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もしも願いが二つ叶うなら…  作者: KANATA
第六章 季節の色
23/31

愁嘆の夕陽

 いつもより少し早く目を覚ましたチカは、まだ眠気の残るまぶたを擦りながら、窓辺に立ってカーテンを引いた。

 キィ、と音を立てて窓を開けると、ひんやりとした朝の風が頬をなでる。

 その冷気が、一気に眠気を吹き飛ばした。

 ベランダ越しに見える木々の葉は、ほんのりと赤く色づき始めている。空は高く澄みわたり、秋の訪れを静かに告げていた。

 隣の布団からケンが顔をのぞかせ、少し寝ぼけた様子で微笑みかけてくる。


「おはよう」

「おはよう!」


 チカも微笑み返す。その自然なやり取りが、いつもの朝をあたたかく満たした。

 今日は珍しくケンが午後からの出勤で、そんな日は時々ケンにメイクをしてもらう。


「完成!」

「いつもありがとう!」


 鏡越しにケンと目が合った瞬間、彼の表情がふと何かを思い出したように変わる。


「大事なの忘れてた! 目を閉じて」


 言われるままにそっとまぶたを閉じると、おでこにやさしく、ぬくもりを含んだ感触がそっと触れた。

 思わず頬がゆるみ、チカの表情が笑顔に変わっていくのを見て、ケンが静かに囁いた。


「笑顔に勝るメイクなし」


 あなたはいつだって、私に魔法をかけてくれる。最高の笑顔というメイクで。


「ねえねぇ! 今度私も病院でリハビリメイクをしてみたい!」


 今もケンは時間を見つけては病院へ行き、医療メイクやリハビリメイクをしていた。

 チカの声に、ケンは少し驚いたように目を丸くした後、すぐに真剣な表情に変わった。


「簡単に言うけど、患者さんっていうのはチカが思っている以上にデリケートなんだ。俺も始めは苦悩の連続だった」


 少しむくれるチカをなだめるように、ケンはゆっくりと言葉を選びながら話し始めた。

 

 

* * *

 

 ――ある日、メイク中に患者さんに何気なくこう尋ねたことがある。


「地黒なんですか?」


 だがその人は肝臓を患っていて、肌が黒ずんで見えていただけだったんだ。

 またある日、メイクが終わった後にお金を渡そうとした患者さんがいた。

 何度も断ったが、その患者さんは手を引こうとしなかった。

 そこで俺は、相手の思いを壊さないようにこう言った。


「じゃあ、退院したら一緒にお茶でもしましょう!」


 ――けれどその人は、もう退院が叶わない重い病だった。

 俺達が何気なく使う言葉が、時に深く患者さんを傷つけることがある。

 失敗を言えばきりがない。

 

* * *

 

 

 静かな語り口に、チカも自然と姿勢を正した。


「でも、チカがリハビリメイクに興味を持ってくれたのは嬉しいよ」


 しばらく考え込んだあと、ケンはふと顔を上げる。


「じゃあ、俺が患者さんにメイクしてるのを、アシスタントとして隣で見てみるのはどう?」


 その言葉に、チカの顔がぱっと明るくなった。


「じゃあ、来週の火曜日に病院へ行こう」


 頷くチカの横顔には、希望と期待が入り混じった、あどけない笑顔が浮かんでいた。

 

 

【2006年10月31日(火)】

 

 朝からあいにくの雨が降り、少し肌寒く、木々を揺らすほどの強い風も吹いている。

 雨の日が好きな時と、嫌いな時がある。

 どんよりとした雨空が切ない気持ちを呼び起こすこともあれば、綺麗な雨音がメロディーを奏でて、心を静かに落ち着かせてくれる時もある。

 今日の雨は、なぜかチカの胸を切なく締めつけた。

 久しぶりの病院――チカにとって、そういう日だった。

 病院の敷地内には、きちんと列を成していくつかの花壇がある。

 秋らしい色鮮やかな花々が咲き誇り、その中にはチカの好きなネリネの花も混じっていた。

 ふと、チカが視線を落とすと、花壇の前で傘を差し、うつむくように花を見つめる車椅子の少女がいた。

 強く吹く風から花を守るためか、彼女の手にはビニールシートが握られている。

 それに気づいたケンは、持っていた傘とメイクボックスをチカに預け、花壇へと駆け寄った。


「シート、貸してごらん」


 雨に打たれながら、ケンは手早く花壇にシートを被せた。


「ありがとう」

「この花の苗を育てているの?」


 ケンは屈んだまま彼女に尋ねる。


「うん、“アストランティア”っていう花」


 彼女は花が咲くように、そっと微笑んだ。

 その横顔に見覚えがあったチカは、記憶を辿った。

 たしかこの子は……シノブちゃん?

 前に会ったときよりずっと痩せ細っていて、気づかなかった。


「あまり聞かない花だね」


 そう言ってケンは花壇の、小さな蕾をつけた苗に視線を落とした。


「本当は夏に咲く花なんだ。だけど、院長先生にお願いして植えてもらったの」

「この花が好きなの?」

「ケンさん、“奇跡”って信じる? この花には、不思議な力があるんだって」


 彼女も花壇の小さな蕾に視線を戻した。


「どんな力?」

「願いを込めて花びらに触れると、願いが叶うんだって。花言葉は、“星に願いを”」


 ケンは震える唇を強く噛み締め、ただ押し黙った。


「本当は夏に咲く花が、もしも11月に咲いたら、“奇跡”でしょ? だから大切に大切に育てて、そしてこの蕾が開いて花が咲いたら、花びらに触れて願うの。“早く元気になりますように”って……」


 ケンは立ち上がり、切なげな瞳で小さな蕾を見つめる彼女の姿を前に、声もなくただ立ち尽くしていた。

 いつもなら、「きっと叶う」と言ってあげるはずなのに、どうして黙っているの?

 チカはその心の声を押し殺した。


「風邪をひくから、中に戻ろう」

「もう少しだけ……ここにいる」


 そう言う彼女に、ケンはジャケットを脱ぎ、雨の雫を払ってから優しくかけた。


「ありがとう。あとで看護師さんに渡しておくね」

「ああ。なるべく早く病室に戻るんだよ」


 そう言うと、ゆっくり歩き出したケンは病院の入口で立ち止まり、中へ入るのためらうように振り返った。

 花壇の方を見つめ、呆然と立ち尽くしている。

 その瞳は、悲しみで溢れていた。


「さっき、どうして何も言ってあげなかったの?」

「今のあの子にとって、まやかしの希望は、絶望よりも残酷なものになってしまう」


 チカは突然、言葉を失った。

 怖くて理由を尋ねられなかった。

 聞けば後悔しそうな気がした。

 するとケンは、花壇を見つめたまま口を開いた。


「あの子に残された時間は僅かだ。きっと自分でも気づいている。残された時間が少ないことを知りながら、それでもなお、大切な何かを思いやれるなんてな……」


 何も言えなかった。

 動揺が大きく、声に出せば抑えきれないものが込み上げてきそうだった。


「自分の思いを花に託し、希望を捨てずに必死に生きている。もう俺たちには何もできないのかもしれない。ただ、彼女に思わせてやりたい。“生まれてきてよかった”って」

「まだ、できることがあるよ。……あの子にメイクをしてあげて」


 悲しい感情が込み上げ、チカの声は震えた。


「できない……」

「できるよ! きっとケンにしかできない」

「俺も彼女を笑顔にしたい。笑顔の自分を見てほしい。だけど……怖いんだ……」


 そう言いながら震えるケンの手を見て、チカは気づいていた。

 彼女にとって、“最後のメイク”になってしまうかもしれないこと。

 それが過去の記憶と重なり、脳裏をよぎること。

 だからこそ、逃げずに過去と向き合ってほしかった。


「じゃあ、どうして今もメイクを続けているの? 償い?」


 チカが尋ねると、ケンは無言のまま病院の中へと入っていった。

 そんなことを言いたかったわけじゃない。

 感情的になって、言いたくないことを口にしてしまった。

 チカは後悔に駆られ、入口で立ち尽くすしなかった。

 しばらく頭の中で謝り方を考え、覚悟を決めてケンを探しに病院の中へと入った。


「すみません……」


 廊下で立ち止まっている、白衣を着た白髪混じりの男性に声をかける。


「長身で明るい髪を結んでいる黒いボックスを持った男性を見かけませんでしたか?」


 チカは手振り身振りで説明した。


「もしかして、ケン君のことかな?」

「知っているんですか?」

「もちろん。この病院で彼を知らない人はいないよ」

「そうなんですね。どこにいるかご存知ですか?」

「今日は見かけていないな。けれども、病院に来ているなら挨拶に来るだろうから、私の部屋で待っているかい?」

「いいんですか?」

「ああ、ちょうど今から部屋へ戻るところだから」


 彼はそう言うとゆっくり歩き出し、チカはその後ろ姿を追った。

 階段を登り、長い廊下を渡る。

 そして立ち止まったドアには札が貼られていた。

 “院長室”

 それを見たチカは身を引き締め、部屋の中へ入った。

 そこは病室とは異なる空間が広がっていた。

 広い部屋の中心にはソファーとテーブルがあり、両脇の高い本棚には難解そうな本がぎっしりと並んでいる。

 そして奥には大きな机があり、その中央には卓上名札が置かれていた。

 “病院長 佐藤”

 その机の椅子に座った院長先生は、手で示したソファーへとチカを促した。

 チカは会釈をしてから腰を下ろした。


「君はケン君の恋人かな?」

「はい」


 院長先生と知ったせいか、チカの胸に妙な緊張が走る。


「君の話は彼からよく聞いていますよ」

「そうなんですか?」


 どうして院長先生とケンはこんなに親しいのだろう。

 年の差も倍以上はありそうなのに、彼の話しぶりはケンのことをよく知る者のそれだった。


「君の話をする彼は、いつも幸せそうだよ」


 照れ笑いを隠すように視線を落としたチカは、すぐに表情を戻し、気になっていたことを切り出した。


「ケンとは昔から親しいんですか?」

「ああ、もう付き合いは長い。彼と私は似たような経験をしてきたからね」

「どんな経験ですか?」

「もう20年も前になるかな……」


 院長先生は視線を窓の外へと移し、ゆっくり話し始めた。

 

 

* * *

 

 幹線道路を走行中のダンプカーに飛び込み、自殺を図った男性がいた。

 彼の内臓は損傷し、大腿骨は複雑骨折を負っていた――重体だった。

 手術は困難を極めたが、何とか成功し、一命を取り留めた。

 入院生活の中でリハビリを続け、足は順調に回復していった。

 やがて松葉杖をつきながら歩けるようになった頃、彼は何をしたと思う?

 自分の足で、病院の階段を一段ずつ登り――屋上へ向かった。

 そして、そこから飛び降りた。

 私が治したその足で、死への階段を登ったのだ。

 必死にリハビリに励む彼の姿を見て、私は“もう大丈夫”と勝手に思い込んでしまっていたのだろう。

 彼の外面しか見ておらず、内面まで目を向けようとしていなかった。

 外の傷を治し、一時的に命は救えたとしても、心の奥底に深く刺さった棘までは、決して取り除くことができなかった……。

 

* * *

 

 

「人はね、償う術を失ってから、『償いたかった』なんて言い出すものなんだよ」


 ケンと同じような境遇を思い浮かべ、一瞬にしてさまざまな感情が頭の中を駆け巡った。


「院長先生は……どうやってその出来事を乗り越えたんですか?」

「乗り越えられてなんていないよ。今もなお、心の片隅で点滅を繰り返しているんだ。反省は未来へと繋がるけれども、後悔は過去に縛られるだけだ」


 院長先生の言葉は一つ一つが重くのしかかり、チカは言葉を失った。

 後悔はしてほしくない。

 けれど、何もしなかったとしても、きっと後悔はしてしまう。

 “何もしない”と“何もできない”は違う。

 同じ後悔なら、何もしないで後悔するより、何かできることをして後悔したほうがいい。

 あなたには不思議な力がある。

 その力で“奇跡”を起こしてあげてほしい。

 その時、ドアをノックする音が聞こえ、院長先生が声をかけた。


「どうぞ」

「失礼します」


 ドアの向こうから聞こえる声に院長先生は椅子から立ち上がり、チカも振り返ると、そこにはケンが立っていた。


「チカ……どうしてここに?」

「ケンのことを探していたら院長先生に会って、ここで待っていればケンが来るからと言ってくださって……」


 ケンは院長先生に深々と頭を下げた。


「すみませんでした」

「いやいや、離れてしまった二人が再び巡り会えるなんて、“奇跡”のようなことじゃないか。きっと、人はそれを“運命”というのだろうね」


 院長先生が微笑みながら言うと、チカは照れくさそうに肩をすくめた。

 この時、チカはこの言葉の意味を深く受け止めてはいなかった。

 チカがこの言葉を思い返し、その意味を知るのは数か月後のことだった。


「それでは失礼します」


 そう言って、チカとケンは院長室を後にした。

 外に出ると雨はすっかり上がり、雨雲の代わりに美しい夕焼けが空一面を染めていた。

 花壇を見ると、もうシノブちゃんの姿はなかった。


「ねえ、リハビリメイクは?」

「もう時間外だから、また来週にしよう」


 チカは落胆しつつも、仕方ないと自分に言い聞かせた。

 謝ろうと声をかけかけたその時、ケンが突然足を止め、あの花壇に視線を向けた。


「なあ……もしも、大切に育てていた花が枯れてしまったら、チカはどうする?」

「……どうやったら、また花を咲かせられるか考えるかな」

「そうか……。じゃあ、チカの好きなハンバーグを食べて帰ろう」


 ケンは機嫌を取るように、優しくチカの頭を撫でた。

 帰り道、すっかり秋の装いへと変わった井の頭公園に立ち寄った。

 木々の葉は悲しいほどに色づき、そして枯れ落ちていく。少し切ない気分が胸に広がった。


「さっきは病院で、きつい言い方をしてごめんね……」


 頷いたケンは、夕焼け色に染まる池をじっと見つめながら、ゆっくりと口を開いた。


「……クマンバチって知ってる?」

 

 

* * *

 

 幼い頃、ばあちゃんから聞いた話があった。

 クマンバチは、理論上は飛べない蜂なんだって。

 それなのに、生きるために必死で羽を動かし、花の蜜を求めて飛び回る。

 飛べないことを知らないから、飛べるんだと。

 その話を聞いて、心の奥が震えた。

 できないことなんて、本当はないのかもしれない、と。

 あの時のメイクは、アヤカを死へと導いてしまった。

 けれど、いつかは誰かの支えになるメイクを、俺にもきっとできる。

 こんな俺でも、変われるんじゃないかと――。

 

* * *

 

 

「ケンならできる……必ず」

「また、大切な気持ちを忘れかけていた。ありがとう。チカに言われて、目が覚めた。……俺にしかできないことがある」


 絡まっていた糸がほぐれたかのように、ケンの表情はふっと柔らかく穏やかになった。



【2006年11月7日(火)】

 

 肩を揺すられて目を覚ましたチカの目に、最初に飛び込んできたのは一点の曇りもないケンの微笑みだった。

 それは、チカがこれまで夢の中で何度も見ていたケンと同じ表情だった。

 夢と現実の区別がなかなかつかずにいたが、今日は大事な日だと自分に言い聞かせ、無理やり体を起こした。

 慌てて準備を済ませ、病院へ向かう。

 先週とは違い、ケンはメイクボックスのほかにボストンバッグも携えている。

 患者にメイクを施すには、さまざまな許可を得なければならないのか、ケンは院長先生や看護師長、そしてシノブちゃんの両親と長時間、別室で話し込んでいた。

 けれども、何よりも重要なのは本人の意思だ。

 ケンとチカはノックをして病室へ入った。

 ベッドに横たわる彼女は憔悴しきっており、笑顔を作るのもやっとの様子だった。

 ケンはパイプ椅子を広げ、ベッドの脇に腰を下ろす。


「シノブはメイクしたことある?」

「ない……ずっと入院生活だったから……」

「じゃあ、メイクしてみようか」


 ケンはチカ以外誰もいない病室をわざとらしく見回した後、彼女に耳打ちする。


「本当に?」


 彼女は嬉しそうに微笑んだ。

 ケンの耳元での言葉は聞き取れなかったが、その言葉で彼女の表情は晴れやかに変わった。


「じゃあ、始めようか!」


 ケンはメイクボックスを開け、手早くメイクを施し始めた。

 彼女にメイクをする彼の思いは、震える右手や噛み締めた唇からひしひしと伝わってくる。

 笑顔を作りながらも、その心の内には悔しさと悲しみが渦巻いているに違いない。

 そんなケンの姿を見て、チカは堪えきれない涙を両手で隠した。

 見ているのが辛い。

 泣いてはいけないとわかっているのに、勝手に涙がこぼれる。

 逃げるように病室のドアに手をかけたその瞬間――。


「チカ!」


 ケンの声と共に、小さく首を横に振られた。

 きっとケンは、このメイクを通して何かを伝えたかったのだ。

 私はなんて弱いのだろう。

 なんて自分勝手なのだろう。

 ずっと、あなたの隣にいると決めたのに。

 チカは溢れ出る感情を静かに抑え、最後まで見届けることを決めた。

 メイクとヘアセットが終わると、ケンは伏せたままの手鏡を彼女に差し出した。

 ゆっくりと表を返した彼女の表情は、一瞬にして今まで見たことのないほど輝く笑顔へと変わった。


「……すごい。自分じゃないみたい……」


 彼女はその笑顔のまま、しばらく鏡に映る自分を見つめていた。


「笑顔に勝るメイクなし」


 ケンはそっと微笑む。

 これほどまでに輝く笑顔は、美容室のお客様の中にも見たことがなかった。

 笑顔を失いかけていた彼女を、たった短時間で輝く笑顔へと変えてしまう。

 ケンの不思議な力が、まさに“奇跡”を起こした瞬間だった。

 するとケンは、どこで手に入れたのか二着の看護師用制服をバッグから取り出し、着替え始めた。

 もう一着を差し出され、訳も分からぬままチカも着替えを始める。

 隣ではケンが変装するかのように髪を解き、マスクと眼鏡をかけた。

 チカは何が起こっているのか理解できずにいる。


「ちょっと待って。何をするの?」

「これから三人で病院を脱出するんだ」


 ケンは少し楽しそうに振り返った。


「えっ? そんなことしたら大騒ぎになっちゃうじゃん」

「俺を信じて」


 ケンの真剣な眼差しに、一瞬で決意を固めたチカは深く頷いた。

 あなたを信じる。

 チカは渡されたバッグを力強く抱きしめた。


「準備はいい?」


 ケンの声に二人は固唾をのんで小さく頷く。

 ケンは病室のドアを開け、彼女の乗る車椅子を颯爽と押し出した。

 三人の表情は言うまでもなく、“笑顔”だった。

 なんとか無事に病院を脱出した三人は、近くの公園にやって来た。

 ケンとチカはバッグに入れておいた服に着替え、彼女はパジャマの上からケンの上着を羽織った。


「パジャマのままじゃさすがにまずいから、まずは買い物に行こう!」


 ケンの言葉に彼女は嬉しそうに頷く。

 その表情は、彼女が病人だということを忘れさせるほどの笑顔だった。

 再び車椅子を押し、吉祥寺の街へ向かう。

 吉祥寺に着くとアパレルショップに入り、チカの主導で何度も試着を繰り返し、結局買い物は一時間に及んだ。

 その後も購入した服の話で盛り上がる二人に、ケンが割って入る。


「そろそろ腹減らない?」

「そういえば、シノブちゃんは?」

「減った!」

「今日は何でもシノブの好きなものを食べさせてあげるよ! 何がいい?」


 ケンはそう言って彼女の正面にしゃがみ込んだ。


「私……マックが食べてみたい!」


 その答えに驚いたケンはチカの方を見上げ、目が合った。


「だって、食べたことないから……。あと、スタバにも行ってみたい!」


 普段、自分たちが何気なく食べたり飲んだりしているものが、彼女にとっては特別で憧れだったのだ。

 そう痛感したチカは、車椅子をゆっくり押しながら声を弾ませた。


「よし! 行こう!」


 マックでハンバーガーとポテトを美味しそうに食べ、スタバではキャラメルフラペチーノを嬉しそうに飲み干した彼女は、終始笑顔だった。


「もうこんな時間か……。そろそろ病院に戻らなきゃな」


 ケンは腕時計を見て、切なげに夕空を見上げた。

 その言葉に彼女は寂しそうにうつむく。


「最後にすごいものを見せてあげる!」


 そう言ってケンに連れられ、井の頭公園へ入った。

 ゆっくりと車椅子を押し、池に架かる七井橋の中央で立ち止まる。


「今日は楽しかった?」


 ケンはしゃがんで彼女の目線に合わせる。


「うん! 最高に楽しかった!」

「そうか……それならよかった……」


 ケンの口元は何かを必死に堪えるように唇を噛み締めていた。


「あれは俺からのプレゼント……見て……」


 ケンは立ち上がり、背中に隠していたものを指差す。

 そこには、手を伸ばせば届きそうなほど大きく真ん丸なオレンジ色の夕日が浮かんでいた。


「わあ……綺麗な夕日……。病室から見る夕日とは全く違う。こんなに綺麗で素敵なものが、外の世界には溢れているんだね」


 ケンは目を輝かせて夕日を見つめる彼女に、“いつかもっと綺麗なものを見せてあげる”と心の中で約束した。

 沈みゆく夕日にシノブを重ね、“消えないで”と願いながら、“やがてくる現実”を自分の心に言い聞かせた。

 受け入れたくない現実を。

 信じたくない現実を。

 無理やりに心へと言い聞かせた。

 これ以上、何もできない自分が悔しかった。

 こんなことしかできなくてごめん。

 もっと綺麗な世界をたくさん見せてあげたかった。

 もう……その無邪気な笑顔が見られなくなってしまう。

 ごめん。

 ごめんな……シノブ……。

 病院へ戻ると、彼女の両親、院長先生、看護師長が入口で待ち構えていた。

 両親は心配そうに彼女を抱き寄せ、看護師長はカンカンに怒っている。

 でも、チカにはそれが演技のように見えて仕方がなかった。

 後からケンに聞いた話では、この一連のことはすべてケンが計画し、両親や院長先生、看護師長の許可をきちんと得ていたらしい。


 それから11日後の2006年11月18日(土)12時31分。

 キラキラと輝く瞳と笑顔を残して、彼女は静かに息を引き取った。


「頑張ったね……本当によく頑張った……」


 ケンは病室で安らかに眠る彼女の手を強く握りしめ、静かに涙を流し続けた。

 前日、蕾が開き花を咲かせた奇跡の花“アストランティア”。

 その花びらを彼女の手にそっと乗せ、ケンは願った。


「どうか……生まれ変わってきた時には、綺麗な世界に囲まれ、たくさんの幸せに包まれていますように……」


 不思議だ。

 ついこの間まで、美味しそうにハンバーガーを頬張っていたのに。

 あんなに可愛らしい笑顔で、普通に話していたのに。

 綺麗な瞳で夕日を見つめていたのに。

 もう……いないなんて。

 けれど、この世からいなくなっただけで、目を閉じれば、俺の中にいる。

 ただ、もう会えないということだけ。

 それを静かに受け入れるだけ。

 帰り際に、シノブがケン宛てに書き残したという手紙を両親から手渡された。

 

 

* * *

 

 ケンさんへ


 初めて出会った頃は、ケンさんに酷いことばかりを言っていたよね。

 謝っても許されることではないけれど、本当にごめんなさい。

 ずっとケンさんのことを誤解していました。

 “こんな人に何ができるの?”って……。

 でも、ユウカちゃんにメイクをしているケンさんを見て、そして私もメイクをしてもらって思った。

 メイクって、顔だけにするものじゃないんだなって。

 顔にメイクをされて、美しく生まれ変わった自分を鏡で見て、心も一緒にメイクされたみたいにきれいになって、心の底から自然に笑顔が溢れる。

 その笑顔こそが、本当の自分なんだと、ケンさんが教えてくれた。

 最後に、自分の笑顔に出会えるなんて思ってもいなかったから、とても嬉しかった。

 あんなにきれいな世界を見られて、本当に幸せだった。

 あの日は、病気のことを忘れてしまうくらい楽しかった。

 最後に、ケンさんとチカさんと最高の思い出が作れてよかった。

 もしかしたら、アストランティアの花が私の願いを叶えてくれたのかもしれないね。

 ケンさんはたくさんの笑顔と元気と勇気を私にくれた。

 この笑顔も、この思い出も、絶対に忘れない。

 だから、どうかケンさんもずっと笑顔でいて。

 もう悲しまないでほしい。

 色んな人に出会えて、その人たちの記憶の中で私は生き続けられるから。

 だって、ケンさんの記憶の中にも、私はいるでしょう?

 天国に行ったら、アヤカに伝えておくね。

「ケンさんはメイクでたくさんの笑顔を作っているんだよ!」って。

 今までは、生きるのは辛いことって思っていたけれど、“生きている”ってそれだけで幸せなことなんだね。

 生まれてきて本当によかった。

 ケンさんに出会えて、本当によかった。

 ケンさん、最高の思い出をありがとう。

 笑顔をありがとう。

 この笑顔と最高の思い出を胸に、天国へ行ってきます。

 

 シノブ

 

* * *

 

 

 手紙を読み終えたケンは、無力感に苛まれた。

 拳を強く握り締め、震えるその手を壁に叩きつけては、言葉にできない悲しみの現実にただ涙を流し続けた。

 奇しくも、その日はケンの誕生日だった。

 家に着くと、泣き疲れたケンは手紙を握りしめたまま、静かに眠りに落ちていた。

 チカはベッドで物悲しい寝息を立てるケンの横顔をじっと見つめ、そっと首の傷跡に指を這わせた。

 なぜ、人は死んでしまうのだろう?

 幼い頃、おじいちゃんが言っていたことを思い出す。

「生きたくても生きられない人はいる。人間は自分の意思で生まれてきたのではないのだから、自分の意思で死んではいけない」と。

 今、私があなたにできることは何だろう?

 あなたがいつも言う「隣にいてくれるだけでいい」という言葉は、どういう意味なのだろう?

 隣にいるだけでは、何もしてあげられない。

 私はあなたの“生きる理由”になれているのだろうか?

 私はただ、あなたと今日を笑顔で過ごしたい。

 あなたと新しい明日を笑顔で迎えたい。

 昨日よりも多く、けれども明日よりは少ない笑顔でいられる、そんな今日でありたい。

 大きなものでなくていい。

 小さくてもいい。

 ただ、消えない幸せであってほしい。

 ただ、あなたが隣にいるだけの幸せであってほしい。

 そうか……あなたが言っていたのは、そういうことだったのか。

 チカは切なくも温かな想いを胸に、力強くケンを抱き締めて、静かに眠りについた。

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