第7話 ハイエナの嗅覚
「んっはぁ〜! 生き返るねぇ!」
木製のジョッキを豪快に空け、ミレイユさんがテーブルにドンとそれを叩きつけた。
僕たちが泊まることにしたのは、一階が酒場になっている宿屋『踊る山猫亭』だ。
店内は仕事終わりの職人や冒険者たちでごった返し、熱気と料理の匂いが充満している。
「おい、飲みすぎるなよ。明日の朝には発つんじゃからな」
「わかってるって。……ほらアレン、あんたも食べな。肉だ肉!」
「あ、はい。いただきます」
僕の目の前には、分厚いステーキと山盛りのパンが置かれている。
修行時代は木の実や干し肉ばかりだったから、こんな豪華な食事は久しぶりだ。
一口食べると、肉汁が口いっぱいに広がる。
「美味しい……!」
「だろ? 働いた後の飯は格別なのさ」
ミレイユさんはニカっと笑い、二杯目のエールを注文した。
師匠は渋い顔で茶を啜っているが、その目は周囲を油断なく警戒している。
ここが「魔族狩り」の拠点であることを忘れてはいけない。
僕はフードを目深に被り直し、右手はテーブルの下に隠したまま食事を続けた。
その時だった。
バンッ!!
突然、宿の入り口の扉が乱暴に蹴破られた。
店内のざわめきが一瞬で消え、静寂が訪れる。
「……なんだぁ?」
酔っ払った客の一人が文句を言おうとして、言葉を飲み込んだ。
入ってきたのは、銀色の鎧に身を包んだ一団――バルディアの衛兵隊だったからだ。
その数、十人以上。
彼らは店内に踏み込むと、殺気立った目で客席を見回し始めた。
「お、おい……何かあったのか?」
「知らねぇよ、関わるな……」
客たちが怯えて視線を逸らす中、衛兵たちの列が割れ、一人の男がゆっくりと歩み出てきた。
整えられた口髭。肉付きの良い体。
そして何より、その瞳に宿る粘着質な光が、見る者に生理的な嫌悪感を抱かせる。
衛兵隊長、スカブだ。
「……見つけたぞ」
スカブはニタニタと笑いながら、真っ直ぐに僕たちのテーブルへと歩いてきた。
「よう。随分と景気が良さそうだな」
隊長は僕たちのテーブルに手をつき、上から覗き込んできた。
「旅人か? 見ない顔だが」
「……いかにも。ただの旅人だ」
師匠が静かに答える。
隊長は鼻を鳴らし、次にミレイユさん、そして最後に僕を見た。
「ふむ……。実はな、さっき市民から通報があったんだよ。『路地裏で暴れている危険な連中がいる』とな」
「へぇ? そりゃ物騒だねぇ」
ミレイユさんが頬杖をつきながら、とぼけた様子で返す。
「全くだ。なんでも、大の男を吹き飛ばすほどの『怪力』を持ったガキと、大剣を担いだ女、それに目つきの悪いジジイの三人組だとか」
隊長の目が、鋭く細められる。
「……お前らのことじゃねぇのか?」
心臓がドクリと跳ねた。
さっきの男たちが、自分たちが襲ってきたことは棚に上げて、僕たちを一方的に通報したんだ。
「人違いじゃな。わしらは今しがたバルディアに着いたばかりの、ただの旅人じゃよ」
師匠が平然と嘘をつく。
しかし、隊長は引かない。
「ほう? じゃあ、そこのボウヤ」
彼は顎で僕をしゃくった。
「そのでかい剣は何だ? 子供が持つには不釣り合いな『業物』に見えるが」
「これは……護身用です」
「護身用ねぇ。……おい、そのフードを取れ」
命令口調。
僕は固まった。
でも、ここで逆らえば余計に怪しまれる。
僕は意を決して、ゆっくりとフードを下ろした。
「……なんだ、本当にただのガキか」
僕の顔を見て、隊長はつまらなそうに鼻を鳴らした。
ホッと胸を撫で下ろしかけた、その時だ。
「だが……通報によれば、そのガキは『人間離れした力』を使ったそうだな」
隊長の目が、再び怪しく光る。
彼は僕の顔から視線を下げ、包帯で巻かれた右腕をじっと見つめた。
「怪しいなぁ。もしかして、中身は人間じゃなくて『魔族』なんじゃねぇか?」
空気が凍りつく。
「魔族」という単語が出た瞬間、店にいる客たちの目が、恐怖と敵意の色に変わったのがわかった。
「……言いがかりだ」
「なら証明してみろよ。ほら、その包帯を解いて、腕を見せてみな」
隊長の視線が、僕の右腕に突き刺さる。
(……見せたくない)
この包帯の下にあるのは、今はただの「人間の腕」だ。
でも、「火傷がある」とミレイユさんに嘘をついている以上、綺麗な肌を見せれば「なぜ嘘をついた?」と追及される。
それに何より――僕自身が、この右腕を直視したくない。
いつ赤く変色し、脈打ち、僕を乗っ取るかわからないこの腕を、誰かの目に晒すことがたまらなく怖い。
僕が拳を握りしめ、脂汗を流して固まっていると、隊長がさらに詰め寄ろうとした。
「どうした? やましいことがないなら見せられるはずだろ」
隊長の手が、僕の右腕に伸びる。
逃げられない。
「待て」
師匠が素早くその手を遮った。
「食事の邪魔をするな。何の権限があってそのようなことをする?」
「権限? ハッ、笑わせるな」
隊長は口の端を歪めて嘲笑うと、これ見よがしに腰の剣の柄に手をかけた。
その動作を合図に、周囲の衛兵たちも一斉に武器を構える。
ジャラッ、という無機質な金属音が、店内の賑やかな空気を一瞬にして切り裂いた。
「ひッ……!?」
「お、おい、やべぇぞ!」
一触即発の空気を悟った客たちが、悲鳴を上げて席を立つ。
ガタガタと椅子が倒れ、飲みかけのグラスが床に落ちて砕け散る。
怒声と悲鳴が入り乱れる中、客たちは我先にと出口へ殺到し、店内は瞬く間に嵐が去った後のような惨状となった。
「この街じゃあ、俺たち『衛兵』がルールなんだよ。魔族対策のためなら、疑わしい奴をどう料理しようが自由なんだ」
客がいなくなった店内で、隊長は顔を近づけ、低い声で脅すように囁いた。
僕が覚悟を決めて剣に手を伸ばしかけた、その時だった。
「――やれやれ。せっかくの酒が不味くなるじゃないか」
ため息混じりの声と共に、ミレイユさんが立ち上がった。
「衛兵さんよぉ。アタシらはただの旅人だって言ってるだろ? それに、その子はアタシの弟分でね。ちょっと火傷の跡が酷くて、人に見られるのを嫌がってるのさ。……武人の情けってやつで、見逃してやんなよ」
ミレイユさんは笑顔でそう言いながら、懐から何かを取り出し、隊長の胸ポケットに素早くねじ込んだ。
チャリ、と金属音がした。
金貨だ。
スカブはポケットの中身を確認すると、口元を醜く歪めた。
「……ほう。酒代のつもりか?」
「手間賃さ。ご苦労さん」
「ケッ、しけた金だ」
スカブはわざとらしく舌打ちをした。
だが、その目は笑っていない。
彼はくるりと踵を返しかけ――ふと、足を止めた。
そして、ゆっくりと首だけを回し、僕の方を見た。
「……」
何も言わない。
ただ、その爬虫類のような粘着質な視線が、僕の顔から――背負ったままの『黒鋼の剣』へと滑り落ち、そこでピタリと止まった。
値踏みするような、それでいて金目の獲物を見つけたような、底冷えのする眼差し。
僕が息を飲む音すら聞こえそうな静寂の中、スカブはニヤリと口の端を吊り上げた。
「……行くぞ」
彼は短く部下に命じると、今度こそ振り返らずに店を出て行った。
嵐が去った後のような静寂。
僕は椅子の背もたれに深く寄りかかり、大きく息を吐いた。
「……なんだったんだ、今の」
「ちっ。せっかくの臨時収入がパーだよ。高い夕食になっちまった」
ミレイユさんは悪態をつきながら、空になったジョッキを振った。
しかし、師匠の表情は険しいままだ。
「……目をつけられたな」
「うん……」
「あの隊長、ただの小悪党かと思ったが……去り際のあの目。金で満足したわけではないな」
「……え?」
「あれは……骨の髄までしゃぶり尽くす『獲物』と定めた目じゃ」
師匠の言葉に、僕は自分の右腕を強く握りしめた。
ただ剣を買って、通り過ぎるだけのつもりだったのに。
運命の歯車は、僕たちが望まない方向へと回り始めていた。




