郷愁
王都の裏通りにある、陽当たりの悪い小さなアパート。
腰の曲がった老婆は、震える手で一客しかないティーカップに、大切に保管していた茶葉を注いだ。
商会に勤める孫の夫が、「懐かしい人に会えるよ」と贈ってくれた不思議な茶だ。
その日の夜、目を閉じると、視界がじんわりと黄金色の光に包まれていった。
◆
鼻腔をくすぐるのは、冷たい都会の煤けた空気ではなく、高原を吹き抜ける清らかな風の香りだ。
「……お母さん? お父さん!」
気づけば彼女は若き日の自分に戻っていた。
そこは、立ち入ったことのない、柔らかな緑が広がるニズール山の高原だった。
向こうから、何十年も前に亡くなった両親が、笑顔で手を振って走ってくる。その隣には、若く逞しい姿の夫が、まだ小さかった頃の子供たちを両脇に抱えて笑っていた。
「おーい、こっちだ! 今日は最高のピクニック日和だぞ」
夫の大きな手が彼女の頭を優しく撫でる。子供たちの柔らかな頬の感触。母が広げた手作りのお弁当の匂い。
太陽はどこまでも暖かく、ニズールの山には淡い青い花が、まるで祝福するように一面に咲き乱れていた。
そこには悲しみも、孤独も、老いもなかった。ただ愛する者たちに囲まれ、守られていた、あの幸福な時間だけが永遠に続いていた。
「ああ、幸せ……。私、ずっとここにいたい……」
彼女が愛する夫の胸に顔を埋めた、その瞬間。
◆
「……あ」
瞼の裏の光が、ふっと消えた。
老婆が目を開けると、そこには湿っぽく薄暗い、いつもの見慣れた部屋が広がっていた。
「……会いたい。もう一度、みんなに……」
枯れ木のようになった頬を、熱い涙が静かに伝い落ちる。老婆は震える手で、茶葉の入った小さな袋を掴んだ。
もう一度、あと一口飲めば、またあの高原へ戻れる。あたたかな家族の腕の中へ。
だが——
「……ああ、これはいけない」
老婆は震える指先で、残りの茶葉をくず籠へと捨てた。
「辛くたって、今を生きていかなきゃならないんだよ……」
寂しさと切なさに胸を締め付けられながらも、彼女は独り、静かに泣いた。
窓の外からは、吟遊詩人が歌うあの太陽と月のおとぎ話が聞こえてくる。
老婆はその声を聞きながら、二度と戻らぬ幸福の記憶を、心の奥底に静かに封じ込めた。




