黒幕はだれ?
その日も、日課の森の散策から帰ったジン・サリュート侯爵は、柔らかな微笑みを浮かべて出迎えた妻に声をかけた。
「ただいま、エリュシー……ではなくて、エリー」
「ふふ。まだ呼び慣れないのね、その名前」
◆
かつてジンは、アレクサンダー王太子の側近として最も重宝されていた男だった。
将来は大臣職をも約束された輝かしい地位。
しかし、あの「エリュシオン公爵令嬢の断罪事件」を境に、彼は自らその地位を捨て、中央から遠く離れた領地経営の道を選んだ。
彼には、どうしてもマリアンという女が信用できなかった。
そして何より、エリュシオンを見捨て、王太子への忠誠という保身を選んだ自分への、耐えがたい罪悪感があったからだ。
だが、今の彼は心から幸せだった。
なぜなら、ここには愛する妻がいる。
表向き、彼女は修道院で孤独に病死したことになっているが、実はジンが密かに修道院に手を回して彼女を救い出し、名前を変えさせ、この地で共にひっそりと暮らしているのだ。
この事実は、アレクサンダーもマリアンも、彼女の家族も、世界中の誰も知らない。
◆
二人は学園時代、決して親しい間柄ではなかった。
ただ一度、放課後の図書館で偶然言葉を交わしたことがあった。ジンの趣味は、昔も今も植物の採集と研究だ。
その日も、彼は分厚い植物事典と格闘していたのだが、ふと隣に立ったエリュシオンが、その論文に興味を示したのである。
『――サリュート領の固有種についての論文ですか?研究熱心で頭が下がりますわね』
彼女は、世間で噂されるような悪辣な令嬢などでは断じてなかった。ただ、あまりに冷静で、あまりに誇り高いがゆえに、誤解されやすかっただけなのだ。
ジンはあの日、彼女の深い知性に触れ、その控えめな微笑みに一瞬で心を奪われた。
アレクサンダーがマリアンの「偽りの知性」に騙されている横で、ジンだけは本物の宝石を見出していたのである。
◆
「お茶を淹れましょうか?」
「そうだね、頼むよ」
エリー――エリュシオンは、ジンが最近精力的に生産している茶葉でお茶を淹れた。
巷では、このお茶を飲むと「素晴らしい夢が見られる」と評判になり、限定感も手伝って王都で爆発的な人気を博しているらしい。
生産者であるジンは、いつでもその香りを堪能できる特権を持っていた。
温かな湯気に乗って、どこか幻想的で華やかな香りが部屋を満たしていく。
「エリー……君は、本当ならもっと報われるべき人なのに。こんな田舎に閉じ込めてしまって……」
「いいのよ。わたくし、王太子妃の座なんて、本当は一度も望んでいなかったわ。それに……あなたのことを愛してしまったの。あの図書館で語らった、あの時から。……もう、前にも言ったのに、また言わせたいだけでしょう?」
「そうだね。ははっ、バレたか」
窓の外には、ジンが研究を重ねて咲かせた青い花が乱舞し、春の穏やかな陽気が流れている。
幸せを噛みしめるように、ジンは差し出された茶杯を手に取った。その口許にほの暗い笑みを残して。




