第14話 歪んだ平和の代償
――生まれてきてくれて、ありがとう。
母さんの最期の言葉が、洞窟の湿った空気の中にいつまでも溶けずに残っているような気がした。
視界が滲んで、うまく前が見えない。
涙が次から次へと溢れ出し、頬を伝って地面に落ちていく。
僕が「化け物」だと忌み嫌っていたこの右腕も、僕という存在のすべてを、母さんは命を懸けて守り、最期まで愛してくれたんだ。
母さんが触れてくれた頬の温もりを忘れないように、僕は強く自分を抱きしめて、ただ震えることしかできなかった。
そんな静寂を、ガツンッ! と岩を砕くような鋭い音が切り裂いた。
見れば、ミレイユさんが空になった酒瓶を、忌々しそうに岩の床に叩きつけたところだった。
「……あー、もう! 湿っぽいのは性に合わないんだよ……ったく、反吐が出るね!」
ミレイユさんは潤んだ瞳を隠すように乱暴に髪をかき上げ、鼻を鳴らした。
その瞳には、隠しきれない怒りが炎のように揺らめいている。
「国中がひっくり返ったあの大事件の裏側に、こんなドロドロした泥溜めが隠されてたなんてね。……おい爺さん、あんたよく今まで黙ってられたね。あたしなら、こんなクソみたいな話を聞かされて、黙って座っていられるほど気が長くはないよ。今すぐ聖都まで殴り込んでやりたいくらいさ。……あぁ、胸糞悪い」
彼女は空の瓶をポーチに叩き込むと、僕の頭を、励ますというよりは「しっかりしな!」と活を入れるように乱暴に撫でた。
「表向きの話じゃ、エレナ様は『魔族の襲撃から民を守り、清らかな祈りの中で散った救世の聖女』……。はっ、傑作じゃない。教会が御大層に飾ってる肖像画の裏で、その教会自身が魔族と手を取って聖女をハメてたなんてさ。これがバレたら、今頃聖都は暴動で火の海だよ」
ミレイユさんの瞳には、怒りを通り越して、ゴミ溜めでも見るような冷めきった色が浮かんでいた。
彼女は師匠の方へ向き直り、吐き捨てるように問いを投げかけた。
「で、そのマヌケな聖教会様は、結局何がしたかったわけ? ディオス様を封じれば、自分たちの権威が安泰だとでも踏んだの? 見てみなさいよ、今のこのザマを! 新魔王になったヴァイスとかいう野郎、人間界を根絶やしにする気満々じゃない。年々魔力を強めて、魔物どもを無理やりデカく、強く作り変えてさ……。おかげで現場は地獄だよ。防衛線は紙クズみたいに破られて、国だって落ちる寸前だ。 自分たちで『平和の重石』を壊しておいて、代わりに人類を滅ぼしたがってる狂った狼を解き放つなんて……。一体何がしたかったんだか」
その鋭い問いに、師匠は自嘲気味な笑いを漏らした。
「……ミレイユ。聖教会の連中は、あまりにも甘く見ていたのじゃよ。ディオス様という存在がいなくなった後の世界をな」
師匠は、暗い洞窟の奥を見つめた。
「奴らは、自分たちの手で制御可能な『ほどよい脅威』を望んだ。絶対的な魔王であるディオス様を排除すれば、あとは残った弱小な魔物どもを自分たちが『救世主』として討伐し、民の信仰を永遠に繋ぎ止められると踏んだのじゃ。……だが、それは致命的な、あまりにも致命的な誤算じゃった」
師匠の声が、地を這うように低く響く。
「ディオス様は、決して恐怖で支配するだけの暴君などではなかった。あの御方は、その圧倒的な魔力と高潔な意志をもって、世界を蝕む魔の本能をねじ伏せていた、言わば『理性ある秩序』そのものだったのだ。だが、その秩序を壊して現れたヴァイスは、王の座に座りながら、ディオス様が守ろうとした世界の均衡までをも踏みにじった」
師匠は、悔しさに顔を歪めながら言葉を継いだ。
「奴は人間を滅ぼすために、この世の魔力を歪ませ、汚染し続けておる。年々魔物が巨大化し、狂暴さを増しておるのは、ヴァイスが世界そのものを『魔の毒』で満たしておるからじゃ。聖教会の馬鹿どもは、御しやすい子飼いの犬を求めて、この世の全てを焼き尽くそうとする『破壊の化身』に、自ら王座を明け渡してしまったのじゃよ」
師匠の拳が、みしりと音を立てて握りしめられる。
「自分たちが生き残るために、世界そのものを終わらせかねない怪物を解き放つ。……皮肉なものよ。魔を討つべき聖職者が、己の権力欲のために、人類を二度と戻れぬ滅びの奈落へと突き落としてしまったのじゃからな」
師匠の重苦しい言葉が、洞窟の壁に反響して消えていく。
世界の破滅。救いのない未来。
あまりに巨大すぎる話に、僕はただ圧倒され、俯くことしかできなかった。
そんな静寂の中、師匠がゆっくりと立ち上がった。
そして、それまで座り込んでいた体を静かに正すと、かつて近衛騎士団長として王の前に跪いた時のように、居住まいを正して僕を真っ直ぐに見据えた。
「……アレン。お前に、もう一つ伝えねばならぬことがある」
その低く、けれど慈しみに満ちた声に、僕は顔を上げた。
「お前を追手から隠すため、わしはお前の名から多くのものを削り落とした。だが、これだけは忘れないでほしい。その『アレン』という響きすら、あの方々が慈しみ、願いを込めて名付けたものなのだということをな」
師匠は優しく目を細め、まるですぐそこに二人の姿が見えているかのように語り始めた。
「十六年前……お前が生まれる数ヶ月前、あの方々は離宮の庭園で、まだ見ぬ我が子の名を相談しておられた。ディオス様は『私のような戦しか知らぬ男がひねり出した名では、この子にいささか無骨すぎる。お前が考えてやってくれ』などと、珍しく弱気なことを仰っておられたが、エレナ様は譲らなかった。……『この子は、私たちの光。二つの世界を繋ぐ、たった一つの希望にしましょう』と」
アレン。
母さんが、僕を「希望」と呼んでくれた名。
「そしてな、アレン。お前には、二人が共に考え、最後まで大切に温めていたフルネームがある。……それこそが、あの方々の愛の証明なのだ」
師匠は一言ずつ、二人の想いを代弁するように紡いだ。
「お前の本当の名は、アレン・グランディオス・エルディアーナ」
その響きが、洞窟の冷たい空気を一瞬で塗り替えた。
「父であるディオス様の真名『グランディア』、そしてその御名を受け継いだ『グランディオス』。さらには母であるエレナ様の魂であり、王家の誇りである『エルディアーナ』。……魔族も人間も関係ない。二つの世界の頂に立ち、この国に希望を灯す者。……それが、お前が産声を上げる前から、二人がずっと呼び続けていた名前なのじゃよ」
――アレン・グランディオス・エルディアーナ。
十六年前、幸せな光の中で、父さんと母さんが笑い合いながら僕に贈ってくれた、世界で一番温かな贈り物。
僕は、自分の右腕をそっと目の前に掲げた。
先ほどまで「化け物の腕」だと忌み嫌い、自分から切り離したいとすら願っていたそれは、今では全く別の意味を持って僕の視界に映る。
(グラン……ディオス……、エルディアーナ……)
父さんの真名である『グランディア』と、その誇り高き名『ディオス』。
そして、母さんが命を懸けて守り、僕へと託した王家の名『エルディアーナ』。
二人の名前を、僕自身が、この一振りの腕で繋いでいる。
僕が生きていること自体が、二人が種族を超えて愛し合った、何よりの証なんだ。
そう思った瞬間、心臓の奥がドクン、と大きく脈打った。
右腕の奥に燻っていた「熱」が、今度は僕を守るような確かな力強さを持って全身に広がっていく。
その熱は全身の血の中へと、深く、静かに馴染んでいった。
僕はゆっくりと顔を上げ、二人を見つめた。
そこには、穏やかに微笑むミレイユさんと、そして、込み上げるものを堪えるように僕を凝視する師匠の姿があった。
「……良い目になった。これならば、あの方々も安心されるじゃろう」
師匠が、掠れた声でそう呟いた。
彼はゆっくりとした動作で、僕との間に一歩分の距離を置く。
そして、重厚な音を立ててその場に膝をついた。
かつてエルディアーナ王国の頂点に立つ騎士として、王の前で行ったのと全く同じ、非の打ち所のない臣下の礼。
「し、師匠……?」
あまりのことに動揺する僕を、師匠――いや、老騎士ガルドは、厳かな、けれど誇らしげな眼差しで見上げた。
「……かつて、わしはあの方々に誓いました。いつかこの子が自らの運命を受け入れ、前を向いたその時、わしは再び『騎士』に戻ると」
ガルドは居住まいを正し、拳を胸に当てて深く頭を垂れた。
「アレン・グランディオス・エルディアーナ様。……我が主よ。これよりこの命尽きるまで、老骨ガルド、貴方様の剣となり盾となり、その歩む道を切り拓くことを誓いましょう」
その言葉は、冷たい洞窟の空気を震わせ、僕の胸に真っ直ぐに突き刺さった。
「…………」
言葉が出なかった。
今までずっと「師匠」の、その背中を追い続けてきた。
けれど、今目の前で跪くその姿は、これまで以上に頼もしく、僕の行く末を護る巨大な城壁のように見えた。
あまりに重いその誓いに、なんて言葉を返せばいいのか分からない僕をよそに、師匠は静かに立ち上がった。
彼は居住まいを正すと、その鋭い視線を傍らのミレイユさんへと向けた。
先ほどまでの慈愛に満ちた「師匠」の顔ではない。
それは、主の安全を脅かす懸念を一切許さない、冷徹な「武人」の眼差しだった。
「……さて。ミレイユ、これで隠し事は一つもなくなった。アレン様の出生も、聖教会の闇も、わしが知るすべてをお前に話した」
師匠は、岩壁に背を預けていたミレイユさんを、正面から射抜くように見据える。
「わしはお前を信じ、すべてを語った。……ならば、お前も本当のことを話してくれるな? 貴様は、一体何者だ」
洞窟の隙間から差し込み始めた朝日が、彼女の横顔を白く照らし出す。
その光に目を細めながら、ミレイユさんの表情が、一瞬で「戦士」のそれへと引き締まった。
「……はぁ、やっぱりそうくるよね。まぁ、ここまで聞かされちゃあ、あたしだけ知らんぷりってわけにも、いかないしね」
彼女は預けていた背を離すと、アレンとガルドを交互に見つめ、静かに口を開いた。




