咲は麺をすすりながら、ぽつりとつぶやいた。気持ちが緩むと不安が忍び寄る。美咲の瞳には怯えるような光が浮かんでいた。

「また食べに来てもいい? 夜職じゃなくても追い出されない?」

「何言ってんの、当たり前でしょ! 大盛りラーメンにんにくマシマシで食べてってよ」

「みんな応援してっから。胸張ってけ」

 二人は笑顔で返すと、美咲の瞳から影が消え、いつもの陽だまりのような笑顔が戻った。

「……二人ともありがとねぇ。私、頑張るよ」

 美咲は満足そうにスープを飲み干すと、手を振って笑顔で店を去っていった。きっともう彼女に会うことはないだろう……大吾は美咲の背中を頼もしく思いながら、店の暖簾を下ろした。


 数週間後、梅雨入りした仙台の街は薄曇りの空に覆われていた。

 普段より早く暖簾を下ろした万福の店内で、錬が「ねえ、兄ちゃん」とつぶやいた。手元で握りしめたスマホの液晶が錬の顔を青白く照らしている。

「広瀬川で身元不明の女性の遺体が見つかったってさ。なんだろ、殺人かな?」

 錬が見ているのは地元ニュースのサイトだ。「治安わる~」と画面を見つめる錬に、大吾は小さくため息をついた。

「錬、切り替えろよ。今夜は出番だ」

 今、大吾が身にまとうのはエプロンではない。闇に溶け込む墨色の忍び装束だ。黒脛巾組のトレードマークでもある漆黒の脛当をきつく縛り上げながら、闇の中から錬に声をかける。

「大丈夫、準備なら終わってるよ」

 黒いスポーツウェアに身を包んだ錬が黒マスクを引き上げる。のんびりとした口調とは裏腹に、キャップの隙間から覗く眼差しは鋭い。

 今夜二人が向かうのは仙台駅前の雑居ビルに入るレンタルルーム。以前来店したノアの恋人が不法薬物の売人であり、そこを拠点に若者へ薬物を流しているという情報を掴んでいた。この街の平穏を守ることこそ、黒脛巾組の末裔としての使命。闇に紛れて街を蝕む毒虫共の悪事を暴き、日の下に晒してやらねばならない。


 ビルの三階。防犯カメラの死角を突いた潜入は一瞬だ。非常口の古いシリンダー錠など大吾にとっては子どものおもちゃ同然。細い針で数秒もかからず解錠すると二人は店内に滑り込んだ。段ボールやゴミ袋が山を作っている狭い廊下の両脇に、客室の扉がいくつも並んでいる。

 建物正面のエレベーターに面するように設けられているのが受付兼事務所のようだ。甘ったるい臭いを漂わせるこの場所で何らかの薬物が扱われているのは間違いない。出入口に下げられた暖簾の隙間から覗く事務所の中には、少年にも見える若い男が一人。タトゥーのびっしり入った手で退屈そうにスマホをいじっていた。

「中には一人、か……。兄ちゃん早いとこ片付けよう」

「ああ、行くか——」

 大吾の頷きに錬が一歩踏み出した、その時だ。

「錬、下がれ!」

 大吾が怒声と共に錬の肩を強く引き寄せた。次の瞬間、暖簾の向こうでスマホをいじっていた男の首がぐらりと傾き、噴き出す真っ赤な鮮血と共に床にごろりと転がった。

(なんてこった……)

 大吾は唇を強く噛んだ。どんな悪人でも法で裁かれるべき——それが現代に生きる忍者としての流儀だ。だが男は命を奪われた。断じて許されることではない。

 二人は身を潜めたまま、男の命を奪った存在に狙いを切り替える。するとむせ返るような濃い血の臭いの中、部屋の中で何者かが動く気配がした。

 ……ペチャ、ペチャ。静まり返った店内に血だまりを踏む濡れた足音が響く。

「来る……」

 錬はキャップのつばを持ち上げ、術の構えをとる。息をすることさえ憚られるような緊張感の中、ゆっくりと暖簾が押し開かれた。そこに現れたのは、長い黒髪を無造作にまとめた見覚えのある華奢なシルエット。

「……美咲、さん?」

 錬の喉から驚愕の声が漏れた。二人の目の前に現れたのは、あの夜、笑顔で万福の暖簾をくぐって行った常連客の美咲だった。

 息を呑む二人に美咲はひらひらと血に塗れた手を振って見せた。

「こんばんはぁ。もしかして見ちゃったぁ?」

 独特の間延びした声に、陽だまりのような笑顔。声も、姿も、美咲そのもの。しかしその瞳に光はない。代わりに二人を品定めするようなじっとりとした狂気が宿っていた。

 違う、こいつは彼女じゃない。大吾は固まる錬の肩を強く引き、一歩前へ出た。

「おい、てめぇ誰だ」

 怒りに震える大吾の声に、美咲の顔をした女の唇がゆっくりと弧を描いた。

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