生きるための訓練
朝の霧がまだ地面に残っていた。
扉を開けると、湿った草の匂いが肌にまとわりつく。鳥が鳴き、遠くで犬が吠えた。
この村の朝は、どこか音が多い。誰かの生活音、足音、話し声。
しかし、不思議と不快ではない。
家の鍵を確かめ、外套を羽織る。今日の目的は買い出しだ。
――“普通の生活”を送るための行動のひとつ。
普通の生活を送る、それが任務であることを忘れてはいけない。敵地で地図を覚えるように、道と建物の位置を記憶していく。
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村の通りには、朝の光が差し始めていた。
井戸端では主婦たちが笑い合い、畑からは鍬の音が響く。
“風景”として処理する。命の気配が溢れているのに、どこか遠くに感じた。
「ロイドさん、だったね?」
声に顔を向けると、腕まくりをした女性が籠を抱えて立っていた。
年の頃は三十代半ば、たくましい腕に陽の光が反射している。
「これ、うちの畑で採れた野菜。朝に採ったばかりなの。よかったら食べてみて?」
名前は確かメリーだったか。彼女は気さくに笑って差し出した。
毒はない。匂いも異常なし。問題ない。
思考が終わるより早く、手が動いた。
その場でかじり、噛み、飲み込む。
「……悪くない。保存は効かないが、栄養価は高い」
分析のような言葉に、メリーの笑みが一瞬止まった。
それでもすぐに柔らかく笑い直す。
「あなた……本当に変わってるね。でも、悪い気はしないわ」
ロイドは首を傾げた。
褒められているのか、警戒されているのか判断がつかない。
ただ、ここで立ち去るのが自然だと判断し、軽く会釈をして背を向けた。
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村の中央の通りへ出ると、人の流れが増えていた。
市場と呼ぶほどの規模ではないが、籠を提げた人々が野菜や布を交換している。
笑い声があちこちで弾む。
一軒の木造の店が見えた――「雑貨屋」と彫られた看板。
扉を押すと、鈴の音が鳴り奥から軽やかな足音がやってくる。
「いらっしゃいま──」
言葉が途切れる。
現れたのは、二十歳前後の若い女性だった。
焦げ茶の髪を後ろでまとめ、淡い緑の瞳が印象的だ。
彼女は一瞬、ロイドを見て息を呑んだが、すぐに笑顔を作る。
「えっと……初めてのお客様、ですよね?今日は、何をお探しですか?」
何を探す?
問われて初めて、目的を思い出す。
“普通の生活”を送る。ならば、必要なものを揃えるのが筋だ。
「食料だ。常温保存できるものを、三日分」
声は硬く、まるで任務の報告のようだった。
女性は目を瞬かせ、少しだけ笑みを引きつらせた。
「……了解しました」
数分後、手渡された袋の中には、乾いたパン、干し肉、芋。
保存性と効率を最優先にした選択。
袋の重みを確かめ、会釈をして背を向けようとした。
「ロイドさん、でしたね?」
呼び止められる。
「また来てくださいね」と柔らかく言われ、ロイドは少しだけ眉を動かした。
……名を、知っている。
村長が伝えたのだろう。だが、名を呼ばれるという行為自体に、わずかな違和感が走る。
名前は報告書に記される記号でしかない。任務によって名前は変わる。ただの記号、文字でしかない。しかし今、それが“挨拶”の中で呼ばれている。
意味を理解できないまま、無言で頷き、店を出た。
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外に出ると、朝霧はもう消えていた。
通りのあちこちで、誰かが笑っている。
袋を手に、立ち止まる。
この村には、温度がある。
それを心地よいと思えない自分が、どこか壊れているのかもしれない。
「……これも訓練の一部、か」
呟きながら、ロイドは歩き出した。
人のいる場所に背を向け、静かな方へと。
一応確認はちゃんとしていますが、誤字があればお知らせください…