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もしも願いが二つ叶うなら…  作者: KANATA
第二章 出逢い
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秘密

「起きて!」


 元気なミサキの声が、耳元で響いた。

 剥ぎ取られそうになる布団を、チカは寝ぼけ眼で必死に押さえる。


「もう9時だよ!」


 布団をポカポカ叩きながらミサキが言うと、チカは顔を出した。

 目元にはまだ眠気が滲んでいる。


「ジュンさんとケン君、もう朝ごはん済ませて、温泉行っちゃったよ」


 その名前を聞いた途端、チカは勢いよく飛び起きた。

 ――昨夜の出来事は、夢じゃない。

 はっきりと記憶に残っている。

 あの寂しくて、切ない背中。

 月明かりの下、海を見つめていた悲しい瞳。

 まるで夢のような現実。でも、“ふたりだけの秘密”みたいで、少し嬉しかった。

 ……秘密、といえば。

 チカは一瞬、タカユキの顔を思い出す。

 同じ美容室で働く同期で、背が高く、整った顔立ちをした男性。

 つい最近、告白されて付き合い始めたばかり。

 この旅行が決まった後のことだったから、「ミサキと温泉行ってくる」とだけ伝えた。

 何となく、言えなかった――自分でも理由はよくわからない。

 人並みに恋愛はしてきた。

 でも、追いかけられる恋愛ばかりで、自分から誰かに惹かれていくような、そんな刺激的で、ドキドキする恋はまだ知らなかった。


「お腹空いた!」


 チカが両腕をぐっと上に伸ばしながらそう言うと、ミサキは嬉しそうに何度も頷いた。

 遅めの朝食を済ませ、ふたりは最後の温泉を楽しもうと部屋を出た。

 温泉へと向かう廊下――そこはガラス張りで、目の前には海岸が広がっている。

 その向こうに、温泉から戻ってきたばかりのケンとジュンの姿が見えた。

 先を歩いていたチカは、思わず反射的にミサキの背中に隠れた。

 自分でも驚くほど、自然な動作だった。

 そんなチカの気持ちも知らず、ミサキは元気よく挨拶を飛ばす。


「おはようございます!」


 チカも続けて挨拶をしたが、それはほとんどミサキにしか聞こえないほどの小さな声だった。

 ケンはその声に気付いたのかどうか、軽く会釈を返してすぐに歩き去っていった。

 でも――それだけで、嬉しかった。


「そういえば昨日の深夜、ロビー行ってたよね?」


 “昨日のことは聞かないで”

 心の中で願ったが、ミサキの問いはその願いをあっさりと破った。


「チカ、途中でどこか行っちゃったよね?」

「えっ、あれは……その、おつりを忘れちゃって! だから取りに……」


 身振り手振りで必死に誤魔化すチカ。

 別にミサキに隠すようなことでもないはずなのに。

 ――だけど、あの夜の出来事は、自分の中だけに大切にしまっておきたい。

 そう、無意識に思っていた。

 やがてチェックアウトの時間になり、外へ出ると、昨日降った雪が少しずつ溶け始めていた。


「いい天気だ!」


 運転席から聞こえたジュンの声に、バッグを抱えたミサキが笑顔で頷く。

 雪解けの地面を歩きながら車へ向かい、ドアを開けたチカは、思わず言葉を失った。

 ――助手席にはミサキ。

 後部座席には、ケン。

 思いがけず隣り合わせた席に、一瞬戸惑いながらも、何とか平静を装って乗り込む。

 車が出発して間もなく、高速の入口あたりで渋滞に巻き込まれた。

 列は長く、まったく進む気配がない。

 バックミラー越しに、ジュンが眠るケンの顔を見つめる。


「昨日、寝られなかったのかな」


 問いかけたわけでもないその言葉に、チカが反応する。


「き、きっと疲れてるんですよ」


 慌てて出たその声は、思わず裏返ってしまった。

 そんなチカをちらりと見ながら、ジュンはわざと明るい口調で言う。


「悪かったな! せっかくいい旅館選んでもらったのに、ケンがずっとこんな感じでさ」

「何か……あったんですか?」


 チカは、眠るケンを起こさぬよう、小さな声で尋ねた。


「“海”に、いい思い出がなくて」


 それ以上、理由は聞けなかった。

 寂しげな目をしたジュンを前に、踏み込んではいけないような気がしたから。


「けどな、俺と飲んだり、人にメイクしてる時だけは……ちゃんと笑うんだ、こいつ」


 ――そんな姿、想像もできない。

 でも、見てみたい――その“笑顔”。

 いつの間にか、助手席でミサキも眠りに落ちていた。

 渋滞の車内は、少し静かで、どこか温かかった。

 

 3時間後――。

 ケンは一度も目を覚ますことなく、車は吉祥寺へと辿り着いた。

 エンジンの音が止まり、ジュンが後部座席に身を乗り出してケンの肩を軽く揺する。


「着いたぞ」


 その声に、ようやくケンがゆっくりと目を開けた。


「じゃあ、ここで解散にするか!」


 ジュンは両手を小さく振って、明るくそう言った。

 それに続いて、ミサキも笑顔で同じように手を振る。


「寝起きだから、足元に気をつけて帰ってくださいね!」


 チカはできるだけ明るく、冗談っぽく言ってみた。

 それが精一杯だった。

 本当はもっと言いたいことがあったのに、声にできなかった。


「ありがとう」


 ケンは短くそう言って、小さく頷いた。

 それだけを残して、ゆっくりと歩き出す。

 遠ざかっていく背中――どこか寂しげで、どこか切なくて。

 チカは目で追いながら、その背中から目を離せなかった。

 もっと話してみたかった。

 あの時の続きも、聞いてみたかった。

 何より――あの人の“笑顔”を、この目で見てみたかった。

 心の中では、何度も言葉を繰り返していた。

 選んでは飲み込み、また選び直す。

 胸の奥では、ドキドキという音だけが鳴り響いている。

 それでも――結局、口に出すことはできなかった。

 たったひとこと。

 たった、それだけの問いかけ。

 ――「また、逢えますか?」

 けれど、それは声にならず、冬の街に消えていった。

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