ジュン
翌日の深夜、仕事の合間にジュンへメールを送った。
《1月17・18日なら、休み取れそう》
忙しいという理由も確かにあった。
でも本当のところは――他に、休みを取らない理由があった。
いや、正確には「取れなかった」のかもしれない。
休んだ瞬間、心にぽっかり空いた“あの場所”を見てしまいそうで、怖かったのだ。
「ケンさん! 出番です!」
控室の扉の向こうから、アシスタントのリョウタが声をかけてくる。
その声に応えるように、タバコの火を消して立ち上がった。
――これが、俺にとって半年ぶりの休みになる。
【2006年1月17日(火)】
旅行当日。
集合場所に到着すると、ジュンの隣に見知らぬ二人の女性が立っていた。
「こいつが親友のケン!」
そう言いながら、ジュンは嬉しそうに俺の肩に腕を回し、にこやかに二人へと紹介を始めた。
「はじめまして! ジュンさんと同じ美容室でアシスタントをしているミサキ、22歳です! この子は同期のチカです!」
「はじめまして、チカです!」
二人が礼儀正しく会釈するのに軽く頷き返しながら、俺はジュンを鋭く睨みつけ、低い声で耳打ちした。
「……聞いてないぞ」
「言ってたら来たか? いつまでもユイのこと引きずってないでさ。気分転換になるって!」
そんな調子で上機嫌なジュンにあしらわれながら、俺は半ば強引に運転席へと押し込まれた。
最初こそ気まずい空気が漂っていたが、高速道路に差し掛かるころには、弁の立つジュンのおかげで車内は徐々に和やかな雰囲気に包まれていた。
ジュンの後輩である二人は、どちらも美容師らしくセンスの良い装いで、華やかな印象を与えていた。
ミサキは整った目鼻立ちに、きっちりと決めたメイク。ストレートのロングヘアと渋谷系を思わせるスタイルで、すらりとした細身の体が目を引いた。
一方のチカは、色白の肌に大きな瞳。ほぼスッピンで、マスカラだけを軽くつけたようなナチュラルな印象だ。ふんわりとしたパーマにミルクティー色のボブスタイル、前髪のせいもあって、童顔が際立って見える。身長も小柄で、原宿系の可愛らしい雰囲気がよく似合っていた。
良い子たちだと思う。
それでも、どうしても俺は女性に対して一線を引いてしまう癖がある。
人見知りではない。仕事では客と軽口を交わすことも日常茶飯事だ。
けれど、ジュンの言うように、きっと俺はまだ“あの言葉”を引きずっている。
元カノの、忘れられないあの言葉を――。
だからこそ、誰とでも自然に距離を縮められるジュンの天性の社交性が、時々眩しくもあり、羨ましかった。
そんなジュンと初めて出会ったのは――
中学一年の春だった。
* * *
ジュンは、誰とでも打ち解けられる明るさを持つ、いわばクラスのムードメーカーだった。
それは、俺が最も苦手とするタイプの人間でもあった。
入学式の日から、俺は肩まで伸びた金髪を一つに束ね、両耳に合計五つのピアスをぶら下げていた。
身長も低くない。どう見ても目立つ存在だったろう。
案の定、上級生には目をつけられ、同級生からも腫れ物のように扱われていた。
誰も俺に近づかない。
それでいいと思っていた。いや、それを望んでいた。
人と関わることが煩わしくて、一人でいることを選んだ。
友達を作るなんて感覚とは、ずっと無縁だった。
だから、誰かが自分に話しかけてくるなんて、思ってもいなかった。
あれは、入学して一か月ほど経ったある日のこと。
クラスの中では既にいくつかのグループが出来上がっていて、馴れ合いの空気が充満していた。
今日もまた退屈な授業が始まる――
そう思いながら廊下を歩き、教室の扉に手をかけたその瞬間。
「ファーストレディー!」
目の前に突然現れたのは、クラスメイトのジュンだった。
右手で教室の扉を開けながら、妙なテンションで言い放った。
「はっ?」
意味がわからず立ち止まると、ジュンはさらに言葉を重ねた。
「ほら、外国じゃ男性が女性をエスコートするでしょ? 先に教室へどうぞってこと!」
思わず吹き出してしまった。
「……それを言うなら、“レディーファースト”だろ」
言い終えると同時に、俺は色白な顔を真っ赤にしたジュンの横をすり抜け、耳元で囁いた。
「それに、俺は女じゃなくて男だ」
「長い髪で可愛い顔してるから、女の子かと思ってたよ!」
ジュンはふざけた様子で追いかけてくる。俺が睨みつけても、まるで怯える気配はなかった。
「お前、俺が怖くないのか? それとも同情?」
さらに険しい表情で睨みつけると、ジュンの顔からふざけた色が消えた。
「同情なんかじゃない。それに怖がってるのは、君の方じゃない?」
その真っ直ぐな眼差しに、思わず目を逸らしてしまった。
「お前に俺の何がわかる」
「わからない。だから、知りたいんだよ」
言葉を失い、ただ窓の外に目を向けた。
当時のジュンは、俺なんかよりずっと大人だったのかもしれない。
「なあ、今日、弁当一緒に食べようぜ!」
「は? なんでだよ」
「一人より二人の方が、美味しいに決まってるだろ? それに……ひねくれた性格の矯正もしないと」
そう言って、ジュンは鼻先を掻いた――癖のように。
そして何事もなかったように自分の席へと戻っていった。
“勝手に決めるなよ”
そう思ったのに、なぜか言葉にできなかった。
昼休み。耳障りなチャイムが鳴り響いた。
俺はジュンに気づかれないように教室を抜け出し、売店でコッペパンと牛乳を買って、足早に屋上へ向かった。
だがそこには、既にジュンがいた。
弁当を広げ、準備万端の笑顔で――。
「こっち!」
彼の無邪気な声を無視し、少し離れた場所に腰を下ろすと、パンの袋を破った。
するとジュンは弁当を持って、小走りで俺の隣へ来た。
「君って、寂しがり屋?」
「お前だろ」
そんな軽口を交わしながら、結局その日もジュンの説教と雑談を聞く羽目になった。
それからの日々。
授業が終わるたびにジュンは席へやって来て、他愛もない話を一方的に喋り、昼休みには当然のように屋上で隣に座った。
うざいと思っていたはずなのに――
気づけば、それが日常になっていた。
そして俺は、少しずつ、ジュンに心を開き始めていた。
不思議だった。
入学式の日の帰り道に見た夕陽は、悲しいくらいに冷たく見えたのに――
いつしか温かく感じるようになっていた。
夕陽に伸びる影が、“ひとつ”じゃなくなっていた。
きっと、ジュンにとっても、俺は最も関わりづらい存在だっただろう。
けれど彼は、決して俺を見放さなかった。
どんなに無視しても、どんなに冷たくしても、寄り添い続けてくれた。
俺の、凍てついた心を――
少しずつ、確かに、溶かしてくれたんだ。
“ありがとう”
その言葉だけでは、とても足りない。
ジュンと出会わなければ、きっと今の自分はいなかった。
それから11年。
あの日温められた心は――
あの“出来事”によって、再び凍りついてしまったのかもしれない。
* * *