第13話 十六年前の惨劇
「エレナ様はこのエルディアーナの第一王女にして、聖と光、二つの魔法系統を極めた奇跡ともいえる功績を称えられ、『聖女』の称号を授かった。……アレン。お前の母は、そのエレナ様なのじゃよ」
脳内が真っ白に染まった。
聖女、エレナ。
村の教会へ行くたびに、当たり前のように目にしていたあの肖像画や聖像。
人々が跪き、救いを求めて祈りを捧げていた救世の象徴。
あまりに遠い、雲の上の存在だと思っていた「聖女エレナ」が、僕を産んでくれた母親だったなんて。
「……あの、肖像画の? みんなが跪いて、名前を呼んで、必死に祈っていたあの『聖女』が……僕の、母さん?」
遠い神話の向こう側にいると思っていた人が、急に自分の隣に降りてきたような感覚。
あまりに存在が大きすぎて、頭がその事実を「家族」として受け入れるのを拒絶している。
僕は、震える左手で自分の右腕を強く掴んだ。
教会の聖像で見たエレナ様の手は、いつも穏やかに人々に差し伸べられていた。
けれど、僕のこの手はどうだ。
黒く、禍々しく、ただそこにあるだけで周囲を威圧する魔王の右腕。
光そのものだったあの人が、本当にこの「化け物」のような僕を抱きしめたことなんてあるのだろうか。
僕の中に流れる、相反する二つの血。
そのあまりの重さに眩暈がした。
「……嘘だろ。そんなの、信じられるわけ……っ」
絞り出した僕の声は、情けなく震えて洞窟の闇に消えた。
そんな僕を、師匠はどこか遠くを慈しむような目で見つめて言った。
「……信じがたいのも無理はない。だがアレン、二人はただ愛し合っただけではないのだ」
師匠はそこで一度、失われた時を惜しむように目を細めた。
その横顔には、かつて一国の軍を率いた者だけが持つ、鋭くも哀しい威厳が宿っている。
「かつてエルディアーナ聖王国の近衛騎士団長として、あの方々の背中を最も近くで守ってきたわしにはわかる。魔王と聖女……本来なら決して交わらぬ二人が手を取り合うことで、種族の垣根を壊し、誰もが手を取り合える新しい世界を作ろうとしていたのじゃ。いつか生まれてくるお前が、日陰に隠れることなく、光の下で笑えるような……そんな未来を、二人は本気で夢見ておられたのだよ」
師匠はそこで一度言葉を切り、悔しさに顔を歪めた。
「……だが、その眩しすぎる『希望』を、どうしても許さない者たちがいた。 今や現魔王の座に就くヴァイス。そして聖教会の、歪な純血主義者たちだ」
師匠の声が一段と低くなり、苦々しさが滲む。
「……和平を望まぬ魔族の筆頭格であったヴァイスは、最初からディオス様を陥れるつもりでおった。奴は配下のザディルを忠実な臣下のフリをさせて送り込み、側近という立場を利用して、内部からディオス様を陥れるための裏切りの準備を着々と進めておったのじゃ。……一方で、その不穏な動きを察知した聖教会もまた、それを絶好の好機とした」
師匠の拳が、みしりと音を立てる。
「和平が成れば、魔を討つ存在としての聖教会の権威は揺らぐ。それを恐れた奴らは、陛下の決意を正面から止める術がないと悟るや、狂った手段に出た。……奴らは密かにヴァイス側と接触し、あろうことか魔王を封じるための『道具』を奴らへ譲り渡したのじゃよ。魔を討つべき聖職者が、己の権力がために、魔族に手を貸したのじゃ」
あまりに重く、汚い真実に、洞窟の空気が凍りつく。
「……十六年前のあの夜。エルディアーナの離宮は、この世のどこよりも温かな幸せに包まれておった。産声を上げたお前を抱き、ディオス様とエレナ様は、それこそ見たこともないような慈愛に満ちた笑顔を浮かべておられたのじゃ」
師匠の拳が、膝の上で白くなるほど強く握りしめられる。
「……だが、わしがもっと気を引き締めねばならなかった。お二人の幸せを前に、わしは一瞬、平和の完成を信じて……守護者として張り詰めていた気を、自ら緩めてしまったのじゃ。悔やんでも、悔やみきれん。その一瞬の隙を、奴らは見逃さなかった」
師匠の声が、怒りと後悔に震えた。
「……わしは、その光景をこの目で見ていたのだ」
師匠の声は低く、地を這うような怒りに満ちていた。
膝の上の拳は、いまにも岩を砕きそうなほど白く震えている。
「ディオス様の背後に忍び寄ったザディルが、その懐から『白い釘』を取り出した。……魔王の魔力を一瞬で凍りつかせる忌まわしき祭具が、無防備なディオス様の背へと深々と打ち込まれたのだ。……あの方は必死に抵抗されたが力は奪われ、その場に膝をつかれた。……本当に、一瞬の出来事だった」
アレンは息を呑み、師匠の言葉に釘付けになる。
最強の騎士の目が、十六年前の絶望を映し出していた。
「……だが、本当の地獄はそこからじゃった。ディオス様が連れ去られようとするのと同時に、離宮の壁を突き破り、ザディルの兵と魔物の群れが雪崩れ込んできた。さらには混乱に乗じた聖教会の『異端審問官』どもまでが、生まれたばかりのお前を殺そうと牙を剥いたのじゃ」
師匠は、悔しさに顔を歪めて一度天を仰いだ。
「わしは、連れ去られるディオス様を追いたかった。……だが、わしの主君である国王陛下からは、和平の懸け橋となるエレナ様とお前の守護を、このガルドに託されていた。近衛騎士団長として、わしは何よりもまず、王家の血と希望を守り抜かねばならなかったのじゃ。わしは血を吐く思いでディオス様に背を向け、エレナ様の前で剣を抜いた」
師匠の肩が、激しく震える。
「……じゃが、お前の母上は、ただ守られるだけのひ弱な王女などではなかった。あの方は崩れ落ちる体に鞭打ち、生まれたばかりのお前を抱いたまま、立ち上がられたのじゃ」
「母さんも、戦ったんだ……」
「ああ。いかに産後すぐの身とはいえ、あの方は聖女。魔法を放つたび、命の灯火が削られていくのがわかったが、それでも一歩も退かなかった。押し寄せる魔物と執行人どもを、その圧倒的な力で次々と塵に変えて見せたのじゃ。……じゃが、敵は無限。わしが教会の精鋭に足止めを食らい、あの方の元へ駆け寄れぬその隙に、奴らの凶刃がエレナ様を捉えた。……それでも、あの方は止まらなかった」
師匠の拳が、みしりと音を立てて固く握りしめられる。
「あの方は最後の力を振り絞り、わしですら目が眩むほどの極大魔法を放たれた。光が襲い来る敵の大半を影すら残さず吹き飛ばした……その一瞬の隙を突き、わしはエレナ様とお前を抱え、火の海となった離宮を脱出したのじゃ」
「……だが、森の深くまで逃げ延びた時、わしは気づいてしまった。わしの背中で、エレナ様の息が急速に弱まっていることに。……あの方の腹部には、極大魔法を放つ前、お前を庇った際に受けた深い、深い致命傷があったのじゃ」
師匠は溢れ出しそうな嗚咽を、喉の奥で必死に押し殺した。
「わしは叫んだ。今すぐ傷を癒すと、こんなところで死なせないと。……だが、あの方は震える手でわしの袖を掴み、静かに首を振られた。自分の命が、もう指の隙間から溢れる砂のように残っていないことを、誰よりも悟っておられたのじゃ。
『ガルド……この子を……アレンを連れて、今すぐ遠くへ。……生きて』
それが、王女エレナ様からわしへ下された、最期の命令じゃった。 あの方は死の淵で、お前を抱くわしの腕の中、血に染まった指先を懸命に伸ばされた。そして、お前の幼い頬を、壊れ物を扱うように優しく、本当に愛おしそうに撫でておられたのじゃ。 あの方の瞳からは、すでに光が消えかけていた。それでも、お前を見つめるその眼差しだけは、この世の何よりも温かく輝いておった。
『……たとえ世界があなたを拒んでも、あなたは私たちの誇り。……生まれてきてくれて、ありがとう。愛しているわ、アレン』
……そう言い残し、あの方は微笑みを湛えたまま、静かに息を引き取られた。わしは主君を救えず、戦って死ぬことも許されず、ただお前を連れて逃げる……それが、わしの犯した最大の罪であり、生涯を懸けた贖罪の始まりだったのじゃ」




