異質との遭遇
小さな雑貨屋があった。白い花が陽の光を浴びて微かに揺れている。扉を押し開けると、小さな鈴が鳴り、店内の空気がほんのり温かく震えた。
「いらっしゃいませ――」
カウンターの奥から顔を出したのはセレナだった。焦げ茶色の髪を後ろで束ね、白いエプロン姿で、客を迎える笑顔を浮かべていた。だが、その視線が騎士団の紋章を見た瞬間、呼吸が止まったように目を見開く。
「……どういったご用件でしょう?」
バルドは静かに一歩前へ進む。
「急な訪問、失礼する。少々、村のことで伺いたい。あなたはセレナ殿で間違いないか?」
「は、はい……」
セレナは緊張で声を震わせながらも、真っ直ぐに姿勢を正す。アリアが一歩前に出て、柔らかな声で告げた。
「怖がらせるつもりはありません。ただ、村で起きた魔獣討伐について、正確な情報を集めているのです」
セレナの表情が、ほんの少しだけ緊張から真剣なものへと変わる。
「魔獣のことでしたら、私も……その場にいたわけではありませんが、報告を聞いています。私が答えれる範囲でしたら……」
その健気さに、店内の空気が和らぐ。ラグナは棚に並ぶ薬草や紐を視線で追いながら口を開く。
「ロイドという人物を探しています」
「っ……!」
セレナは僅かに目を揺らし――しかしすぐ何かを納得したかのように、どこか嬉しそうな色を浮かべた。
「やっぱり……ロイドさんは、皆さんのお仲間だったんですね!」
「…………は?」
セレナの言葉に、騎士団の三人は同時に声を止めた。アリアが慎重に問い返す。
「なぜ……そう思ったのですか?」
セレナは自分の勘違いにすら気づいていない様子で、真剣に語る。
「だって、強くて冷静ですし。お国から正式に書簡が届いていて、今は療養中だって。それに魔獣退治といはいえ、こんなたくさんの方が来るなんて、ちょっと大げさすぎる気がして……てっきり魔獣の件とは別にロイドさんのお見舞いにきたのかなって……違いましたか?」
ラグナがバルドを一瞥する。バルドは表情を崩さず、静かに問う。
その間違いを指摘することで警戒されてしまっては意味がない。
「セレナ殿。ロイドは今どこに?」
「特に用事がなければ小高い丘の小屋にいると思いますよ?」
アリアが優しい微笑みを浮かべた。
「案内をお願いできますか?もちろん、無理にとは言いません。この村で仲良くされてる方と一緒の方が彼も安心すると思いまして」
セレナは一瞬だけ迷ったが――すぐに小さく頷いた。
「……わかりました。それなら私が案内します。……あ、でもお店もあるので途中までになってしまいますが……」
扉に鍵をかけ、エプロンを外しながらセレナは言う。
その言葉に、バルドはごく僅かに頭を垂れた。
セレナはほっとしたように微笑み、店の扉を開けて外へ出た。
その背を追いながら、バルドは静かに思う。
この村での評価は悪くはない。しかし、ダリオの一件、あれは完全に怯えていた。そして、国からの正式な書簡の件といい……さて、どうしたものか。
---
セレナは店の戸締まりを終えると、振り返って軽く頭を下げた。
「では、こちらです。ロイドさんの小屋は村から少し離れているので……途中までになりますが」
「助かる」
バルドが礼を言うと、セレナはよどみなく歩き出す。ラグナとアリアは少し距離をとりつつ後に続く。
「ロイドさんは……少し不器用な方です」
歩きながらセレナが口を開く。
「不器用?」とラグナが問い返す。
「はい。野菜を切るのは苦手ですが、薪を割るのは誰よりも早くて……。あと、人と話すのは得意じゃないみたいです。村の人たちも最初は距離を取ってましたけど……今は“少し不器用な、真面目な人”という印象ですね。それにレクトさんとメリーさんっていう夫婦から可愛がられてるんです」
セレナの声には迷いがなかった。
アリアが微笑を含んで問いかける。
「では、戦士とか、兵士のような印象は?」
セレナは数歩歩いてから、首を横に振った。
「村長さんからは戦争で負った傷を癒すために療養をしているって聞いてます。それ以外にも色々あったんだろうってレクトさんが……ふふ、察してやるのが大人だって言ってました。色々抱えてるように見えますが、普通の生活をしようとしてるんだろうなって、私はそう思ってます」
ラグナがふっと目を細める。セレナの言葉は素朴だが、核心を突いていた。
戦争で傷を負った兵士が辺境の村で療養をとるというのは不思議でない。しかし、身元が不明にも関わらず戦争に参加し療養のために、と“国から正式な書簡が出されている”という異常な状況であることに変わりない。
「その不器用な真面目さが、村の信頼を得ているわけですね」とアリアが小さく呟く。
セレナは頷いた。
「はい。ロイドさんは優しい人です。……それ以外は、本当に普通です。あ、ちょっと力持ちかもしれませんけど」
バルドは微かにまぶたを伏せた。
“普通”という評価。それが、逆に異質さの匂いを濃くしていた。
---
やがて道は村の境界を抜け、林の手前へと差しかかる。セレナは立ち止まり、小屋が見える丘を指し示した。
「あの小屋がロイドさんの家です。私はそろそろ戻らないといけないので……」
「案内、感謝する」
バルドが礼を言うと、セレナは少し安心したように微笑んだ。
「ロイドさんは進んで人に干渉しようとしない人ですが……助けを求められたら断らない人です。昔がどうだったかは分かりませんが、いい人ですよ。……あ、皆さんなら言わなくてもわかると思いますけど!」
そう言って踵を返し、静かに村へと戻っていく。
その背を見送りながら、ラグナがぽつりと呟いた。
「――やはり、ただの“村の男”ではなさそうですね」
小屋は丘の上にぽつんと立っていた。村の喧噪から切り離されたその一画だけが、まるで時間の流れを拒んでいるかのように静まり返っている。
「ここが……ロイドという男の住処か」
バルドは周囲に目を走らせ、低く指示を出した。
「アリア、ラグナ。村に展開している部隊のうち、目立たぬ者十名をこの場に集めろ。村人には“王命の書簡確認”と言っておけ。余計な詮索はさせるな」
「はっ」
ほどなくして、影のように静かな足取りで十名の騎士が集まった。誰も鎧を鳴らさず、誰も声を発しない。だがその全員が、無意識のうちに空気を張りつめさせていた。
「……魔力の流れが不自然です」
アリアが囁く。眉はわずかに寄り、警戒がその眼差しの奥に宿っていた。
「この小屋からは魔力がほとんど感じられません……魔力が流れていないなんてことはあり得ませんが」
ラグナが眉をひそめる。
その言葉の最中、バルドは手を上げた。全員の動きが止まる。
「……小屋の中から、何かが動いた」
扉が内側から静かに開いた。蝶番は音を立てない。だがその瞬間、小屋の周囲の空気がぐらりと揺れる。風が吹いたわけではない。熱や冷気でもない。ただ、空間そのものが“わずかに沈んだ”。
ロイドが、現れた。
その姿は小屋の影に半ば溶け込み、陽光を拒むかのように輪郭が曖昧だった。顔立ちは人間そのものだ。だが、目の奥に宿る何かが――人ではなかった。
それは“感情の不在”ではなく、“感情という概念に関与していない何か”という異質さ。
騎士のひとりが反射的に息を呑み、剣に手をかける。
その隣の騎士も無意識に盾を構えかけた。
誰も敵意を向けられていないのに、身体が防御姿勢を取ってしまう。理性ではなく、生存本能が、目の前に立つ男を“災害”と認識していた。
ロイドはゆっくりと視線を巡らせ――バルドを正確に捉える。
その瞳は揺れなかった。
まるで、相手が誰であるかすら関係なく、ここに立っている存在全てを“形”としてのみ把握しているように見えた。
そして――初めて、ロイドが口を開いた。
「……この人数は、想定外だ」
低く、淡々とした声だった。
驚きも、警戒もない。ただ事実を認識したというだけの響き。
バルドの背後で、ラグナがわずかに構える。
アリアの瞳が僅かに見開かれる。
――あぁ、この男は“来訪”そのものは予測していた。ただ、“規模”を予測外として数え上げた。そしてこの男はこの状況を危機としては捉えていない。
バルドは静かに口を開く。
「第一師団長、バルド・グラズヘイン。王の命により、魔獣討伐の詳細を確認に参った。――ロイド殿とお見受けする」
ロイドは目を細めた。それは表情というより、光の量を調整する動作のようだった。
「その通りだ。……用件を聞こう」
言葉は短い。
だが、その短さの奥に、“こちらの反応を観察している”温度のない視線がある。
バルドは、確信した。
――この男。人ではある。だが、“常識”という枠には属していない。
---
ロイドは一歩だけ後退し、扉を僅かに広げた。
「……中で話そう」
その声音には歓迎も拒絶もない。まるで“雨宿りは屋根の下で行われるもの”と言うのと同じ程度の、当然の判断として告げているだけだった。
しかし、その一言で、場の空気は目に見えて張り詰めた。
――小屋の中に入ること。
それは、“人ならざる圧”の発生源に、自ら足を向けるという行為だった。
ラグナが反射的に一歩踏み出し、低く囁いた。
「師団長、警戒を――」
「ラグナ」
バルドは静かに名を呼ぶだけで制した。声に力も強弱もない。だが、それだけでラグナは言葉を閉ざし、槍にかけかけていた手をそっと下ろした。
アリアが目を伏せ、わずかに頷いた。
――ここから先は、“騎士団としての礼節”と、“未知への畏れ”の両方が試される。
バルドは一歩進み、ロイドの小屋の敷居をまたいだ。
瞬間――空気が変わった。
小屋の内部は驚くほど質素だった。木製の机、調理用の道具、壁に掛けられた乾燥肉とハーブ。しかし、どこにも生活の「匂い」がない。火の気も、人の温もりも、まるで意図的に消されているかのような“無臭の空間”。
それは、生活するため作られた場所ではなく、“ただいるための場所”だった。
続いてラグナが入る。彼の喉がわずかに鳴る。息を整えようとしているのがわかる。
アリアは一歩中へ踏み入れたところで立ち止まり、周囲へ目を巡らせた。
「……魔力の気配が、やはり不自然です。これだけ近づいても一切魔力が感じられない……」
バルドは目線だけを動かし、ロイドに問う。
「ロイド殿。我らは、ただ魔獣討伐の詳細と、今後の安全対策を確認するために来た。あなたと敵対する意図は一切ない。どうか、これを第一に理解してほしい」
ロイドは黙ってバルドの言葉を聞き、短く頷いた。
「理解している。俺も、その方が都合がいい」
都合がいい――この場にいる誰もが、その言葉の裏を読もうとした。しかし、裏は存在しなかった。ただ事実を述べているだけの声。そこには虚偽も誠実もない。
バルドはゆっくりと腰を下ろす。机を挟み、ロイドの正面に座る。
ラグナとアリアは左右に控えるように立ち、背を壁につけた。
ロイドは机の引き出しから水差しと木製の盃を取り出し、淡々と並べる。
「俺に答えられる範囲であれば、応じる」
バルドは息を整える。目の前の男は、まるで深海の底に横たわる巨大な影のようだ。静かだが、一歩踏み誤れば、そのまま飲み込まれる。
「――ロイド殿。魔獣を討伐したのは、あなたで間違いないか?」
その問いに、ロイドは淡々と頷く。
「間違いない」
「ではなぜ虚偽の報告をした」
ロイドは僅かに目を伏せる。
「任務に抵触する可能性があったからだ」
その瞬間、小屋の温度が一段階下がったような錯覚が走る。
ラグナは息を止め、アリアの指先がぴくりと動いた。
バルドは静かに問いを重ねた。
「――任務とは、誰から与えられたものか」
ロイドは、答えなかった。
答えの代わりに、その眼差しがすべてを語っていた。
そこに宿るのは、“人が口にしてはならぬ名”への従属。
バルドは悟った。
――王の対応といい、ある程度の目星はついた……しかし確証がない。
そして、ゆっくりと口を開く。
「王都では今、とある噂が広がっている。謎の組織が活動してい――」
その瞬間、小屋の空気が沈んだ。




