暖かさと冷酷さ
夜は、静かな音で満ちていた。
遠くの犬が二度だけ吠え、風が草を撫でる。小屋の壁がきしむたび、ロイドは無意識に呼吸の深さを整えた。
卓上には水差しと、畳んだ布。それから、ここに来て長らく使っていないナイフ。
──コン、コン。
控えめなノック。音の高さと間で、相手の体格と癖は概ね割り出せる。
扉を開ける前に、足元の影を一瞥した。
「ロイド、起きてるか」
レクトだった。片手に鍋、もう片方に布包み。湯気の匂いが夜気に混じる。
「悪いな、遅くに。メリーが“冷めないうちに持ってけ”ってさ。シチューと、パンだ」
「助かる」
受け取ると、器の温度が掌に移った。熱い。けれど、嫌ではない。
「入っていいか?」
ロイドは短く頷き、簡素な椅子を指した。レクトは腰を下ろさず、立ったまま帽子のつばをいじる。
「……昼間の件だ。ダリオの。村長にこっぴどく叱られたらしい。噂は早いからな」
「そうか」
「“戦場帰りに手ぇ上げやがって”って年寄り連中にまで言われて、あいつもしおらしくしてた。……両親は魔獣騒動があった時に運悪く死んでしまってな。残った妹1人があいつの家族なんだ。素行がどうあれ、働き口を失うわけにはいかないからな」
妹──。
ロイドは器を卓に置き、情報を整然と並べる。
ダリオ。若く、魔術の痕がある。家族は妹ひとり。両親は死亡。……使える情報だ。
レクトは、ロイドの表情が動かないことに気づいたのか、少しだけ苦笑した。
「怒ってねえのか?」
「必要ない」
「……必要、ね」
「挑発に反応しても、結果は悪化する。だから反応しない」
淡々とした言い方に、レクトは肩の力を抜いた。安堵か、諦めか、判断はつかない。
「お前さんは、ほんと真っすぐだな。真っすぐすぎて、たまに心配になるよ」
ロイドは鍋の蓋をわずかに開け、湯気を逃がした。香りが広がる。野菜と肉、そして僅かなハーブ。
“温かい”という感覚が、また掌に戻ってくる。
「妹がいる、と言ったな」
「ああ。まだ小せえ。ダリオも、ああ見えて、そこだけは頼りにされてる。……だから、今日のことは、ほんと、すまんな。俺が謝る筋じゃないが、気になっちまって」
「謝罪は不要だ」
レクトは頷き、壁に掛けた空釘を眺めた。何かを思い出すように、視線が少し遠くへ行く。
「そういや狩りの時、25歳くらいだって話してたよな」
「正確にはわからないが多分そうだ」
レクトは小さく息を吸い、ためらいがちに言葉を継いだ。
「俺にも息子がいたんだ。王都へ出て“でっかく稼ぐ”なんて粋がって、帰らなかった。音沙汰もない。生きてりゃお前さんくらいの歳だった。生きてりゃ、な。無事なのかどうなのかも全くわからない……王都にも行ったさ。ただの骨折り損だったよ」
沈黙。
「似てねえよ。顔も背丈も。なのに、妙に気になっちまう。気にかけてしまうんだ。はぁ……すまん、変なこと言った」
「理解できる」
「ほんとか?」
「人は、近い輪郭に別の誰かを重ねる。合理的ではないが、たぶん普通だ」
レクトは小さく笑った。
笑いながら、視線だけが真面目だった。
「ダリオの件、“このまま放っとくと拗れる”って。今夜はなるべく静かに過ごせってお達しだ。……だから様子見に来た、ってのが本音だ。お前さんのあの怪力を村長も見てたんだろ。何か問題起こさないか気にしてるのかもしれないな」
「問題はない」
「だろうな。お前さん、殴られてもあまり困ってなさそうだし」
ロイドは少し考えてから、事実だけを置いた。
「痛覚は、人より鈍いらしい」
「“らしい”ってなんだよ」
レクトが思わず吹き出し、すぐに咳払いでごまかした。
「……その調子なら、安心だ。あ、シチューは早めに食えよ。メリーのだし。冷めると、あいつ、俺より怒る」
「承知した」
「お前さんに負担かけたいわけじゃないが、村ってのは、誰か一人の事情で風向きが変わる。そういうところだ」
レクトは立ち上がり、戸口へ身体を向ける。
ふと、思い直したように振り向いた。
「なあ」
「何だ」
「怒るのが下手でも、困ったら“助けてくれ”って言っていいからな。言いにくけりゃ、うちの畑の柵折っとけ。すぐ気づく」
柵を壊すのにはそんな意味があったのか。
「……わかった」
レクトは満足そうに頷いた。
「いい返事だ。じゃあ、また」
扉が閉まり、夜が戻る。足音が土を踏む間隔で、レクトの気分の落ち着きが読める。平常。問題なし。
ロイドは鍋を卓の中央に置き、パンを半分ちぎった。
スプーンで掬い、口に運ぶ。温度と塩気。噛むたび、香りが増える。
妹の情報が入ったのは大きい。抑止の材料になる。ただし使用は気をつけるべきだろう。村内の“温度”を損なう行為は、任務の継続性を損ねるのにつながる。
窓の外で、風が草を二度撫でた。
パンをもう一口齧り、鍋の底をさらう。
器が空になると、途端に室内の音の層が薄くなる。火の気のない夜は、軽い。
少しだけ、呼吸が深くなっていることに気づいた。
食事が“温かい”という事実は、演技の精度を上げる材料になる。会話の速度、視線の置き方、言い直しにかかる時間。今日の誤差は、明日には薄められる。
ロイドは灯を落とし、闇に目を馴らす癖を一拍だけ短くした。
棚の奥のナイフには触れない。水差しの位置を少しだけずらす。
「……継続」
声は小さく、報告のように。
“普通の生活を送る”という任務。
ただ、それだけを今夜も続ける。




