仮初の平穏
夜は静かだった。
焚き火の残り香がまだ衣に染みている。
窓の外では風が草を撫で、虫の音が絶え間なく響いていた。
この村の夜は、静かすぎて油断ならない。椅子に座ったまま目を閉じ、呼吸を整えた。
今夜も、任務に変わりはない。
「普通の生活を送れ」
それが命令だ。
今までのどの任務よりも厄介な命令だった。
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机の上には、ナイフと布。刃の手入れは、もはや儀式のようなものだった。刃の線を指でなぞる。
指先の皮膚は厚くなり、痛みも感じない。
その感覚こそが俺にとっての普通であり日常だ。
「……任務の継続を確認」
自分の声が小屋の壁に吸い込まれていく。
殺し屋として過ごした20年以上が身体の奥に沈殿している。
抜けるはずもない。
この動作をやめた瞬間、自分という構造が崩れる。
外で犬が吠えた。
首が反射的に動き、音の方向、距離を瞬時に測る。
気づけば、手はナイフの柄に触れていた。
「……反応速度、まだ問題なし」
呟きとともに手を離す。
これは演技ではない。習慣だ。
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食事の夜のことを思い出す。
笑い、声、匂い。
それらを思い返すと、なぜか体が静かになる。
しかし、それは「心地よさ」ではない。
何も起こらない時間ほど、もっとも危険だ。
「……訓練の一環だ」
そう言い聞かせる。
メリーの笑顔も、レクトの軽口も、観察対象として記憶しておく。
人との接し方を学ぶ。
言葉の間、表情、反応。
“普通の人間”を演じるための材料。
感情はいらない。理解すればそれで足りる。
眠れぬ夜。
机の上のパンを手に取った。冷えたそれをかじり、咀嚼し、飲み込む。味はない。ただの体を動かすための燃料だ。
“普通の人間”は食事をし、眠り、明日を迎える。
ならば、そうすればいい。普通を演じるのだ。
「……明日は、畑を手伝う」
独り言のように呟く。
予定を口に出すことで、少しだけ“人間らしさ”が増す気がした。
演じるとは、形を整えること。
形が整うならば心は必要ない。
机の上に置いたナイフを布で包む。
――殺すという行為を、忘れるな。
どれだけ“普通”を演じようとも、それが自分の基盤。
灯りを消す前、ロイドは短く息を吐いた。
「……平穏。任務としては成功だ」
小屋の中は闇に沈む。
眠りに落ちるその瞬間まで、ロイドの手は、微かに刃の感触を探していた。