一筋の光
チカが勤める美容室“THE ROOM”は、スタイリスト9名、アシスタント11名、計20名が働く大型サロンだ。
吉祥寺駅近くのビル1階にあり、広さは約60坪。いつも活気にあふれている。
定休日は、毎週火曜日。
「明日は休みだーっ!」
営業終了後の休憩室で、ミサキが嬉しそうに両腕を突き上げた。
その無邪気な笑顔の向こうで、チカの心は昨日の出来事を思い返していた。
――ジュンさんが話してくれた、ケン君の過去。
幼い頃に背負わされた、あまりに重い現実。
ミサキはそんな真実など、知る由もない。
「ねえ、チカ。明日暇?」
不敵な笑みを浮かべながら、ミサキが尋ねてくる。
「うん……」
思わず警戒してしまう間合い。
「じゃあさ、ケン君の同性愛者疑惑の真相、探りに行かない?」
その一言に、チカは飲みかけていた紅茶を噴き出しそうになる。
「だから、違うってば!」
「もしかして、それを確かめるのが怖いとか?」
「そんなこと、ないし……」
拗ねたように頬を膨らませるチカに、ミサキは満足そうに言い放った。
「よし、じゃあ決定!」
――本当は、行きたかった。
“もっと知りたい”と思っていた。
でも、どうやって動けばいいのかわからなかった。
あの寂しい背中をみて力になりたいと、素直に思った。
あのとき、あの場所で触れた心に、もう一度触れたい――。
ミサキは、そんなチカの揺れる気持ちに気づいてくれていたのかもしれない。
けれどその反面、どこかでタカユキに対する罪悪感が芽生えている。
つい最近付き合い始めたばかりの、優しい恋人。
けれど今、私の心は――。
【2006年1月31日(火)】
時刻は13時。ミサキがジュンに聞いた撮影スタジオ。その向かいにあるカフェで、ケンが出てくるのをふたりは待っていた。
かれこれ1時間――ミサキはそろそろ飽き始めていた。
昨日の夕方からスタジオ入りしていると聞いただけで、仕事の終わる時間までは教えてもらっていない。
チカは冷めたカフェモカをスプーンでぐるぐるとかき混ぜながら、スタジオの入口をガラス越しにじっと見つめている。
「今日は諦めようか?」
気を遣うように、ミサキが真剣な眼差しで外を見つめるチカに声をかけた。
「あと10分だけ!」
チカは顔の前で両手を合わせて懇願するように言った。
最初は、待ち伏せなんてストーカーみたいで嫌だった。けれど、他に方法が見つからなかった。
今はただ、“あなたを知りたい”――その一心だった。
知ったからといって、何ができるわけでもない。
それでも、どうしても知りたいと思ってしまう。
「10分、経ったよ?」
ミサキがそう言いながらチカの顔色をうかがう。チカは小さくため息をつき、立ち上がった。
会計を済ませたミサキが、ドアに手をかけて外に出ようとした――そのときだった。
「やばっ……!」
ミサキが小声で叫び、カフェの観葉植物の陰にさっと身を隠す。
その視線の先を指さしている。
チカがゆっくりと顔を上げると、スタジオの入口で寒そうに手を擦り合わせるケンの姿があった。
さっきまで落ち込んでいたチカの表情が、一転して笑顔に変わる。
「行こう!」
チカの弾む声に背中を押され、ふたりはカフェを飛び出した。
気づかれないように、ゆっくりとケンの後をつけていく。
そして、たどり着いたのは大きな総合病院だった。
ふたりは病院の駐車場にある木の陰に隠れながら、ケンの様子を見守っていた。
ケンは病院の玄関先で、パジャマ姿の高校生くらいの女の子と少し話をしたあと、病院内へと入っていく。
「あの子、ケン君の秘密を知ってるね」
ミサキは、まるで名探偵のような顔つきでつぶやいた。
15分ほど経つと、ケンが再び病院から出てきて、またその子に声をかけてから、スタジオの方向へと足早に戻っていった。
その後ろ姿を無意識に目で追ったチカが振り返ると――
そこにいるはずのミサキの姿が、ない。
周囲を見渡すと、病院の入口へ向かって歩くミサキの姿があった。
チカは慌てて後を追いかける。
ミサキは足早に進み、パジャマ姿の女の子の前で立ち止まった。
「はじめまして! ケン君の知り合いですか?」
突然の出来事に、彼女は驚きを隠せず戸惑っている。
チカはただ慌てるだけで、何も言葉が出てこない。
「はい……」
か細く返事をするその声に、戸惑いがにじんでいた。
「ケン君がこの病院に来た理由って、ご存じですか?」
先走るミサキを制止するように、チカが深々と頭を下げる。
「すみません、この子がいきなり……」
「どうして本人に聞かないんですか?」
「聞いたとしても、私たちには教えてくれないと思うから……」
そう言うチカの言葉に、彼女は小さく何度か頷いた。
「ケンさんはときどき、入院している患者さんをメイクしに来てるんです。今日はユウカちゃんに会いに来ただけみたいですけど」
「ユウカちゃん……?」
チカの声が裏返った。なぜか、胸騒ぎがする。
「その患者さんと……会えますか?」
動揺したせいで、チカの声はいつもより大きくなっていた。
「受付で名前を書けば面会できますよ。その子の名前は、コバヤシユウカさんです」
「ありがとうございます。突然、驚かせてしまってごめんなさい」
「いえ。もしかして、あなたはケンさんのこと……」
「シノブちゃん! そろそろ病室に戻って!」
看護師の声が、彼女の言葉を遮るように響く。
「ケンさんにも、幸せになる権利はあると思うから……」
そう言い残し、彼女は病院の中へと戻っていった。
ふたりは教えてもらった通り受付を済ませ、「コバヤシユウカさん」の病室へ向かった。
長く伸びる病院の廊下。その両側には、いくつもの病室。
そして1231号室の前に立つ。
扉には「コバヤシユウカ」と書かれた札が貼られていた。
今まで通ってきたどの病室とも違い、そこだけが重く沈んだ空気に包まれているように感じられた。
チカは一度大きく深呼吸し、そっとドアをノックする。
「はい、どうぞ」
不安で震える手で、ゆっくりとドアを開いた。
「失礼します」
広々とした個室。その中央のベッドには、中学生くらいの可愛らしい少女が横になっていた。
なぜか、ほっとしている自分がいた。
馬鹿げた妄想をしていた自分が、恥ずかしく思えた。
それにしても、これほどの広い個室……もしかして、重い病気……?
いや、そんな風には見えないけど――
「どちら様ですか?」
細く、可愛らしい声だった。
「突然ごめんなさい。私はケン君の知り合いのチカと言います。この子は私の友達で、ミサキです」
チカがそう言うと、ミサキも会釈を添えて軽く頭を下げた。
「ケン兄の? 何かご用ですか?」
「ちょっと、話を聞きたいなと思って……」
「そうですか。どうぞ、座ってください」
彼女が小さなソファーを手で示すと、ふたりはそこに腰を下ろした。
さっきの出来事を反省しているのか、ミサキは何も言わず、口を閉ざしたまま。
そのせいで少し沈黙が続いたが、その静寂を先に破ったのは、彼女のほうだった。
「……話って、何ですか?」
「えっと……ケン君は、今日ここへ何のために来たのかなって」
少し言い淀んだチカの問いに、彼女はクスリと笑って言った。
「お姉さん、ケン兄のこと好きなんですか?」
「……ち、違うよ!」
咄嗟に否定するチカを見て、ミサキはくすくすと笑い出す。
その様子につられるように、彼女も楽しげに笑った。
「こんな可愛い人に好きになってもらえて、ケン兄も幸せ者だね! ケン兄には、幸せになってほしいから」
さっき出会った少女も、同じようなことを言っていた――
やっぱり、この病院には何かある。
「今日ね、ケン兄は私の“目”を見に来てくれたの。仕事の合間に、たまに会いに来てくれるんだ」
そう言いながら、彼女は自分の目を指差した。
「目……? 目が悪いの?」
そう聞き返しながらチカは彼女の瞳を見つめたが、特に変わった様子はない。
「悪くないよ……」
短く答えるその声には、どこか含みがあった。
「でも、ケン君ってお医者さんじゃないよね? なのに、どうしてユウカちゃんの目を?」
「私にとっては、ケン兄はお医者さんなの。……お医者さんより、すごいかも」
「それって、どういう意味?」
聞けば聞くほど、謎が深まっていく。
「知りたい?」
彼女がそっと問いかける。
「知りたい」
チカはソファーに座ったまま、まっすぐに頭を下げた。
「じゃあ……ケン兄には、今から話すことは絶対に言わないでね」
チカはこみ上げる感情を押し殺すように、深く頷いた。
しばらく躊躇していた彼女だったが、やがて意を決したように、ゆっくりと口を開いた――。
* * *
ケン兄と初めて会ったのは、私が14歳の時。この病院だった。
その頃、ケン兄の存在は――「ボランティアのリハビリメイクさんが来た」――と、病院内でちょっとした噂になっていた。でも当時の私は、“リハビリメイク”という言葉の意味すら知らなかった。
私のように大きな傷を負った人間にとって、“ボランティア”という言葉は、何よりも嫌悪の対象だった。それは健常者の自己満足でしかなく、傷を負った者の心の奥にある傷口を、さらに広げる行為に思えてしまったから。
善意という名の押しつけは、その瞬間に偽善へと変わる。ただの同情に過ぎない。
私は大きな手術を終えたばかりで、酷く傷ついた自分の顔に、深いショックを受けていた。看護師さんに当たり散らし、毎日のように泣いていた。こんな顔で生きるくらいなら、いっそ死んだ方がいい――そう思い詰めるようになっていた。
どうすれば苦しまないで死ねるか。そんなことばかり考えていた。
気づけば、カミソリの刃を左手首に当てていた。こんな醜い顔で生きたくないと思っていたくせに、死にたいと願っていたくせに、その刃を握る右手は震えていた。
死にたいほど苦しいのに、死ねない。
そしてまた、醜く変わり果てた自分の顔を鏡で見ては、「生きる価値なんてない」と思い直す――そんな毎日だった。出口のない暗闇を彷徨っていた。
そんなある日、ケン兄が病室を訪ねてきた。
私は、誰とも話せるような状態じゃなかった。ボランティアという言葉を引っさげてやってきた彼を、正直、迷惑な存在としか受け止められなかった。
それでもケン兄は、私のベッドのそばにある椅子に腰かけ、私が一言も発しない中で、一方的にいろいろな話をし続けた。しかも傷やメイクの話ではなく、ただの世間話。
私は窓の外を見続けながら、一切の反応を示さなかった。彼の存在を拒絶するかのように。
ケン兄は30分ほど一人で喋った後、黙って帰っていった。
やっと諦めてくれた――そう思った。
なのに。
翌日も、ケン兄は現れた。
その日から、ケン兄は毎朝、仕事の前に私の病室を訪ね、30分だけ喋ってから仕事に向かうという、奇妙な日課が始まった。
最初の数週間は、本当に鬱陶しかった。「もう来ないで」と何度も心の中で叫んでいた。
でも、その気持ちは少しずつ、確かに変わっていった。
――この人は、何がしたいんだろう?
――本当に、何かしてあげられるつもりなの?
――こんな毎日、辛くないのかな?
――これは偽善でも同情でもないのかも……。
そう思うようになっていって、いつの間にか私は、ケン兄が来る朝9時を待ちわびていた。
けれど、ある朝。
9時になっても、病室のドアは開かなかった。
この1か月、彼が時間に遅れることなんて一度もなかったのに。
時計の針が無情に進んでいく。
9時半を過ぎても現れない。
――ああ、見捨てられたんだ。
私は、そう思った。
この1か月間、私が口にした言葉といえば、14日目に放った「ウザいから、もう来ないで」という冷たい一言だけだった。
それでも、何も喋らない私のために、ケン兄は一度も嫌な顔を見せず、毎日欠かさず病室に来てくれていた。
時計の針が10時を指す。
……もう来ない。
そう諦めかけた、その瞬間だった。
病室のドアが、ゆっくりと開いた――。
「遅れてごめん!」
ケン兄が息を切らしながら駆け込んできた。
その姿を見た瞬間、私は思わず泣いてしまった。
「どうしたの?」
この時、初めて私は、ケン兄とちゃんと向き合って会話をした。
涙を流しながら、私はゆっくりと、自分の顔に幾重にも巻きつけられていた包帯を外していった。
「こんな私の顔でも……綺麗になれますか?」
左目。
瞼も眼球もすべてをえぐり取られた、醜い私の顔。
だけど――
その私の顔を見ても、ケン兄は、少しも驚かなかった。
「もちろん、綺麗になれるよ」
そう言って、そっと私を抱き締めてくれた。
涙が止まらなかった。
何度も、私の頭を撫でてくれた。
「大丈夫。大丈夫だから……俺に任せて」
その声が、どれほど心強かったか。
「こんなに私の顔は醜いのに……?」
「醜い? どこが? 初めて会った日から、俺にはちゃんと見えてたよ――ユウカの、キラキラと輝いてる左目が」
深い闇の中に差し込んだ、一筋の光。
ずっと求めていた、優しい言葉。
私は声をあげて泣き続けた。
とても、とても温かい――ケン兄の胸の中で。
それから、さらに一か月が過ぎた。
看護師の手で、私の顔に巻かれていた包帯がゆっくりと外される。
左目があった場所にそっと手を当てると、皮膚は綺麗に繋がっていた。
眼球を皮膚ごとえぐり取り、骨と皮だけが残った私の左目。
そこに、骨の輪郭に沿うように皮膚がかぶせられただけの、元の形には程遠い顔。
それでも――。
完全に皮膚が落ち着いたのを確認したケン兄は、そばに置いていたボックスを開けた。
中から取り出したのは、とてもメイク道具とは思えない精巧な器具の数々だった。
「始めよう」
ケン兄のその声とともに、メイクが始まった。
怖かった。
すごく、怖かった。
全身が小刻みに震えていた。
すると、ケン兄は何も言わず、私の手をそっと握ってくれた。
その温もりに包まれた瞬間、さっきまでの震えが、嘘のようにすっと消えてゆく。
私は静かに右目を閉じた。
ケン兄を――信じて。
その作業は、数時間にも及んだ。
頬に、あたたかい手の感触が広がる。
そして、優しい声が耳に届いた。
ゆっくりと右目を開く。
光と闇のあいだに揺れる視界の先――そこには、微笑みを浮かべるケン兄の顔があった。
窓の外を見やると、空はすでに茜色を失い、夜が深まりはじめている。
疲れているはずなのに。
それでも、ケン兄は微笑んでいた。
私の手元に伏せられた小さな手鏡。
それを渡された瞬間、また手が震え始める。
鏡……。
私は、その存在を記憶から消し去りたかった。
病室にある鏡は、すべて壊した。
傷を負う前までは、なんのためらいもなく、そこに映る自分を見ていた。
でも今は違う。
見るのが怖い。
もう――あんな醜い顔なんて、見たくなかった。
そんな私の心を見透かしたかのように、ケン兄の声がやさしく響いた。
「大丈夫」
その一言が、背中をそっと押してくれた。
私は再び目を閉じ、震える手で鏡をゆっくりと表に返した。
――もう二度と見ることはないと思っていた、自分の顔。
そっと右目を開けた瞬間、涙があふれた。
嬉しくて、嬉しくて――
右目から流れ落ちる涙が、止まらなかった。
鏡の中に映っていたのは、特殊メイクで見事に再現された左目。
瞼からまつ毛の一本に至るまで、右目と寸分違わぬ“私の顔”。
そして――そこにあったのは、忘れかけていた“笑顔”の私だった。
「ユウカは、本当に泣き虫だな」
そう言って、ケン兄は私の頭をやさしく撫でた。
「でも、思ってたとおりだよ。笑ってるユウカは、すごく可愛い」
私は笑顔のまま、また涙をこぼした。
「知ってる? “笑顔”よりも綺麗になれるメイクなんて、存在しないんだよ」
そのとき、私は初めて知った。
――一番綺麗な自分になれるメイク。それは、“笑顔”。
だから今、私は毎日を笑顔で過ごしている。
それは、すべてケン兄のおかげ。
私に“笑顔”を取り戻してくれた人。
命を――救ってくれた人。
きっと、それは誰にでもできることじゃない。
もし私がケン兄の立場だったら、最初の1日目で諦めていたと思う。
あんなふうに、誰かのために尽くすなんて、できなかった。
でも、ケン兄は教えてくれた。
諦めなければ、想いは必ず伝わる。
諦めなければ、願いは――必ず、叶う。
* * *
「だから、お姉さんたちも――諦めなければ、きっと想いは伝わるよ」
その言葉は、まっすぐに胸に響いた。
年齢を重ねるたび、経験を積むたびに、余計な知識だけが増えていく。
そのくせ、いつの間にか大切なものを見失っていた。
“想ったって伝わらない”
“願いなんて叶うはずがない”
そんなふうに、勝手に諦めるようになっていた。
幼いころには当たり前のように見えていたものが、今の私にはもう、見えなくなっていた。
願うだけでは叶わない夢。
想うだけでは届かない気持ち。
――でも。
それでも、願っていいんだ。想っていいんだ。
それに、気づかせてくれた。
ユウカちゃん――ありがとう。
彼女は、たくさんの涙を流しながら、それでも笑顔で話してくれた。
ケン君が贈った、あたたかな涙と、やさしい“笑顔”。
「もうすぐ退院なんだ! そしたら、ケン兄とデートするの!」
「ちょっと、それズルい!」
思わず笑ってしまった。
――ああ、こんなふうに心から笑ったのは、いつぶりだろう。
ユウカちゃんの“笑顔”はキラキラと輝いていて、それを見ているだけで、私たちまで“笑顔”になっていく。
まるで、彼女がかつて“笑顔”を失っていたなんて、想像もできないほどに。
ふと気づけば、病室はまるごと“笑顔”で満たされていた。
ケン君のメイクが、彼女の中にあった深い悲しみと、計り知れない苦しみを救ったのだ。
その涙を、喜びの“笑顔”へと変えた。
――メイクって、不思議。
簡単なことじゃない。
だけど、それでも、人をここまで“笑顔”に変えることができるなんて。
ケン君。
人を“笑顔”にする力を持っているあなたなら――
きっと、自分の“笑顔”も、取り戻せる。
私は、あなたの“笑顔”が見たい。
だから――一緒に、取り戻そう。
今度は、私があなたを“笑顔”に変えてみせるから。