37cs 「歯磨き(夜)」
歯ブラシを口にくわえ、鏡の前に立つ。
泡が少しずつ増え、口元が白くなる。
手は動く。泡を吐き出し、水で口をゆすぐ。
鏡を見る。手が再び動く。
「……まだ、だな」
鏡の中の人も、じっとこちらを見ている。
瞬きも呼吸も、完全に一致している。
それでも目を離せない。
――こいつは誰だ。
歯ブラシを止める。
泡が垂れそうになる。
鏡の中の人も止まる。
逃げ場はない。
もし今消えたら、鏡の中の人も消える。
死か、単なる終了か。
考える主体が消えれば、答えも存在しない。
「ふぅ……」
それでも歯を磨く。
毎晩、同じ順番で。理由は考えない。
鏡の中の人が少し疲れて見えた。
疲れているのは自分だ。
今日という一日を、戦い抜いた疲れが全身に残っている。
誰とも戦ってはいない。
ただ、生き延びた疲弊だった。
「……もういいか」
泡を吐き出し、水で口をゆすぐ。
音が大きく響く。
もし消えたら、世界は無音になる。
少し、怖い。
再び鏡を見る。
目の奥に底はなく、思考も名前も吸い込まれる。
――ここまで来たら、戻る必要はない。
鏡の中の人が、口角をわずかに上げる。
同じように笑っている。
ただ、「一致している」という事実の確認。
歯ブラシを置く。
今日という一日が終わる。
戦い抜いた一日の終わりは、
小さな終末のように、静かに訪れる。
鏡を見る。
暗闇で輪郭が溶け、境目が曖昧になる。
「……おやすみ」
深い海に沈むように、思考も役割も消えていく。
残るのは、「ここにいる」という感覚だけ。
歯磨きのコップを伏せ、静かに部屋に向かう。
鏡の中には、誰もいなかった。




