あぶく蝉
俺の夏が爆ぜた。まだ蝉の鳴かぬ頃に。
上下ひっくり返ったかのように頭が重たく、身体を起こすだけで吐き気がする。
「あっ名塚さん、起きました?」
頭に手を当て、聞いたことがあるようなないような声に目を向ける。
女だ。若い女。気分が悪すぎてそれしかわからなかった。昨日は飲みすぎた。
「昨日のこと覚えてますか。マスターが運んでくれたんですよ」
何かやらかした? 一夜限りの関係なんて週刊誌に嗅ぎつけられたら。
一瞬そんな思いが脳裏によぎるが、そこでようやく昨日の記憶が肉体に追い付いてきた。
たしか……そう、「人生のピーク終了のお知らせ」が視界の上の方を流れて行ったのだったか。
ドラマのオーディションだと言われて通された部屋の中にあった小箱。どうやら、台本が入っているのだという。
マネージャーの「二重の意味で玉手箱ですね!」などというよくわからない言葉が聞こえると同時。
開いた箱から出てくる、白い何か。それがクリーム砲だと気づいたのは、みっともなくのけぞって一頻り笑い者になってからで。
──あれ? 俺の人生あとは下り坂か……?
俺が目指していたのは芸の道に生きる者であって、芸人ではない。
俳優、名塚愛斗の道が正道から逸れた。
それで……よく通っているバーで自棄酒をして…………
「お店閉めなくちゃいけなくて。それで結局ウチに運んだんですけど、お時間とか大丈夫ですか?」
「えーっと、あなたは」
「あの、バーのマスターの娘で翠って言います」
「ど、どうも。すみません、なんか……」
「大丈夫です、大丈夫です」
「父から聞きました」という枕詞と共に始まった昨晩の回想は、それはもうひどいものだった。
泣くわ、愚痴るわ、マネージャーからの電話を暴言と共に切り、携帯を投げ捨てるわ。
話を聞いているだけなのに、ただでさえ重たい頭が地面に埋まりそうだった。ここからマネージャーに連絡をとったり、その他もろもろを考えるとこれからもっと荷重がかかるだろう。
「あの、他に何かやらかしたりとかは……。例えばその、あなたと寝ちゃってーみたいな」
「ないですないです! 私だって名塚さんのファンですけど、さすがにまずいってのはわかります!」
「そ、そうですよね……」
「そういうのはやっぱり段階を踏まないと」
思ってもいなかった切り返しに「え?」と思わず素で問いかける。
「というわけで、デートの約束、させていただけませんか?」
断るという選択肢が頭に出てくる前に、翠は時計を確認して慌てて荷物をまとめ始めた。
「すみません、大学の授業があるので! 鍵はポストにお願いします!」
俺の返事も聞かずに、彼女は飛び出していった。残された俺はどうすることもできないまま、ただ茫然と痛む頭を抑えていた。
とはいえ、気分が悪いと言ったっていつまでも他人の家にお邪魔しているわけにもいかない。テーブルに置かれた自らの携帯と財布をズボンにねじ込み、掃除の行き届いた家を後にした。
土地勘のない住宅地からフラフラと自宅に戻って十分な休息をとった後の夕方。マネージャーとの話し合いを終わらせ、菓子折りを持ってマスターに謝り倒した。それで全てが許されたというわけではないが、玉手箱事件は一応の落ち着きをみせた。
「──というわけで、遅くなって申しわけない」
「いやいや、無理を言ってるのは私の方ですし」
遺すは翠とのデートだけ。
マスターは娘の言葉を真に受けなくていいと言っていたが、迷惑をかけている以上、はいそうですか、では追われなかった。遊園地や水族館、観光地の散策などの目立つことはできないけど、と前置きをして迎えた今日。我、愛車の助手席には翠が乗っている。
「それにしても災難でしたよね。思い入れのあるドラマの新シーズンなんですよね?」
「そうなんだよ。意味わかんないことも言うし」
「玉手箱のことですか? それは、入社試験とかで出るやつですよ。SPIみたいな感じの」
「あっそうなんだ、よく知ってるな」
「大学も今年で卒業ですからね」
ちらりと翠を覗くと彼女は俺の方に顔を向けていて「どうして俳優になろうと思ったんですか?」と聞いてきた。景色の一つでも見ればいいのにと高速のインターへと侵入し、曖昧に唸って「そうだな」と質問に答えた。
「母親がさ、ドラマ好きだったんだよ。偽物のオーディションがあった、昔のシーズンのやつ。一緒に見てても親がすごい楽しそうでさぁ」
それももう十三年も前の話だ。
「だから漠然とやってみたいなって」
恥ずかしさを誤魔化すように「警察になりたい! 消防士になりたい! みたいな」と付け足す。あのドラマを母親は愛していたし、その姿を見るのが好きだった。
「翠ちゃんはさ、卒業して何かやりたいこととかあるの? あ、もう決まってたり?」
「いえ、まだこれからですよ。とはいっても早い人は動いてるらしくて、ちょっと焦ってるんです。やりたいこともありませんしね」
「将来の夢とかは」
「それこそ、名塚さんと一緒ですよ」
翠は「あーだ、こーだ」と職業の名前を呼んでは指を折る。
社会を知らない子供と、夢が叶わないと知った大人。ちょうどその間にいるのだろう、彼女の年齢から生じる微苦さに、どうも懐かしさを感じてしまう。
俺はどちらかと言えば夢が叶った側の人間だ。一般的な他者のほとんどからは羨まれる立場にあると、重々承知している。それでも。彼女が抱えているような、やわからな葛藤を俺も持っていたのだ。
「彼女とか作らないんですか?」
それは何かの拍子に出た言葉だった。時間を稼ぐようにハンドルを指で叩く。
彼女。恋人。それらを考えたことはもちろんある。
「逆にさ、アイドルとか、女優でもなんでもいいんだけど。身近にいる人のことを好きな人がいっぱいいるって知ってて付き合える? なんかそういうの気持ち悪く感じてさ」
「独占欲って言うんですかね、ないんですか?」
「もうそういう歳でもないしね」
告白されたからって理由で付き合うことはもうないだろう。自分のものでもないのに独占欲を覚える理由もない。ただ、申し訳ないのだ。画面の向こうにいるであろう誰かに、勝手に罪悪感を覚えている。
そして、怖い。自身に好意を寄せてくれている人を簡単に裏切れる精神性をしているだなんて、そりゃ誰だって信じたくはない。
「それ、自分にも当てはまりますか?」
「当てはまる」
隣でこれ見よがしに吐かれた溜息に、こちらも溜息を被せる。
「こうしてドライブしてるだけでも結構リスクなんだよ?」
「わかってますよ~」
「それこそ、ドッキリと一緒だよ」
「わかってますよ」と翠はもう一度口を開いた。「でも」彼女はスマホカバーの隙間から一枚のメモ書きを取り出し、空のドリンクホルダーにそれを放り込んだ。
「私は独占欲、強いんで」
そうほほ笑んで、翠は首を傾げた。




