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もしも願いが二つ叶うなら…  作者: KANATA
第二章 出逢い
3/30

メイクアップアーティスト

 [1年前]

 

 パシャッ……ピーピー……。

 カメラのシャッター音とフラッシュの閃光がスタジオに響く。

 化粧品の独特の香りが空気に溶け込み、どこか緊張と高揚が入り混じった空気を作っていた。


「少し下を向いて、笑ってみようか!」


 カメラマンの声に、モデルは慣れた仕草で顎を軽く引き、微笑みを浮かべる。

 パシャッ……ピーピー……。


「いいね! やっぱりユカリちゃんは可愛い! 次は正面、ナチュラルな笑顔をちょうだい!」


 ユカリと呼ばれたモデルは、柔らかい笑顔をレンズに向けた。

 その笑顔に引き込まれるように、スタジオの空気がまた一瞬止まる。


「ケン、メイクお願い!」


 カメラマンの合図に応えて、ケンはスタジオの中央へと足を踏み出す。

 撮影の合間に、ユカリのメイク直しとヘアを手早く整える。

 ヘアメイクという職業柄、彼は常に身なりに気を配っている。

 その長いパーマスタイルも、作業の邪魔にならないようにひと束にまとめられていた。

 無駄のない動きと、確かな手つき。

 そして何より、モデルとの信頼関係がそこにはあった。


 メイクというものに初めて出会ったのは、19歳のときだった。

 あれから、もう5年が経つ。

 まさか、自分が――男である自分が、メイクの世界で生きることになるとは、あの頃は思いもしなかった。

 高校時代、将来の夢なんて持っていなかった。特別な取り柄もなく、ただ周囲に倣ってとりあえずという気持ちで大学へ進学した。

 大学に入って間もなく、ひとつの出会いがあった。


 “メイク”――

 その世界に、なぜか心を惹かれた。

 顔という小さなキャンバスに、無限の表現が広がるあの世界に、強く魅了された。

 やがて、大学と並行してメイクの専門学校にも通い始めた。

 両立は大変だったが、それでも不思議と苦ではなかった。

 その道を選んだ瞬間から、未来が少しずつ輪郭を帯びていった気がした。

 やがて大学と専門学校を無事に卒業し、化粧品を販売する美容部員として働き始めた。

 しかし、メイクを施すのではなく“売る”ことが仕事の中心である現実に、次第に違和感を覚えるようになった。

 給料は悪くなかった。だが、自分の本当にやりたかったこととは違っていた。

 3か月で退職を決意した。

 そしてその足で、ニューヨークへ渡った。


 目的は明確だった。

 ――世界的に有名なメイクアップアーティスト、ジェシカに弟子入りすること。

 彼女の作品集に出会ったとき、その完成度の高さに衝撃を受けた。

 まるで命を吹き込まれたようなメイクの表現。

 その技術を、どうしてもこの目で見て、この手で学びたかった。

 けれど、現実は甘くない。

 ジェシカに弟子入りを願い出たが、あっさりと断られた。

 2日間、何度頼んでも答えは変わらず、寝る場所もなくなり、ガソリンスタンドの脇で野宿をした。

 夜空を仰ぎながら考えた。

 どうすれば、この想いが彼女に伝わるのか――。


 3日目、俺は無我夢中で彼女の前に土下座した。

 地面に額を打ちつけ、何度も、何度も。

 流れ出した額の血の温かさよりも、心の焦燥の方が熱かった。

 その姿に、ジェシカがようやく声をかけた。


「いいかげんにしなさい」


 驚いたような口調だった。

 一部始終を見ていた弟子たちが慌てて俺の身体を押さえつけ、ジェシカが立て続けにこう言った。


「あなたに、プライドはないの?」

「あります。でも、今はそれを、自分のために押し殺しています」


 覚えたての英語で、そう言い放った。

 情熱という名の無謀だったかもしれない。

 だが、その執念が届いたのか、ついにジェシカは首を縦に振った。

 弟子入りが許された。

 もっとも、最初の仕事はアシスタントという名の、雑用係だった。

 けれど、俺はその仕事を決して雑用とは思わなかった。

 今、目の前にある役割を“これは自分のやりたいことじゃない”と拒絶するから、雑用になる。

 どんな仕事も、“やりたい仕事”への道につながっていると信じていた。

 掃除も、片付けも、荷物運びも、いつかきっと、メイクという仕事の延長線にあると――。


 アシスタント時代は、ジェシカの動きを目で盗んだ。

 繊細でありながらダイナミック、素早く、無駄のないその所作。

 正直、レベルの違いに打ちのめされそうになった。

 それでも練習を続けた。

 他の九人の弟子たちに負けたくなかった。

 何より、自分に負けたくなかった。

 そして1年後。

 彼女の手によって、俺は一人前のメイクアップアーティストとして育てられた。

 いま、こうしてスタジオの現場に立っていられるのは、あの頃の血と汗、そして情熱があったからだ――。


「じゃあ、次はキリッとしたクールなポーズをお願い!」


 カメラマンの掛け声に、モデルはすぐさま見下すような視線を投げかけ、凛としたポーズを決めた。


「いいね、バッチリ決まってるよ! OK、それじゃあ、次はヘアメイクと衣裳をチェンジしようか」


 カメラマンがカメラを置き、休憩に入る。


「……疲れた」


 長身でスレンダーなモデルが、ため息混じりにダルそうな声を漏らす。

 女性ファッション誌の撮影は、他の現場より精神力を要する。

 モデルの多くはプライドが高く、誰に聞かれたわけでもないのに、自分のチャームポイントや彼氏の話を延々と語り、他のモデルへの嫌味をさらりと混ぜ込んでくる。

 その日の機嫌によっては、準備段階でゴネ始めることも珍しくない。

 理由は様々だが、大抵はわがままだ。

 そしてその矛先は、決まってカメラアシスタントやヘアメイクに向けられる。

 クライアントやカメラマンには絶対に向けない。

 モデルとしてこの世界で生き残っていくには、彼らとの“関係性”を良好に保つことが、武器になることを彼女たちはよく知っているのだ。


 撮影現場に現れるモデルの私服も、だいたい二種類に分かれる。

 ブランドでビシッと着飾ってくるタイプと、まるで部屋着のようなスウェットで現れるタイプ。

 その日の気分やノッているかどうかは、服装だけでもおおよそ判断がつく。

 強気で自信に満ちた態度――

 もしかしたら、それくらいの気概がなければ、この厳しい業界では生きていけないのかもしれない。

 彼女たちもまた、見えないプレッシャーと戦っている。

 だからこそ、そのはけ口を自然と引き受けるのも、ヘアメイクの仕事のひとつだと思うようになった。


 もちろん、礼儀正しく謙虚なモデルもいる。

 ほんのわずか、ほんの一握りではあるけれど。

 それでも、やはりプロのモデルという存在は、圧倒的だ。

 雑誌撮影は、ただの記念写真とは訳が違う。

 無数のスタッフが見守る中で、自然な笑顔やクールな表情をつくり出すのは、並の神経ではできない。

 それを彼女たちは、まるで呼吸するかのようにやってのける。

 ――プロにしかできない表情が、ここにはある。

 衣裳を替え、メイクを整え、仕上がったモデルを再び撮影位置へと送り出す。

 自分の手で創り出した美しさが、スポットライトに照らされ、ページの1枚に命を吹き込むその瞬間――

 それは、メイクアップアーティストとして、何よりも誇らしい一瞬だ。


 そして、撮影が再開される。

 1枚目のフラッシュがスタジオを照らしたその瞬間。

 ふと右手から力が抜け、手にしていたリップブラシが床に落ちた。

 拾おうと、ほんのわずかに身をかがめたときだった。

 視界が、真っ白に染まる。

 世界が音を失い、全身から力がすうっと抜けていく。

 ――そのまま、スタジオの床に崩れ落ちる。

 意識は、深い闇の中に沈んでいった。


 目を覚ますと、スタジオのバックヤードにあるソファーの上だった。

 ぼんやりと天井を見つめていると、カメラマンのニヘイさんが覗き込むように言った。


「やっと気づいたか」


 その声に体を起こそうとすると、頭がふらついた。


「すみませんでした……撮影は?」

「最後のカットだったから、無事に終わったよ」

「……なら、良かったです」


 ホッとしたように息をついた俺を、ニヘイさんはしばらく見つめていたが、やがて静かに言葉を継いだ。


「それより、お前さ。少しは休んだらどうだ?」

「いえ。立ち止まると、辛くなるんです」

「なんでそこまで無理すんの?」


 しばし沈黙が流れた後、俺はぽつりと答えた。


「忘れられない“笑顔”があるんです」


 その“笑顔”を思い浮かべるだけで、胸の奥がじんわりと痛んだ。

 しばらく目を閉じ、視線を落とす。


「どんな“笑顔”なんだ?」

「今まで見たどんな笑顔よりも……幸せそうで最高の“笑顔”でした」


 ニヘイさんはそれ以上何も言わなかった。

 すべてを察したように、ただ静かに頷いた。

 彼とは付き合いが長い。

 一を聞いて十を知る、俺にとって数少ない理解者のひとりだ。

 年齢は五つ上。

 撮影で組むことも多く、一緒に飲みに行く仲でもある。

 バイク好きという共通点もあり、彼が乗っている年代物の白いベスパに影響され、俺も白のTWに乗るようになった。

 カメラを構えたときのあの鋭い目つき。

 普段は飄々としているくせに、仕事になると一気に“できる男”に変わる。

 ――それが、ニヘイさんだ。

 ふと腕時計を見ると、すでに17時を回っていた。


「もう、行かないと」


 ふらつく体に無理やり力を入れて立ち上がると、ニヘイさんが背中越しに言った。


「少し雪が降り始めてる。気をつけて帰れよ」

「……お疲れさまでした」


 外に出ると、12月下旬の空気が肌を刺すように冷たい。

 17時を過ぎた街はもう夜のように暗く、細かな雪が空から舞い降りていた。

 ――冬は嫌いだ。

 とくに、“雪”が降る日は。

 後悔を思い出すのは、いつも“雪”の日だった。

 足元がふらつく中、なんとか駐車場まで辿り着き、バイクに跨る。

 向かう先は吉祥寺。

 親友のジュンから「話がある」と呼び出されていた。

 待ち合わせは、駅前にある馴染みの居酒屋「レイ」。


「ケンケン、いらっしゃい!」


 いつものようにおばちゃんが元気に出迎えてくれるその笑顔に、胸のどこかがふっと和らぐ。


「ジュンジュン、奥の席ね!」


 返事代わりに、おばちゃんの肩を軽く叩く。

 通された席には、どこかバツが悪そうな顔でジュンが待っていた。


「いい加減、“ジュンジュン”はやめろよな」


 その照れ隠しに不貞腐れたような口調は、昔からの変わらない癖だ。

 タバコに火をつけると、少し遅れてビールが届く。


「それで、話って?」

「旅行でも行かない?」

「どうした? 急に」

「お互い、働き出してからゆっくり休んだことないじゃん?」


 ジュンは、美容師としては驚異的な速さで――たった1年半でスタイリストデビューを果たした。

 その努力を、俺は間近でずっと見てきた。


「たまにはゆっくりするのも、悪くないだろ?」


 そう言って、ジュンは鼻先を掻いた。

 それは彼の“癖”――何かを企んでいるときに出る仕草だった。


「言われてみれば、そうだな」


 俺たちはずっと、がむしゃらに走ってきた。

 あの頃、ジュンと比べて何の取り柄もなかった俺は、メイクアップアーティストとして、大学に通っていた4年間の遠回りを取り戻したくて、焦りにも似た感情で突き進んできた。

 そして何より、あの“出来事”を思い出さないようにするために。

 でも今なら、思う。

 あの遠回りは、偶然じゃなかった。

 すべてに、意味があったのかもしれない。

 ただ――その意味に気づくには、時間がかかる。

 すべての出会いにも、出来事にも。


 ――なあ。

 君と出会ったことにも、ちゃんと“意味”があったんだよな?

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