メイクアップアーティスト
[1年前]
パシャッ……ピーピー……。
カメラのシャッター音とフラッシュの閃光がスタジオに響く。
化粧品の独特の香りが空気に溶け込み、どこか緊張と高揚が入り混じった空気を作っていた。
「少し下を向いて、笑ってみようか!」
カメラマンの声に、モデルは慣れた仕草で顎を軽く引き、微笑みを浮かべる。
パシャッ……ピーピー……。
「いいね! やっぱりユカリちゃんは可愛い! 次は正面、ナチュラルな笑顔をちょうだい!」
ユカリと呼ばれたモデルは、柔らかい笑顔をレンズに向けた。
その笑顔に引き込まれるように、スタジオの空気がまた一瞬止まる。
「ケン、メイクお願い!」
カメラマンの合図に応えて、ケンはスタジオの中央へと足を踏み出す。
撮影の合間に、ユカリのメイク直しとヘアを手早く整える。
ヘアメイクという職業柄、彼は常に身なりに気を配っている。
その長いパーマスタイルも、作業の邪魔にならないようにひと束にまとめられていた。
無駄のない動きと、確かな手つき。
そして何より、モデルとの信頼関係がそこにはあった。
メイクというものに初めて出会ったのは、19歳のときだった。
あれから、もう5年が経つ。
まさか、自分が――男である自分が、メイクの世界で生きることになるとは、あの頃は思いもしなかった。
高校時代、将来の夢なんて持っていなかった。特別な取り柄もなく、ただ周囲に倣ってとりあえずという気持ちで大学へ進学した。
大学に入って間もなく、ひとつの出会いがあった。
“メイク”――
その世界に、なぜか心を惹かれた。
顔という小さなキャンバスに、無限の表現が広がるあの世界に、強く魅了された。
やがて、大学と並行してメイクの専門学校にも通い始めた。
両立は大変だったが、それでも不思議と苦ではなかった。
その道を選んだ瞬間から、未来が少しずつ輪郭を帯びていった気がした。
やがて大学と専門学校を無事に卒業し、化粧品を販売する美容部員として働き始めた。
しかし、メイクを施すのではなく“売る”ことが仕事の中心である現実に、次第に違和感を覚えるようになった。
給料は悪くなかった。だが、自分の本当にやりたかったこととは違っていた。
3か月で退職を決意した。
そしてその足で、ニューヨークへ渡った。
目的は明確だった。
――世界的に有名なメイクアップアーティスト、ジェシカに弟子入りすること。
彼女の作品集に出会ったとき、その完成度の高さに衝撃を受けた。
まるで命を吹き込まれたようなメイクの表現。
その技術を、どうしてもこの目で見て、この手で学びたかった。
けれど、現実は甘くない。
ジェシカに弟子入りを願い出たが、あっさりと断られた。
2日間、何度頼んでも答えは変わらず、寝る場所もなくなり、ガソリンスタンドの脇で野宿をした。
夜空を仰ぎながら考えた。
どうすれば、この想いが彼女に伝わるのか――。
3日目、俺は無我夢中で彼女の前に土下座した。
地面に額を打ちつけ、何度も、何度も。
流れ出した額の血の温かさよりも、心の焦燥の方が熱かった。
その姿に、ジェシカがようやく声をかけた。
「いいかげんにしなさい」
驚いたような口調だった。
一部始終を見ていた弟子たちが慌てて俺の身体を押さえつけ、ジェシカが立て続けにこう言った。
「あなたに、プライドはないの?」
「あります。でも、今はそれを、自分のために押し殺しています」
覚えたての英語で、そう言い放った。
情熱という名の無謀だったかもしれない。
だが、その執念が届いたのか、ついにジェシカは首を縦に振った。
弟子入りが許された。
もっとも、最初の仕事はアシスタントという名の、雑用係だった。
けれど、俺はその仕事を決して雑用とは思わなかった。
今、目の前にある役割を“これは自分のやりたいことじゃない”と拒絶するから、雑用になる。
どんな仕事も、“やりたい仕事”への道につながっていると信じていた。
掃除も、片付けも、荷物運びも、いつかきっと、メイクという仕事の延長線にあると――。
アシスタント時代は、ジェシカの動きを目で盗んだ。
繊細でありながらダイナミック、素早く、無駄のないその所作。
正直、レベルの違いに打ちのめされそうになった。
それでも練習を続けた。
他の九人の弟子たちに負けたくなかった。
何より、自分に負けたくなかった。
そして1年後。
彼女の手によって、俺は一人前のメイクアップアーティストとして育てられた。
いま、こうしてスタジオの現場に立っていられるのは、あの頃の血と汗、そして情熱があったからだ――。
「じゃあ、次はキリッとしたクールなポーズをお願い!」
カメラマンの掛け声に、モデルはすぐさま見下すような視線を投げかけ、凛としたポーズを決めた。
「いいね、バッチリ決まってるよ! OK、それじゃあ、次はヘアメイクと衣裳をチェンジしようか」
カメラマンがカメラを置き、休憩に入る。
「……疲れた」
長身でスレンダーなモデルが、ため息混じりにダルそうな声を漏らす。
女性ファッション誌の撮影は、他の現場より精神力を要する。
モデルの多くはプライドが高く、誰に聞かれたわけでもないのに、自分のチャームポイントや彼氏の話を延々と語り、他のモデルへの嫌味をさらりと混ぜ込んでくる。
その日の機嫌によっては、準備段階でゴネ始めることも珍しくない。
理由は様々だが、大抵はわがままだ。
そしてその矛先は、決まってカメラアシスタントやヘアメイクに向けられる。
クライアントやカメラマンには絶対に向けない。
モデルとしてこの世界で生き残っていくには、彼らとの“関係性”を良好に保つことが、武器になることを彼女たちはよく知っているのだ。
撮影現場に現れるモデルの私服も、だいたい二種類に分かれる。
ブランドでビシッと着飾ってくるタイプと、まるで部屋着のようなスウェットで現れるタイプ。
その日の気分やノッているかどうかは、服装だけでもおおよそ判断がつく。
強気で自信に満ちた態度――
もしかしたら、それくらいの気概がなければ、この厳しい業界では生きていけないのかもしれない。
彼女たちもまた、見えないプレッシャーと戦っている。
だからこそ、そのはけ口を自然と引き受けるのも、ヘアメイクの仕事のひとつだと思うようになった。
もちろん、礼儀正しく謙虚なモデルもいる。
ほんのわずか、ほんの一握りではあるけれど。
それでも、やはりプロのモデルという存在は、圧倒的だ。
雑誌撮影は、ただの記念写真とは訳が違う。
無数のスタッフが見守る中で、自然な笑顔やクールな表情をつくり出すのは、並の神経ではできない。
それを彼女たちは、まるで呼吸するかのようにやってのける。
――プロにしかできない表情が、ここにはある。
衣裳を替え、メイクを整え、仕上がったモデルを再び撮影位置へと送り出す。
自分の手で創り出した美しさが、スポットライトに照らされ、ページの1枚に命を吹き込むその瞬間――
それは、メイクアップアーティストとして、何よりも誇らしい一瞬だ。
そして、撮影が再開される。
1枚目のフラッシュがスタジオを照らしたその瞬間。
ふと右手から力が抜け、手にしていたリップブラシが床に落ちた。
拾おうと、ほんのわずかに身をかがめたときだった。
視界が、真っ白に染まる。
世界が音を失い、全身から力がすうっと抜けていく。
――そのまま、スタジオの床に崩れ落ちる。
意識は、深い闇の中に沈んでいった。
目を覚ますと、スタジオのバックヤードにあるソファーの上だった。
ぼんやりと天井を見つめていると、カメラマンのニヘイさんが覗き込むように言った。
「やっと気づいたか」
その声に体を起こそうとすると、頭がふらついた。
「すみませんでした……撮影は?」
「最後のカットだったから、無事に終わったよ」
「……なら、良かったです」
ホッとしたように息をついた俺を、ニヘイさんはしばらく見つめていたが、やがて静かに言葉を継いだ。
「それより、お前さ。少しは休んだらどうだ?」
「いえ。立ち止まると、辛くなるんです」
「なんでそこまで無理すんの?」
しばし沈黙が流れた後、俺はぽつりと答えた。
「忘れられない“笑顔”があるんです」
その“笑顔”を思い浮かべるだけで、胸の奥がじんわりと痛んだ。
しばらく目を閉じ、視線を落とす。
「どんな“笑顔”なんだ?」
「今まで見たどんな笑顔よりも……幸せそうで最高の“笑顔”でした」
ニヘイさんはそれ以上何も言わなかった。
すべてを察したように、ただ静かに頷いた。
彼とは付き合いが長い。
一を聞いて十を知る、俺にとって数少ない理解者のひとりだ。
年齢は五つ上。
撮影で組むことも多く、一緒に飲みに行く仲でもある。
バイク好きという共通点もあり、彼が乗っている年代物の白いベスパに影響され、俺も白のTWに乗るようになった。
カメラを構えたときのあの鋭い目つき。
普段は飄々としているくせに、仕事になると一気に“できる男”に変わる。
――それが、ニヘイさんだ。
ふと腕時計を見ると、すでに17時を回っていた。
「もう、行かないと」
ふらつく体に無理やり力を入れて立ち上がると、ニヘイさんが背中越しに言った。
「少し雪が降り始めてる。気をつけて帰れよ」
「……お疲れさまでした」
外に出ると、12月下旬の空気が肌を刺すように冷たい。
17時を過ぎた街はもう夜のように暗く、細かな雪が空から舞い降りていた。
――冬は嫌いだ。
とくに、“雪”が降る日は。
後悔を思い出すのは、いつも“雪”の日だった。
足元がふらつく中、なんとか駐車場まで辿り着き、バイクに跨る。
向かう先は吉祥寺。
親友のジュンから「話がある」と呼び出されていた。
待ち合わせは、駅前にある馴染みの居酒屋「麗」。
「ケンケン、いらっしゃい!」
いつものようにおばちゃんが元気に出迎えてくれるその笑顔に、胸のどこかがふっと和らぐ。
「ジュンジュン、奥の席ね!」
返事代わりに、おばちゃんの肩を軽く叩く。
通された席には、どこかバツが悪そうな顔でジュンが待っていた。
「いい加減、“ジュンジュン”はやめろよな」
その照れ隠しに不貞腐れたような口調は、昔からの変わらない癖だ。
タバコに火をつけると、少し遅れてビールが届く。
「それで、話って?」
「旅行でも行かない?」
「どうした? 急に」
「お互い、働き出してからゆっくり休んだことないじゃん?」
ジュンは、美容師としては驚異的な速さで――たった1年半でスタイリストデビューを果たした。
その努力を、俺は間近でずっと見てきた。
「たまにはゆっくりするのも、悪くないだろ?」
そう言って、ジュンは鼻先を掻いた。
それは彼の“癖”――何かを企んでいるときに出る仕草だった。
「言われてみれば、そうだな」
俺たちはずっと、がむしゃらに走ってきた。
あの頃、ジュンと比べて何の取り柄もなかった俺は、メイクアップアーティストとして、大学に通っていた4年間の遠回りを取り戻したくて、焦りにも似た感情で突き進んできた。
そして何より、あの“出来事”を思い出さないようにするために。
でも今なら、思う。
あの遠回りは、偶然じゃなかった。
すべてに、意味があったのかもしれない。
ただ――その意味に気づくには、時間がかかる。
すべての出会いにも、出来事にも。
――なあ。
君と出会ったことにも、ちゃんと“意味”があったんだよな?