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小さな綻び

 朝の靄がまだ地面を這っていた。

 ロイドは扉を閉め、炊き出しの準備へ向かおうとしたところで、前方の路地に三人の影を見た。

 先頭に立つのは、青年──ダリオ。

 その隣に、いつもつるんでいる村の若者たち。


「何か用だろうか」


 ロイドが淡々と声をかけると、ダリオがにやりと笑った。


「戦場帰りって聞いたぜ。どんなもんか、ちょっと見せてくれよ」

「見せるようなものはない」

「遠慮すんなよ。強ぇんだろ?」


 ロイドはわずかに目を細めた。

 逃げ場はある。逃げるのは容易だが、それが最善なのかわからない。

 関係を壊さないためには、弱者を演じるほうが早いだろう。


「……動物相手ならまだしも、人を殴るのは無理だ。勘弁してくれ」


 その言葉に、若者たちは顔を見合わせ、笑い声を上げた。

 「なんだよ、拍子抜けだな」「役に立たない戦場帰りさんだな」


 しかしダリオだけは、笑わなかった。

 その目には、確かに“何か”を試す色があった。


「本当にそうか?」

 

 ダリオは拳を振り上げる。


 拳が頬に当たる。重くもない一撃。だがロイドはわざとよろめき、石畳に膝をついた。

 その瞬間、いくつかの観察を終える。

 拳の皮膚には古い火傷。かすかに残る魔力痕──魔法使い特有のものだ。


 ……十分だ。


 ロイドは自ら唇を噛み、血を滲ませた。

 

「……やめてくれ」

 

 わずかに震えた声。だが目だけは冷たいまま。

 ダリオは鼻を鳴らし、吐き捨てるように言った。

 

「弱ぇな。二匹の鹿担いだって話、嘘だったんじゃねぇのか?」


 男たちが去っていく。

 ロイドは立ち上がり、指先で血を拭った。

 その目は、どこまでも静かだった。


---


 村の広場では、すでに炊き出しの支度が始まっていた。

 大鍋からは湯気が立ち上り、女たちの笑い声が朝の空気に混じっている。

 ロイドは少し遅れてその輪の中に入った。


 セレナがこちらに気づき、手を止める。

 

「ロイドさん、遅かったですね。……どうかしましたか?」


 ロイドは軽く首を振る。


「道で少し、転んだだけだ」


 その言葉のとおり、頬の端には若干の赤い傷。

 口元には乾きかけた血が薄く線を描いていた。

 セレナは目を細めて、そのまま鍋を置く。


「転んだ……?」

「問題ない」


 ロイドは淡々と答え、用意された野菜の入った籠に手を伸ばす。だが、セレナは彼の手元を止めた。


「手を洗ってからにしてください。……消毒も」


 彼女は小さな布を取り出し、水瓶の水を染み込ませて差し出す。

 ロイドは一瞬だけそれを見つめ、受け取った。

 湿った布が頬を撫でる。

 しみるほどではない。けれど、その柔らかさが妙に印象に残った。

 

「……無理はしないでくださいね」

「心得た」


 ロイドは短く答えた。

 セレナは笑って、鍋の方へ戻る。

 その背を見送りながら、ロイドは指先についた水滴を拭った。

 冷たいはずの水が、少しだけ温かく感じた。


---


 野菜を切ろうと包丁を構える。

 だが、力加減が分からず、薄切りにしたはずの野菜を粉砕した。

 周囲の女たちが一瞬固まり、すぐに笑い声が上がる。


「ちょ、ちょっと力入りすぎ!」

「鍋ごと壊す気かい、ロイドさん!」


 ロイドは少し首を傾げ、まじめな顔で答えた。

 

「……加減を訓練されていない」

 

 その真剣さがかえっておかしく、再び笑いが広がる。


 セレナはくすりと笑いながら、新しい包丁を差し出した。

 

「それじゃ、こっちで練習しましょう。壊れにくいほうの野菜で」

「わかった」


そのやり取りの中で、頬の筋肉が動いた、わずかに緩んだのが自分でも少し不思議に思った。 

 

---


 昼が近づく頃、鍋の中はすでに底が見えていた。

 子供たちは満腹そうに頬を膨らませ、広場のあちこちで転がっている。

 笑い声と肉と野菜の匂いが混じり、柔らかい風が通り抜けた。


「ロイドさん、もう大丈夫です。あとは片付けだけなので」

 

 セレナが微笑みながら言った。

 ロイドは頷き、鍋の底の焦げを落とす。


 そのときだった。


「ロイドさーん!」


 甲高い声が広場に響く。

 駆け寄ってきたのは、子供たちだ。顔を真っ赤にして、何かを訴えるように息を切らしている。


「朝、ダリオ兄ちゃんたちに殴られてたでしょ!大丈夫?」


 場が一瞬、静まった。

 笑い声も、火の爆ぜる音も止まる。

 セレナが目を丸くし、子供の肩に手を置いた。


「な、なにを言ってるの……」

「ほんとだよ!三人くらいいて、ロイドさん、血出てた!」


 広場の空気がゆっくりと凍りついていく。

 女たちが顔を見合わせ、男の一人が低く呟いた。

 

「……朝から顔に傷があったの、あれか」


 ロイドはしばらく動かなかった。

 やがて、静かに立ち上がり、布巾を置いた。


「誤解だ。問題ない」


 その声は静かで、少し低かった。

 しかし、その落ち着きが逆に周囲の心をざわつかせた。

 セレナが一歩、前に出る。


「……本当に、誤解なんですか?」

「転んだだけだ」


 ロイドは淡々と答えた。

 子供たちはまだ信じきれない顔でこちらを見ている。

 セレナは彼らの頭を軽く撫で、「ありがとう、もう大丈夫だからね」と優しく言った。


 しかしその声も、場を和ませるには足りなかった。

 数人の村人が小声で何かを話し、視線を交わす。

 哀れみ、疑念、そしてわずかな恐れ。


 ロイドはその視線を受け止めることもせず、ただ鍋の水を捨て、残った灰を片付けた。

 沈黙の中で、子供たちの笑い声だけが風に混じって遠ざかっていく。


 火が小さく弾け、焦げた匂いが残る。

 ロイドは火ばさみを置き、低く呟いた。


「……人の善意は、時に予測しづらいものだな」


 その声は、風とともに灰の中へと消えた。

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