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泥舟

 

 婚姻を結んだ頃からだろうか。マリアンが少しずつ、だが決定的に変質していったのは。


 今となっては、あんなにも献身的に自分を支えてくれた学園時代の彼女が、どこか遠い幻であったかのようにさえ思える。



「……はぁ」


 気づけば、今日も執務室で一人、重い溜息を吐き捨てていた。


 第一王子に第二王子と、二人の世継ぎを産み落としたマリアンは、まるでもう王妃としての役割をすべて終えたとでも言わんばかりに、公務を滞らせることが増えた。

 最近では彼女の侍従が事務処理を肩代わりしているらしく、「給与を上乗せしてほしい」という切実な要望が私の元にまで届いている。



 本当なら、王として厳格に叱責し、しかるべき処分を下すべきなのだろう。


 だが、私にはそれができない。



 一度、意を決して公務の遅れを指摘しようとしたことがあった。

 するとマリアンは、私の言葉を最後まで聞くこともせず、ただ涙の膜の張ったじっとりとした瞳で私をじっと見つめ……そのまま、一言も発さずに扉を強く閉めて部屋を出て行った。


 それから数日間、私は彼女にとって「透明」になった。


 こちらが話しかけても返事はおろか、視線すら合わせない。私が部屋に入れば、彼女はわざとらしく椅子を引き、大きな音を立てて本を閉じる。


 食事の場では、銀食器が皿に当たる鋭い音と、彼女の深く、重苦しい溜息だけが響く。


「……何か怒っているのか?」

「…………」


 問いかけても、返ってくるのは冷え切った沈黙だけだ。


 彼女は言葉を使わずに、「お前が私を不快にさせたのだ」という罪悪感を私に植え付けてくる。王であるはずの私が、彼女の顔色を窺い、機嫌を取るために右往左往する。その様を、彼女は冷めた瞳で眺めているのだ。



 たまに機嫌よく口を開いたと思えば、それは決まって「新作のドレス」や「最高級の宝石」の要求だった。

 私が少しでも難色を示せば、彼女の表情は一瞬で氷点下まで下がり、またあの沈黙の時間が始まる。


 結局、私は彼女の無視に耐えきれず、望むものをすべて買い与えてしまう。そうして束の間の「偽りの平和」を買い取るのだ。


 普通ならば、これほどまでに王妃としての資質を欠けば、離縁を考えるか、せめて側妃を迎えるのが王としての筋だろう。



 しかし、私にはそのどちらも不可能だった。


 いかなる理由があろうとも、私はマリアンを王妃の座から降ろすことはできない。彼女と離れるという選択肢は、私には許されていないのだ。



 閉塞感に苛まれながら、私はただ耐える日々を送っていた。

 ふと、頭をよぎる過去の婚約者の影。……いや、考えるな。エリュシオンは死んだのだ。



 だが幸いなことに、ここ最近になって、マリアンは妙に朗らかで機嫌の良い日が増えていた。


 きっかけは先月、側近の一人であるジグルドが彼女に贈った「希少な蜂蜜」らしい。

 彼女はそれをたいそう気に入り、今ではその蜂蜜を他に回すなど許せないと、ジグルドを懐柔し一人独占している。


 特注のドレスや宝石に比べれば、蜂蜜の買い占めなど安いものだ。


 あれほど私を追い詰めた沈黙や、あの突き刺すような溜息から解放されるのならいくらでも出してやろう。

 あわよくば、この安定した機嫌のまま、昔のように少しでも公務に意欲を出してくれればよいのだが。



 ……いや、もう多くは望むまい。

 私はただ、彼女が機嫌よく笑っていてくれれば、それで十分だった。


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