ロイドという男
無文書です
ぜひ楽しんでください
「──ロイドだ。よろしく頼む」
それが、村に着いたとき口にした最初の言葉だった。
本当の名前は持っていない。あったのかもしれないが、必要なかった。与えられた呼び名があれば、それで十分だった。
馬車の車輪が止まる音と同時に、鳥が飛び立った。土と木と、少し古びた家の匂いが鼻をくすぐる。こんな匂いを感じることは今までなかっただろう。
組織から渡された資料には、天候と簡単な地形、それと、新しい名がひとつだけ記されていた。
『ロイド』──それが、今の俺だ。
組織からの命令は「一般人として普通の生活をしろ」。
殺すな。バレるな。一般人として普通の生活をしろ──それが“命令”ならば、従うだけだ。
「……ロイド、か」
白髪まじりの村長が、静かに紙を読み上げ、俺を見た。
目に疑念も好奇心もない。だがその奥に、わずかな思いやりが見えた。
「国の書簡で聞いている。……戦争で苦しい思いをしてきたのだな」
俺は返さなかった。ただ、無言で頷いた。
「ここは静かな村だ。わしらにできるのは、お前さんに静かな日々を用意することだけだ」
言葉の端に、優しさが滲んでいた。形式的な迎えではない。この村の長として、人として、何かを受け入れようとしている目だった。
俺はそれが、少しだけ不思議だった。
与えられた小屋は木々の影に沈み、村の端にぽつんと立っていた。村の中心から離れ、誰の目にもつかない。
俺は“ロイド”。
それ以上でも、それ以下でも、ない。