第15話 運命共同体と、伝説の第一歩
ミレイユさんはふぅっと長く、重いため息をつくと、重い腰を上げるように口を開いた。
「……あんたたち、『黄昏の隠れ里』なんておとぎ話、聞いたことないかい?」
ミレイユさんは、洞窟の隙間から差し込む朝日に目を細めながら、遠い記憶を辿るように話し始めた。
「隠れ里?」
「ああ。はるか昔、人間と魔族が手を取り合い、争いに疲れた者たちが最後に辿り着いた約束の地さ」
その言葉に、師匠の眉がピクリと動いた。
「……まさか、実在すると?」
「アタシがそこの生まれだからね」
ミレイユさんは自嘲気味に笑い、僕たちの正面に座り直した。
「人間の姿が強く出てる者もいれば、魔族の面影が濃く出てる奴もいる。けれどそんなのは関係なしに、大人たちは酒を酌み交わして笑ってる。……外の世界じゃ鼻で笑われるような、おとぎの類さ」
彼女は、眩しそうに空を見上げた。
「今はもう、とうに血が混ざり合って、人間も魔族も区別なんてなくなってるけどね。深い山奥の、結界に守られた小さな盆地にあるのさ。そこじゃあ、隣の家の婆さんが角の生えた鬼だったり、広場で遊ぶガキに翼が生えてたりするのが『日常』だったんだよ」
「…………っ」
衝撃だった。
この十六年間、僕がどれだけ自分の存在に怯え、この腕を隠し、呪ってきたか。
そんな僕の絶望のすべてを、彼女は『日常』という一言で、いとも簡単に笑い飛ばしてみせた。
「……信じられん。魔族と人間が、結界の中で……共存しているというのか。夢物語でも、そんな都合の良い話は聞いたことがないぞ」
師匠の困惑した声が、洞窟に低く響く。
無理もない。
生涯を「対魔族」の騎士として生きてきた師匠にとって、それは世界の理を根底から覆すような話なのだから。
「ま、信じる信じないは勝手だけどね。……でも、そんな甘っちょろいだけの場所でもなかったよ」
ミレイユさんは、ふっと鋭い眼差しを僕に向けた。
「里の掟は絶対だ。『外の世界に里の存在を知られてはならない』。だから、誰も里からは出られない。外の世界に憧れても、一生、その狭い盆地の中で死んでいくしかないんだよ。それが里を守るための、たった一つの、そして最悪の代償さ」
ミレイユさんは足元の小石を弄び、それを遠くへ放り投げた。
「アタシはそれが我慢ならなかった。外の世界が見たかったんだ。……平穏と静寂を愛する連中の中で、アタシはとんだ『異端児』だったのさ。だから、十五の時に掟を破って里を飛び出した。二度と戻らない覚悟でね」
「……なるほどな。単なる無法者には出せぬ、その底知れぬ凄み……。二つの血の狭間に立ち、自ら『掟』という鎖を断ち切った者だけが持つ、覚悟の現れであったか」
師匠が納得したように深く頷く。
その眼差しには、単なる用心棒への評価ではない、同じ「秘密」を背負って生きる戦士への敬意のようなものが混じっていた。
先ほどまでの厳しい「武人の貌」が、少しだけ和らいだように見えた。
「外の世界に出て、いろんな奴を見てきたよ。魔族より腐った人間も、人間より高潔な魔族もね。……だからアタシは、種族なんかで判断しない。アタシが助けるのは、アタシが気に入った奴だけさ」
彼女はそう言って、悪戯っぽく片目を細めて見せた。
僕がその言葉の重さに呆然としていると、ミレイユさんはさらに一歩踏み込み、衝撃的な事実をさらりと言ってのけた。
「実を言うとさ。あんたのその右腕、初めて会った時から気づいてはいたんだ。……ただ、漏れ出してる魔力がほんのわずかだったから、最初は確証が持てなかったんだけどね」
「えっ……会った時から……?」
「ああ。でも、バルディアの検問で確信に変わった。正体がバレないか冷や汗をかいて、必死に腕を隠そうと慌てふためいてるあんたの姿を見てね。……あぁ、こりゃ決まりだ。このガキは間違いなく『混血』だって、確信したのさ」
僕は、溜め息とも苦笑ともつかない吐息を漏らした。
あの時、心臓が口から飛び出るほど張り詰めていた僕の必死さが、なんだか酷く滑稽に思えてくる。
必死に隠せていたつもりだったのは、僕一人だけだったのか。
そんな僕の様子がおかしかったのか、ミレイユさんは「ひっひっひ」と、おかしそうに肩を揺らした。
「そんな顔するんじゃないよ。……いいかいアレン。あんたが『混血』だって気づいた時点でさ、アタシにとってあんたを見捨てるなんて選択肢は、あり得なかったんだよ」
彼女はそこで笑いを収め、真剣な眼差しを僕に向けた。
「アタシの里じゃあ、あんたみたいなのは珍しくもない。……だからね、あんなところで怯えて震えてるあんたを見て、放っておけるはずがなかったのさ」
ミレイユさんは膝を叩いて勢いよく立ち上がった。
洞窟に差し込む朝日が彼女のシルエットを際立たせ、その瞳が「次」を見据えるように鋭く光る。
「……いいかい、二人とも。アタシがあの里のことを話した意味、分かってるね? あそこは外の世界に知られちゃいけない『隠れ里』だ。もし場所がバレれば、里の連中は皆殺しにされる。アタシの背中にはね、里の連中全員の命がかかってんだよ」
彼女は自分の背を指差し、言葉を噛み締めるように続けた。
「死ぬまで誰にも明かさないと決めていた秘密さ。それを教えたのは、あんたたちがアタシを信じてすべてを話してくれたからだ。……今日からアタシたちは運命共同体だよ。あんたたちがアタシを信じたように、アタシもあんたたちを信じる。裏切りも隠し事もなしだ。……いいね?」
その言葉の重さに、僕と師匠は自然と背筋が伸びた。
彼女は僕たちの返事を聞くまでもなく、僕の顔をじっと覗き込んだ。
「……さて。アレン、あんたはこれからどうしたいんだい?」
「え……?」
唐突な問いに、僕は言葉を詰まらせた。
「あんたの本当の名前も、親の想いも、この国の腐った事情も全部聞いた。……その上で、あんたはどうしたい? どこか遠くの国へ逃げて、名前を変えて、死ぬまでその腕を隠してひっそり暮らしたいのかい? それとも……」
ミレイユさんは、試すような、けれどどこか期待を込めた眼差しで僕を見つめている。
ふと横を見れば、師匠もまた、何も言わずに僕を凝視していた。
一歩引いた位置で、僕を一人の子供としてではなく、自らが選んだ『主』として――その答えを、固唾を飲んで待っている。
「僕は……」
僕は自分の右腕を見つめ、それから強く拳を握りしめた。
父さんの誇りと、母さんの愛。
その二つが繋がったこの腕を、もう「化け物」なんて呼びたくない。
「僕は、この腕を使いこなしたい。父さんと母さんがくれたこの命を、もう隠したくないんだ。……二人が願った『希望』になれるかどうかは分からない。でも、これ以上誰かに運命をかき乱されるのは、もう真っ平だ。自分の道は、自分の力で切り拓きたい」
絞り出すような僕の言葉に、ミレイユさんは満足そうに口角を上げた。
「……ひっひっひ。いい顔になったじゃないか。だったら決まりだ。その言葉、忘れるんじゃないよ」
彼女は一転して現実的な、抜け目ない傭兵の顔に戻った。
「さて。アレン、あんたは『この腕を使いこなしたい』と言ったね。いいかい、あんたのその腕は、今はただ熱を垂れ流してるだけの暴れ馬だ。だけど、それは見方を変えりゃあ、とんでもない量の魔力の塊なんだよ。アタシら里の人間はね、体の中に流れる魔力を自在に操り、必要な場所に移動させて戦うんだ。筋肉に乗せれば岩を砕き、脚に乗せれば風より速く走る。あんたがその術を覚えりゃあ、アタシなんか目じゃない『怪物』になれる。アタシが、その基礎を叩き込んであげるよ」
「ミレイユさん以上の、怪物……」
ミレイユさんの言葉に、僕の指先がかすかに震えた。
あれほど圧倒的だった彼女の強さを超える。
それは恐怖ではなく、生まれて初めて抱く「自分の力」への期待だった。
そんな僕の浮き足立った様子を、師匠は一つ溜息を吐いて嗜めた。
「……浮かれるな、アレン。ミレイユの言う通りだが、今のお前はあまりに未熟だ。その腕に宿る強大すぎる力が己を滅ぼす刃にもなりかねん。わしの剣術と、この女の魔力操作。二つの世界の技を合わせ、お前を徹底的に練り上げねばならん。……死ぬほどきついぞ。それでも、やるか?」
「……はい!」
僕は背負い革を通じて伝わる黒鋼の重みを確かめるように、肩越しに柄へ手を添え、力強く頷いた。
ミレイユさんは「よし」と笑うと、一転してガサゴソと懐を探り、空っぽの財布を逆さまにして振ってみせた。
「だったら、解決しなきゃならない『現実』があるんだよ。……金だよ、金。アレンをしごくにも、飯は食わなきゃならないし、宿代もかかる。黒鋼の剣だって、あんたの魔力で酷使し続ければ手入れも必要だろう?」
彼女の視線が、値踏みするように師匠へと向けられた。
「……ねぇ、爺さん。あんた一応、元は近衛騎士団長様だったんだろ? どっかに隠し財産とか持ってないのかい?」
「…………」
師匠は苦虫を噛み潰したような顔で沈黙した。
そして、バツが悪そうに視線を泳がせながら、絞り出すように答えた。
「……無茶を言うな。隠し財産など、とっくに底を尽いておるわ。アレンの背負っておるあの『黒鋼の剣』の調達と……バルディアでお前に払ったあの『口止め料』が最後の一片じゃ。あれでわしの蓄えは綺麗さっぱり消えたわい!」
「あー……」
ミレイユさんは一瞬だけバツが悪そうに視線を逸らすと、空っぽの財布をひらひらと振って溜息をついた。
「言いにくいんだけどさ。……あん時、爺さんから受け取った金も、もう一枚も残ってないよ。バルディアで、あの腐れ衛兵隊長の胸ポケットに全部突っ込んできちまったからね」
「なっ……! あの額を、すべてか!?」
「あのピンチを乗り越えられたんだ、安いもんだろ? ……ま、そういうわけさ。爺さんの十六年の貯金も、アタシががっぽり稼いだはずの報酬も、全部アレンの『お守り代』に消えちまったってわけ」
二人のやり取りを聞きながら、僕は背中にある黒鋼の剣の重みを、今までとは全く違う感覚で噛み締めていた。
「…………ごめん、二人とも。僕のせいで」
「ひっひっひ、湿っぽいのは無しだよ、アレン。その分、あんたにはこれからたっぷり働いてもらうんだからね」
ミレイユさんはパンパンと自分の財布を叩いて懐にしまうと、不敵な笑みで街道の先を指差した。
「いいかい? 作戦はこうさ。ここから数日行ったところに『バラム』っていう、荒くれ者が集まる街がある。そこにはアタシが籍を置いてるギルドがあるんだ。あそこなら、腕さえありゃあ素性の怪しい奴でも金が稼げる」
彼女は指を三本立てて、僕に突きつけた。
「アタシと爺さんは、代わる代わるギルドで仕事をこなして路銀を稼ぐ。で、仕事に出てない方が、つきっきりであんたをしごく。……いいかいアレン。アタシと爺さん、二人の師匠から交互に教えを受けるんだ。泣き言を言ってる暇なんて、一秒も与えてあげないからね」
「…………はい!」
僕は真っ直ぐに二人を見つめ、力強く答えた。
二人の師匠。二つの流派。
父さんと母さんがくれたこの命を、本当の意味で自分のものにするための戦いが、今始まろうとしていた。
「よし、決まりだ。……さあ、行こうか。『アレン・グランディオス・エルディアーナ』。あんたの伝説の、第一歩だ!」
ミレイユさんの号令と共に、僕たちは朝日に照らされた洞窟の外へと踏み出した。
――もう、振り返る必要はなかった。




