甘美な花の香りに誘われて
ジンが茶葉を生産するきっかけとなった花を見つけたのは、いつものように領内の森を散策している時のことだった。
サリュート領に広がる広大な原生林。そこには幾筋もの小川が流れ、宝石のような湖が点在している。
季節や天気、あるいは光の加減ひとつで刻々と表情を変えるその容貌は、植物学者としての顔も持つジンを決して飽きさせることがなかった。
彼がほとんど毎日、日課のように森へ足を運ぶのには理由があった。
草木を観察し、スケッチブックにその生命を写し取る時間は、あの事件から意識を逸らさせてくれる。
目を閉じれば二十年近く経った今も、断罪の場で絶望に染まったエリュシオンの瞳や、保身に走った自分自身の浅ましさが、苦い澱のように胸の底で暴れ出す。王都を逃げ出したのもそんな気持ちからだった。
(私の罪を許してくれだなんて、彼女には決して言えない……)
◆
その日は、抜けるような快晴だった。
ジンは、森の奥深くにある一番小さな湖を目指して歩を進めた。
木漏れ日が鏡のような湖面に反射し、春の訪れを予感させる肌寒さと、柔らかな風が頬を撫でる。その心地よさに、彼は自然と心を躍らせていた。
ふと、視界の端に違和感を覚えた。
湖のすぐ傍らの湿った土の上に、一輪の淡い青色の花が咲いていたのだ。
「……見たことがない。新種か?」
ジンは興奮を抑えきれず、跪いてそれを観察した。
透き通るような青い花弁。既存の図鑑のどれにも該当しないその形状に、知的好奇心が火を吹く。
彼は夢中でスケッチを走らせた。
一度屋敷に戻り、植木鉢を手に急いで現場へ引き返した。
野生の花を植え替えるのは枯死のリスクが伴う。しかし、放置して誰かに踏まれるわけにはいかない。
「……意外と、根がしっかりしているな」
慎重に土ごと掘り起こしたジンは、その生命力に驚嘆した。花は植木鉢の中でも萎れるどころか、以前よりも生き生きと花を咲かせ、辺りにえも言われぬ芳しい香りを放ち始めたのだ。
研究を進める中で、彼はさらに驚くべき事実に直面する。
この花は、株分けを試みるたびに、まるで意志を持っているかのようにぐんぐんと根を伸ばし、増殖していったのだ。
ある日、研究の一環として乾燥させた花弁をお茶にして口にしてみた。
「……っ、これは」
なんとも言えない夢のような香りと甘美な味が喉を通り抜ける。これまでのどの茶葉とも違う、魂が震えるような体験。
そして不思議なことに、その夜に彼は、忘れていたはずの幼い頃の、懐かしくも鮮明な夢を見た。
「この花はすごいぞ……!」
◆
最近、ジンはこの青い花で養蜂を行い、蜂蜜を採取することに成功した。その味と風味と言ったら、他に例えようがないほどだ。
花そのものが持つ、あの抗いがたい香りと効能。それが凝縮された蜂蜜は、きっと、口にした者を逃れられない甘美な夢へと誘う「至高の逸品」になるに違いない。
窓際で淡い青に揺れる花を見つめながら、ジンは静かに微笑んだ。




