表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
もしも願いが二つ叶うなら…  作者: KANATA
第三章 消えない二つの過去
7/30

雪の涙

【2006年1月27日(金)】

 

 あの旅行から、10日が過ぎた。

 ほうきを手に、美容室のエントランスへ出たチカのため息が、白く冬空に溶けていく。

 薄曇りの空からは、粉雪が静かに舞い落ちていた。

 それはどこか寂しげで、胸の奥のかすかな痛みに寄り添ってくるようだった。

 あれ以来――チカの心は、ケンのことでいっぱいだった。

 忘れようとしても、あの夜の言葉の“意味”が頭から離れない。

 悲しそうな瞳、寂しげな背中。それらがまるで焼き付いたように、脳裏にこびりついている。

 ――“夢”と“現実”。

 もしも自分の目の前に、どちらか一方しか選べないとしたら……私は、どちらを選ぶのだろう?

 何度考えても、答えは出なかった。

 そして、ふと浮かぶ。

 ケンは、どちらを選んだのだろう?

 そして、その選択は――正しかったの?


「ため息なんてついて、どうしたの?」


 声に振り返ると、そこにはミサキが立っていた。

 チカは少し迷ってから、ぽつりと尋ねる。


「ねぇ、ミサキはさ……もし“夢”と“現実”が目の前にあって、どちらか一つしか選べないとしたら……どっちを選ぶ?」


 本当は誰にも言うつもりじゃなかった。

 自分の中で答えを見つけるまでは、誰にも知られたくなかった。

 けれど、気づけばその問いが口からこぼれていた。


「私は女だから、夢は選ばないかな」


 ミサキはあっけらかんと言う。「結婚して子どもも欲しいし!」

 その言葉を聞いて、なぜか少しだけ安心した自分がいた。


「チカは?」

「……まだ、選べてない」


 そう答えた瞬間、ミサキが「あっ」と声を上げて手を打つ。


「そういえばさ、ジュンさんが言ってたケン君の“運命”って……あれ、気にならない?」

「うん……それも、すごく気になる」

「ま、悩みがあったら、いつでも聞くからさ!」


 ミサキはそう言い残して、くるりと背を向け、店内へと戻っていった。

 ――“女だから夢は選ばない”。

 ミサキの言葉が、頭の中で静かに反響する。

 たしかに、いつかは結婚したい。

 でも、美容師の仕事も、ずっと続けていたい。

 どちらか一方を捨てるなんて、考えたくない。

 ミサキにとっての“現実”は、結婚して家庭を持つこと。

 じゃあ、彼女にとっての“夢”は? 美容師として働き続けること……?

 だけど、子どもができたら――果たして今のように働き続けられるのだろうか?

 “大切なものは、ひとつしか選べない”

 ――もし、それが本当なら。

 私は、どちらを選ぶんだろう?

 粉雪が静かに降り続くなか、チカはほうきを止めて立ち尽くした。

 胸の奥に沈んだ問いの答えは、まだ遠く、見えないままだった。

 


「今日も一日、お疲れさまでした!」


 スタッフ20名の声が店内に響き、終礼が締めくくられた。

 チカはゆっくりとフロアを歩き、休憩室へ向かう。すでに中にいたミサキの正面に腰を下ろすと、辺りを見回し、タカユキの姿がないことを確かめたうえで、おずおずと口を開いた。


「ケン君って、どう思う?」


 両手を机の上で組み、少し身を乗り出すように姿勢を整える。


「どうって?」

「だから……どんな人なのかなって」


 言葉を繕ううちに、チカの頬はじわじわと熱を帯び、赤く染まっていく。


「わかりやすっ!」


 ミサキがからかうように笑った。


「一言で言うなら“謎”かな。でも、あの旅行でひとつ思ったことがあるんだよね」


 急に表情を引き締め、ミサキの目が鋭く光った。


「なに?」


 チカは興味津々で、身を乗り出す。


「もしかしてさ……ケン君、女性に興味ないんじゃない?」

「えっ?」


 思いも寄らない言葉に、チカは思わず息を呑んだ。


「メイクさんって多いって言うじゃん?」

「何が?」

「同性愛者ってやつ。ケン君、すっごく綺麗な顔してるしさ」


 冗談なのか本気なのか――チカの胸に、不安の種が芽を出す。


「左手の小指にネイルもしてたでしょ? 普通の男ってあんまりやらないよ」

「ただのオシャレなんじゃないの?」

「どうかな。もしかして、ジュンさんと“そういう関係”だったりして」


 さっきまで火照っていたチカの頬は、徐々に血の気を失っていった。


「俺が何だって?」


 シザーを拭き終えたジュンが休憩室に入ってきた。


「なんでもないです! お客様の話をしてたんです!」


 ミサキが裏返った声で取り繕う。


「そうそう! ジュンさんの最後のお客様、かっこよかったよねって!」


 チカも必死に話を合わせた。


「そっか。でも、おかしいな」


 ジュンはロッカーを開けながら、さりげなく言う。


「な、何がですか?」


 チカとミサキが同時に息をのんだ。


「だって、俺の最後のお客様、女性だったけど?」


 意地悪く笑ったジュンの一言に、ミサキはすぐさま席を立つ。


「さてっと! 練習しなきゃ!」


 “後は任せた”と言わんばかりの視線をチカに投げながら近づき、「チカは気付かないフリしてるだけで、もう恋に落ちてるよ」と耳元で囁いたミサキは、そそくさと休憩室を出ていった。

 ――恋してる?

 ――気づかないふりしてるだけ?

 ――まだ何も知らない人に?

 彼氏がいるのに、別の誰かに惹かれるなんて……そんなこと、あるはずがない。

 そう思いながらも、出ていくタイミングを逃したチカは、ジュンと二人きりの休憩室に取り残された。

 フロアではアシスタントたちが練習に励み、スタイリストたちがその様子を見守っている。だがこんなときに限って、誰一人として休憩室には入ってこない。

 ミサキのあの一言――「ジュンさんと“そういう関係”だったりして」が頭を離れず、チカは変にジュンを意識してしまう。

 耐えきれなくなり、チカが先に沈黙を破った。


「ひとつ、聞いてもいいですか?」

「なに?」

「夢と現実、もしどちらか一つしか選べないとしたら……どっちを選びますか?」

「……なんだ、それ?」

「ちょっと、聞いてみたくて」

「夢って言いたいところだけど、俺は現実かな」

「ジュンさんも、現実ですか」

「アシスタントの頃、“自分の店を持ちたい”って夢があった。でも、現実は甘くない。夢ばかり追いかけてると、足元の現実から目を逸らすことになる。現実があってこその夢だよ」


 ジュンは足を組み替え、少し表情を緩めた。


「でも、多くの人がその現実を直視できずに生きてる。人間って、そんなに強くないからさ」


 確かにそうかもしれない。

 輝かしい“夢”を見せられたあとに、突きつけられる“現実”。

 それを受け止める覚悟が、自分にあるだろうか――。


「それ、ケンに言われたんだろ?」


 ジュンの問いで、チカは現実へ引き戻された。


「はい。過去に……何か、あったんですか?」

「本当に、知りたいか?」


 その表情と声色から、ただならぬ過去があると察した。聞くには覚悟が必要なのだと、チカは瞬時に理解した。


「夢と現実の話とは別だけど――ケンに“表情”がなくなった理由なら」


 チカの真剣なまなざしに促されるように、ジュンは言葉を選びながら口を開いた。


「俺も、ケンのばあちゃんから聞いた話だけどな。ケンから表情が消えたのは、たった4歳の時だったって」


 チカはゆっくりと息を吸う。胸の鼓動が、次第に速くなる。


「ケンには……両親がいないんだ」


 その言葉の重みが、チカの胸に深く刺さった。

 まるで、何かが崩れ落ちるような衝撃だった。

 

 

* * *

 

 ケン自身、この話を知ったのは、物心がついた頃だった。

 祖母が語ってくれた――優しさと痛みが混ざり合う記憶。

 ケンには、生まれたときから父親はいなかった。

 いや、正確には、“いなかった”というより――ケンは、母親とその元恋人との間にできた子供だった。

 父親の顔を見たこともなければ、見たいとも思わない。

 母親の顔さえも、今ではもう思い出せない。

 記憶も、思い出も、何ひとつとして残っていない。

 ……いや、正確には――たった一日だけを除いては。

 17歳の母親は、元彼との別れの後に妊娠を知った。

 真実を打ち明けたとき、返ってきた言葉は、たったひと言だった。

 ――「堕ろせ」。

 悩みに悩んだ末、彼女はひとりで産み、育てる決意をしたらしい。

 だが、若くして母になった彼女にとって、子育てはあまりに重すぎた。

 まだ遊び足りない少女のままの母親。

 ケンが2歳になった頃には、ほぼ毎晩、祖母に預けられるようになった。

 そして当然のように、新しい男を作り――

 帰らない夜が、日常になった。

 たまに家に戻って来ても、ケンをまるで邪魔者のように扱う。

 そのうち、顔を見ることすらしなくなっていった。

 そんな母親に、祖母は何度も言葉を投げかけた。

 泣きながら、叫ぶように問い続けた。

「ケンのこと、愛しているの?」

 けれど、その問いに返ってきたのは――あまりに残酷な答えだった。

「愛せない。今は産んだことを後悔してる。あのとき、堕ろせばよかった」

 それが、母親の“最期の言葉”だった。

 その一言を残し、彼女は家から出ていった。

 ケンは泣きながら、母親の背中を追いかけた。

 

 ママ……

 ボクをおいていかないで……

 好きじゃなくてもいい。

 愛してなくたっていいよ……

 オモチャもいらない。

 もう泣いたりしない……

 いい子にするから……

 だから、お願い……

 ボクをひとりぼっちにしないで――。


 それでも、母親は一度も振り返ることなく、冷たい雪の中へと、音もなく消えていった。

 3歳半のケンを置き去りにして。


「ママ……」


 凍える幼いケンの肩に、白い雪がしんしんと降り注ぐ。

 その雪はまるで「泣かないで」と囁くように、ぽろぽろと零れ落ちた大粒の涙を、静かに消していった。

 

* * *

 

 

「その日から、ケンは笑顔も涙も、消したんだ」


 チカは、視線をそっと伏せた。

 涙が流れていることが、バレないように。

 けれど、その涙は、止めようもなく頬を伝い続けた。

 感情のままに、ただ流れる――理由もない、意味もない、だけど確かな涙。

 何かを言いたくても、言葉が見つからない。

 非現実的とも思えるその過去。

 でも、彼の心から表情が消えた理由が、少しだけ、わかった気がした。

 まだ幼かった彼には、あまりにも過酷な現実。

 押し寄せる孤独。

 容赦ない痛み。

 きっと彼は、ずっと、心の中で見えない雪に打たれていた。

 冷たい風に晒されながらも、ただ黙って耐えてきたのだろう。

 泣くことも、笑うこともできずに――。

 あの悲しい瞳も、寂しく切ない背中も、すべてはそのせいだったの?

 だから、すべてを心の奥に閉じ込めてしまったの?

 そうだとしたら、私は願わずにはいられない。

 あなたから笑顔も涙も奪った、その過去を消すことはできない。

 けれど――

 そんなあなたが、これからもずっと一人ぼっちでいていいはずがない。

 あなたが過去に流した、たくさんの悲しい涙。

 そのすべてが、これからは幸せに変わって返ってきますように――。

 なぜ、ジュンさんは私にこの話をしてくれたのだろう。

 きっと、彼自身、自分の口から語るべきことではないと分かっていたはず。

 それでも、話してくれた。

 ……まるで、何かを私に託したかのように。

 そう思えてならなかった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ