曖昧な気持ちの答え
【翌日】
「いらっしゃいませ!」
今日もサロンは満席だった。
たくさんのお客様が、それぞれの想いを胸に、THE ROOMへと足を運んでくる。
ロングヘアを思い切ってバッサリ切って、イメージチェンジを。
黒髪を明るく染め、気分を一新。
パーマでやわらかい印象に。
どのお客様も、「綺麗になりたい」という気持ちを抱えてやって来る。
でも、その「綺麗」には、ひとりひとり違う想いがある。
それは、誰かのためかもしれないし、自分のためかもしれない。
そんな想いを形にするお手伝いができる。
そして、その先には“笑顔”が生まれ、私たちはその“笑顔”に触れられる。
それが、美容師という仕事の、何よりのやりがいだ。
昨日、私はあなたの新しい一面を知った。
これまでは、ただ“あなたのために何かしたい”と必死に答えを探していた。
でも、ようやく見つけた気がする。
――あなたを“笑顔”にしたい。
もしそれができたなら、あなたとの心の距離を、少しでも縮められる気がするから。
「お疲れ様です!」
休憩室に入ると、そこにはジュンとタカユキが談笑していた。
「チカ、昨日はミサキと一緒にいた?」
タカユキと話していたジュンが、突然こちらへ向き直って問いかける。
「はい……」
咄嗟のことに、チカの声はわずかに裏返ってしまった。
「ミサキ、どうしてケンのスタジオの場所なんか聞いたんだろうな……」
ジュンが独り言のように呟いた、ちょうどその時――
「お疲れ様です!」
どんな空気かも知らずに、最悪のタイミングでミサキが休憩室に入ってきた。
「ちょうど良かった。昨日、ケンのスタジオに行ったのか?」
ピクリとミサキの肩が動き、すぐにチカと目が合う。
状況を瞬時に察したミサキは、落ち着いた様子で答えた。
「えっと、見学に行ってみようかなって思っただけなんです。昨日は結局、行けなかったんですけどね」
「そんなことなら、俺からケンに頼んでやったのに」
その会話に、チカは思わず口を挟んでいた。
「いや、大丈夫です! だからケン君には何も言わないでください!」
タカユキは不思議そうに首を傾げながら、ジュンに尋ねる。
「ケンって誰ですか?」
「俺の幼馴染だよ」
ジュンが答えると、タカユキはどこか不機嫌そうにチカを見つめた。
「チカが……なんでその人のこと知ってるの?」
突然の問いに、チカはうろたえ、言葉が出てこない。
そんなチカを見て、ミサキがさらりと機転を利かせる。
「私がファンなの! だから、ケン君の話をチカによくしてるのよ!」
その一言に、チカは心の底から救われた思いだった。
「よし、休憩終了! 練習始めるぞ!」
ジュンも何かを察したのか、そう言ってタカユキを連れて休憩室を出ていった。
チカも後を追ってフロアへ向かうが、どこか釈然としないタカユキの表情が気になって、どうにも気が散って仕方がなかった。
営業後の夜練習は日によって違いはあるものの、大体2~3時間ほど続く。
そのため、帰宅が遅くなることが多い。
女性ひとりの夜道は危険だし、ミサキとは家も近いため、私たちはいつも一緒に帰っていた。
店から徒歩10分ほどの距離に、それぞれがひとり暮らしをしている。
寂しい夜は、たいてい私がミサキの家に泊まるのが決まりだった。
ミサキの部屋に来ると、私は決まって二人掛けのソファにひとりで腰を下ろす。
「お酒でも飲む?」
しばらく待っても、私は返事をしなかった。
「チカ!」
「えっ?」
「ケン君のことで頭いっぱいなんでしょ?」
「……タカユキにもバレてると思う?」
「どうだろ。でも、いつまでも隠し通せるもんじゃないと思うよ。ていうか、もうチカ自身が気づいてるんじゃない? 自分の気持ちにさ」
本当は、誰にも気づかれたくなかった。
けれど、ミサキの言葉のとおり、私自身もうすうす気づき始めていた。
タカユキと付き合っているのに――
ほかの人を、好きになってしまいそうで。
一途なはずの私が?
そんなはず、ない……。
だから私は、そんな自分に気づかないふりをしていた。
心の奥で、小さな灯火がともる。
そっと隠しておけば、誰にも知られない。
もし願いが叶ったら――
その時に、そっと吹き消そうと思っていた。
けれど、その灯は日に日に大きくなって、私の心をじんわりと温めてゆく。
「――私は、ケン君のこと……」
そう想った瞬間、私のケータイが鳴った。
ディスプレイには、2件の新着メール。
1通目はタカユキから。
《来週の月曜の夜、泊まりに来る?》
まるで何かを察したような、そのメッセージ。
2通目は、ジュンから。「独り言」というタイトルで送られてきた。
《来週の月曜日、仕事終わったらケンと駅前のBAR“エスカーレ”で会う約束してる》
まるで、私の心の中を見透かしたような内容だった。
どちらを選べばいい?
私のことなんて、何とも思っていないケン君?
それとも、私を誰よりも想ってくれているタカユキ?
――まただ。
大切なものを手にするには、何かひとつを諦めなければならない。
それでも、私の中で答えはもう決まっていた。
もう、自分に嘘はつけない。
《ごめん。その日は前からミサキと約束してて》
後ろめたさを感じながらも、タカユキにはあくまで自然を装った文面で返信する。
《独り言、ありがとうございます!》
ジュンにもそう返し、私はゆっくりとケータイを閉じた。
曖昧だった私の気持ちは――
いま、確かに動き始めていた。
【2006年2月6日(月)】
いつもより少し営業が長引き、時刻はまもなく21時になろうとしていた。
「お疲れ!」
ジュンは意味ありげな笑みを浮かべながら、チカとミサキに手を振り、店を後にした。
チカとミサキは少し時間を置き、なおかつ練習で残っているタカユキの様子を伺いながら、そっと店を出る。
ミサキには今日の経緯をすべて話し、口裏も合わせていた。
BARエスカーレの前に立った瞬間、チカの胸は急激に高鳴りはじめる。
足が前に出ない。
すぐにその様子に気付いたミサキが、無言でチカの背中をポンと押した。
「いらっしゃいませ!」
まるで常連かのように、ミサキは無言のまま指を二本立てる。
店内は薄暗く、ところどころに青いネオンが灯っていた。
ジャズ調の音楽が静かに流れる、落ち着いた雰囲気のバー。
案内される途中、奥にある唯一のソファー席で、真剣な面持ちで話し込むケンとジュンの姿を見つける。
「こちらへどうぞ」
通されたのは、ソファー席とは少し離れたテーブル席。
小上がりになっていて、店内の様子がよく見渡せた。
「私はジントニックにしようかな。チカは?」
「モスコミュールで……」
注文はしたものの、チカはメニューなど一切見ていなかった。
視線はずっと、ソファー席のケンに向けられたまま。
「で、どのタイミングでソファー席に行くつもり?」
ミサキの一言で、チカははっと我に返る。
……考えていなかった。
どんなタイミングで声をかければいいのかなんて、まるでわからない。
わからないまま、時間だけが過ぎてゆく。
焦りからか、チカは普段あまり飲まない酒を四杯もあおっていた。
決して酒に強いわけではない。
いつもならすぐ顔が赤くなるはずなのに、今日はなぜか血の気が引いたように顔が白い。
「酔った勢いで……」と無理に飲み干した四杯の酒だったが、酔いなどまるで感じない。
いくら考えても、ソファー席に向かうきっかけが見つからない。
緊張と、飲みすぎたアルコールのせいでトイレに行きたくなったチカは、席を立つ。
店内を見回し、案内表示を見つけた瞬間、チカはまた席に座り直した。
トイレは、ソファー席の前を通らなければならないのだ。
結局、限界を迎えたチカは再び立ち上がり、鳴ってもいないケータイを耳に当てる。
あたかも誰かと通話しているふうを装いながら背を向け、ケンたちの視線を避けるようにしてトイレへと駆け込んだ。
しばらく洗面台の鏡の前で、自分の顔を見つめる。
ふと思う――。
もしかしたら、トイレを出てソファー席の前を通る、その一瞬が最後のチャンスかもしれない。
せっかくジュンさんがつくってくれたこの機会。
無駄にはしたくない。
鏡に映る自分に、そっと言い聞かせる。
――大丈夫。行ける。
ありったけの勇気を振り絞って、トイレのドアを開けた、その瞬間だった。
目に飛び込んできたのは、男性トイレの順番を待っていたケンの横顔。
ドアの開く音に反応し、こちらを向いたケンと目が合った。
けれど、チカはとっさに視線をそらし、顔を伏せた。
さっきまで膨らませていた小さな勇気は、一瞬にして吹き飛んだ。
「すみません……」
小さな声でそう言って、チカはケンの前を通り過ぎる。
けれど、彼はチカの存在にまったく気づかなかった。
確かに、目が合ったはずなのに。
――それでも、彼はすぐに目をそらした。
「もしかして……気づいてくれたのかな?」
そんな淡い期待をした自分が、馬鹿みたいだった。
こんなにも切ない気持ちは、初めてだった。
彼の存在を知りながら「すみません」としか言えなかった私。
私の存在に気づきもせず、目をそらしたあなた。
すれ違った一瞬、ケンから漂った優しい香り。
その残り香が、チカの切なさをさらに深めていった。
席に戻ってきたチカの表情を見て、ミサキはすぐにその異変に気づいた。
トイレの前で何があったのかなんて、知るはずもない。
「何かあった?」
優しく声をかけるミサキに、チカはただ首を振るだけだった。
しばらく無言が続いたあと、ミサキは何かを決意したように席を立ち、ソファー席の前でぴたりと足を止めた。
「あっ! ジュンさん!」
まるで偶然出くわしたかのような、自然すぎる演技だった。
ミサキが来ると知っていたはずのジュンでさえ、その巧妙さに少し驚いた表情を浮かべる。
「ケン君もお久しぶりです! もしよかったら、一緒に飲みませんか?」
相変わらず浮かない表情のケンを前にしても、ミサキは臆することなく言葉を重ねた。
「チカも向こうの席にいるんですけど、連れて来ていいですか?」
「いいか?」
ジュンがケンに問いかける。
しかし、ケンの返事を待つより先に、ミサキはすでにチカへ手招きを送っていた。
さっきまで落ち込んでいたのが嘘のように、チカは嬉しそうな笑顔でソファー席へと駆け寄った。
ミサキは空気を読んでジュンの隣に腰を下ろす。
「失礼します!」
緊張を隠すため、チカはわざと明るく振る舞った。
その笑顔に、ミサキも静かに微笑みを返す。
いつもミサキに助けられてばかりの自分。
でも、心からありがとう。
「お久しぶりです! 旅行以来ですね」
チカの声は震えていた。
「ああ」
久しぶりに聞くケンの声。
その瞬間、鼓動がさらに早くなる。
どうにか平静を装っているけれど、隣にいるだけで胸が高鳴るのがわかる。
不思議だった。
さっきまでは落ち込んでいたのに、今は彼の隣にいるだけで、こんなにも笑顔になっている。
小さな出来事に切なくなったり、嬉しくなったり。
――ケン君って、本当に不思議な人。
曖昧で揺れていたチカの気持ち。
それは確かな輪郭を持ちはじめていた。
そして、ひとつの答えが――
私は、あなたのこと……。