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郷愁

 王都の裏通りにある、陽当たりの悪い小さなアパート。


 腰の曲がった老婆は、震える手で一客しかないティーカップに、大切に保管していた茶葉を注いだ。


 商会に勤める孫の夫が、「懐かしい人に会えるよ」と贈ってくれた不思議な茶だ。



 その日の夜、目を閉じると、視界がじんわりと黄金色の光に包まれていった。





 鼻腔をくすぐるのは、冷たい都会の煤けた空気ではなく、高原を吹き抜ける清らかな風の香りだ。


「……お母さん? お父さん!」


 気づけば彼女は若き日の自分に戻っていた。


 そこは、立ち入ったことのない、柔らかな緑が広がるニズール山の高原だった。


 向こうから、何十年も前に亡くなった両親が、笑顔で手を振って走ってくる。その隣には、若く逞しい姿の夫が、まだ小さかった頃の子供たちを両脇に抱えて笑っていた。


「おーい、こっちだ! 今日は最高のピクニック日和だぞ」


 夫の大きな手が彼女の頭を優しく撫でる。子供たちの柔らかな頬の感触。母が広げた手作りのお弁当の匂い。

 太陽はどこまでも暖かく、ニズールの山には淡い青い花が、まるで祝福するように一面に咲き乱れていた。


 そこには悲しみも、孤独も、老いもなかった。ただ愛する者たちに囲まれ、守られていた、あの幸福な時間だけが永遠に続いていた。


「ああ、幸せ……。私、ずっとここにいたい……」


 彼女が愛する夫の胸に顔を埋めた、その瞬間。







「……あ」


 瞼の裏の光が、ふっと消えた。


 老婆が目を開けると、そこには湿っぽく薄暗い、いつもの見慣れた部屋が広がっていた。



「……会いたい。もう一度、みんなに……」


 枯れ木のようになった頬を、熱い涙が静かに伝い落ちる。老婆は震える手で、茶葉の入った小さな袋を掴んだ。

 もう一度、あと一口飲めば、またあの高原へ戻れる。あたたかな家族の腕の中へ。


だが——



「……ああ、これはいけない」


 老婆は震える指先で、残りの茶葉をくず籠へと捨てた。


「辛くたって、今を生きていかなきゃならないんだよ……」


 寂しさと切なさに胸を締め付けられながらも、彼女は独り、静かに泣いた。



 窓の外からは、吟遊詩人が歌うあの太陽と月のおとぎ話が聞こえてくる。

 老婆はその声を聞きながら、二度と戻らぬ幸福の記憶を、心の奥底に静かに封じ込めた。


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