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もしも願いが二つ叶うなら…  作者: KANATA
第四章 消せない三つの傷
15/31

宿した傷痕

【2006年2月14日(火)】

 

 今日は、ユウカちゃんが待ちに待った退院の日。

 そして、女の子にとって特別な一日でもある。

 ――大切な人に、想いを伝える“きっかけ”をもらえる日。

 きっと伝わる。

 心に届く。

 願いは叶う。

 ……そう信じて。

 まだ肌寒さの残る朝だったけれど、窓から差し込む太陽の光が、それを忘れさせてくれるような、穏やかな天気に恵まれた。

 時刻は午前9時。

 病室のドアをノックすると、明るく元気な声とともに、勢いよく扉が開いた。


「お姉ちゃん!」


 ユウカは両手を広げて、まっすぐチカに飛びついてくる。


「退院おめでとう!」


 チカは持っていた花束を手渡しながら、柔らかく微笑んだ。


「ありがとう!」

「これは“スズラン”っていう花でね、花言葉は“幸福の訪れ”なの。ユウカちゃんにぴったりだと思って!」

「うん、すっごくいい香り!」

「それから、これも退院のお祝いに。プレゼント!」


 チカは可愛くラッピングされた小さな箱を取り出し、そっと差し出した。


「ありがとう! 開けてもいい?」

「もちろん!」


 ユウカが丁寧に包み紙を剥がしていくと、中からキラキラと輝くラインストーンが散りばめられた、可憐なヘアアクセサリーが現れた。


「可愛い!」

「髪、だいぶ伸びちゃったでしょ? 私がカットできるようになるまで、それで束ねててね」


 チカはユウカの髪を優しく撫でながら、温かな笑みを浮かべる。


「大切にするね!」


 そう言って、ユウカも嬉しそうに頷いた。

 しばらくすると、病室のドアがノックされる音が響き、チカの体が自然と反応する。

 ユウカは軽やかに跳ねながら、ドアへと駆け寄っていった。


「ママ!」


 その呼び声に、チカはすぐさまソファーから立ち上がり、深々とお辞儀をした。


「はじめまして」

「はじめまして。あの……どちら様でしょうか?」


 戸惑うように尋ねたユウカの母親に、ユウカは得意げな表情で答える。


「お姉ちゃんはね、ケン兄のお友達!」

「そうでしたか。いつもユウカがお世話になっております」


 チカが丁寧に頭を下げると、ユウカは手にした花束とヘアアクセサリーを嬉しそうに掲げて見せた。


「お姉ちゃんからもらったの! お花とプレゼント!」

「わざわざありがとうございます」


 簡単な挨拶もそこそこに、ユウカの母親は素早く荷物をまとめ始めた。


「ママ、これから退院手続きしてくるから、荷物の片付けよろしくね!」


 そう言い残し、母親は一礼して病室を後にした。


「私も手伝おうか?」


 チカがそう声をかけながらソファーに腰を下ろすと、ユウカは首を横に振った。


「大丈夫!」

「そっか。……じゃあ、私はそろそろ行こうかな。ケン君が来ちゃいそうだし……」


 そのひと言で、片付けをしていたユウカの手がぴたりと止まった。


「ケン兄と、何かあったの?」

「全然! 何にもないよ!」


 慌てて両手を振りながら笑ってごまかすチカ。

 でも、その笑顔の裏に隠された複雑な想いを、ユウカが気づいていないはずもなかった。

 すると突然、ユウカがチカの背後を指差しながら、クスクスと笑い出した。

 不審に思いながらゆっくり振り返ると、そこには――ケンの姿があった。


「……っ!」


 思わず息が詰まり、言葉にならない声が喉で止まる。

 視線が合った瞬間、チカの顔はみるみる赤く染まり、心拍数が急上昇する。

 気まずさと動揺を誤魔化すように、チカは慌ててユウカに目を向けた。


「これ……私の連絡先。メールしてね!」


 そう言って、事前に用意していた小さなメモ用紙をユウカの手に押しつけると、チカはそそくさと病室を飛び出した。

 俯いたまま、足早に廊下を抜け、外の冷たい空気を吸い込む。

 震える手を胸に当てると、心臓がドクドクと激しく鼓動していた。

 ――ちゃんと、話したかったのに。

 せめて、少しだけでも笑っていたかったのに。

 後悔を抱えたまま、院内のベンチに腰を下ろし、深く息を吐いた。

 チカが嵐のように去った後、ユウカの母親が病室へ戻ってきた。


「ケンさん! お久しぶり!」

「お久しぶりです。もう手続きは終わりましたか?」

「ええ、ちょうど今終わったところ。これから荷物を車に積むから、ユウカの相手、お願いね」


 そう言って上着を羽織り、大きな荷物を抱えて慌ただしく病室を後にする。

 静けさが戻った室内で、ケンはソファに腰かけたユウカの横顔をちらりと見る。


「ユウカ、あの子に変なこと言ってないよな?」


 窓の外をじっと見つめていたユウカが、ふと小さく口を開いた。


「ねえ、ケン兄?」

「ん?」

「お姉ちゃん、ケン兄が私にしてくれたことと、同じことしてるよ」

「……?」

「ケン兄が私に、諦めないで“待って”くれたみたいに、お姉ちゃんもケン兄が振り向いてくれるのを、ちゃんと信じて待ってる」


 その言葉に、ケンの表情がわずかに揺らぐ。

 ユウカの視線の先――

 それは、病院の入口で寒そうに手を擦りながらも、じっと動かず何かを待ち続けるチカの姿だった。


「きっと、あの人は心の綺麗な人だよ。人の苦しみも、悲しみも、一緒に背負って、一緒に泣いてくれる。……あとは、ケン兄が、ちゃんと振り向いてあげるだけなんじゃない?」


 その優しい声が、ケンの胸の奥深くに静かに届く。

 ――わかってる。

 世の中には、拒絶する人もいれば、そっと手を差し伸べてくれる人もいる。

 そのことに、ずっと前から気づいていた。

 気づかないふりをしている、自分自身がいることにも。

 でも――怖いんだ。

 また、自分のせいで誰かが傷ついてしまうのが。

 誰かの未来を、自分が壊してしまうのが。

 許せない。

 過去のあの日。

 あのときの自分を。

 あのメイクが――命を奪ったことを。


「……教えてくれ、アヤカ」


 心の中で問いかける。

 ――俺が選んだこの道は、本当に……正しかったのか?

 

 30分ほどが過ぎ、チカの手はすっかり冷えきっていた。

 ようやく、病院の入口からケンらしき人影が現れる。

 その姿はゆっくりと正門へと歩を進めていた。

 慌てて近くの木陰に身を隠すと、足音は正門で止まった。

 そっと木の陰から覗くと、ケンは清々しい顔で青く澄んだ空を見上げている。

 ――なんだろう、この感じ。

 どこか穏やかで、少しだけ微笑んでいるようにさえ見えた。

 その横顔につられるように、チカもそっと空を仰いだ。

 美しい木漏れ日が、やさしく彼女の頬を照らしている。


「……しつこいな、君は」


 不意に、その低く柔らかな声が風に混じって聞こえてきた。

 一瞬でチカの視線が正門へと戻る。

 ケンは相変わらず空を見上げたまま、こちらを見ようともしない。

 ――見つかってた。

 完全に隠れたつもりだったのに。

 観念したように、チカは木陰から姿を現した。


「しつこいって思われてもかまいません。ジュンさんは“あいつは自分を守る言葉を知らない”って言ってたけど、私は違うと思う」


 不思議と、強気になれていた。


「ケン君はちゃんと自分を守ってる。“自分の過去は、誰にも受け入れられない”って、そう思いながら怯えてるだけじゃないですか?」

「俺の何がわかるって言うんだ」


 ケンの声が少し荒くなる。

 けれど、チカはまっすぐ彼を見つめたまま、言葉を返した。


「わかりません。でも、だからこそ知りたいんです。もっと、あなたのことを――」


 その言葉は、まるで反射のように飛び出した。

 ぶつかって、壊れてしまいそうな緊張感のなかで。


「……ジュンみたいなこと言うんだな」


 ケンが小さく笑ったように見えた。


「え……?」


 不意に言葉を切られ、チカが戸惑っていると――


「今、時間ある? ……腹、減った。飯でも行かないか?」


 それは信じられないくらい自然な口調だった。

 でも確かに――ケンの“心”が、ほんのわずかに、チカの方へ開いた瞬間だった。

 

 言葉には、ちゃんと意味がある。

 それは辞書の中にある定義なんかじゃない。

 人と人を結ぶ、目には見えない絆のようなもの。

 時に人を傷つけ、すれ違い、誤解されることもある。

 だけど、たとえありふれた言葉でも――想いが宿っていれば、それはきっと届く。

 まだ、すべてを理解できたわけじゃない。

 心の奥にある深い溝を、完全に埋められたわけでもない。

 でも。

 転んでしまったのは、前に進んでいたから。

 苦しんでいるのは、必死に闘っているから。

 痛みを感じるのは、ちゃんと“生きている”証だから――

 もし、その傷が今も疼いているのなら。

 私は、あなたの包帯になりたい。

 もう二度と、深い傷が広がらないように。

 これ以上、悲しい涙が溢れないように。

 あなたの心に、そっと触れる――

 そんな存在に、なれたなら。

 

 カフェを出た帰り道、チカはケンの広い歩幅に合わせて少し早足になる。

 さっきまでは向かい合っていたけど、今はあなたの背中をただ追いかけていた。

 パスタの味も、どんな会話をしたのかも、正直ほとんど覚えていない。

 嬉しかった。けれど、緊張と後悔の入り混じったような気持ちが胸を締めつける。

 そんな中、不意にケンが足を止めて振り返った。


「休みなのに、彼氏と会わなくていいの?」


 その一言に、チカの中で忘れかけていた罪悪感がふいに蘇る。

 それでも、まっすぐ答えた。


「彼氏とは別れました」

「どうして?」

「愛する人に、愛されなきゃ意味がないから」


 ほんの少し、覚悟を込めて言った言葉だった。

 けれど――反応はない。

 視線すら合わず、ケンはまるでその想いに気づかないかのようだった。


「それで暇になったから、俺の後を追い回してるってわけ?」

「追い回してるわけじゃありません。ただ偶然が、ちょっと……続いただけです」


 ふてくされたように口を尖らせて言ったあと、小さく呟いた。


「……連絡先、教えてもらえませんよね?」


 しばらく沈黙が続いた。

 横目でケンの表情を探ると、その唇がふいに動く。


「“ひらがな”を作った人ってさ。なんで“あ”で始まって、“ん”で終わらせたんだろうな」


 突然の問いかけに、チカは一瞬きょとんとした顔になる。

 ――え、なにそれ。

 戸惑いながらも、大きく息を吸い込み、頭をフル回転させて考えてみる。

 でも、やっぱり答えは出てこない。


「もしもわかったら。ジュンから、俺の連絡先を教えてもらっていいよ」


 そのまま歩き出したケンの背中を、驚きと戸惑いが入り混じった気持ちで追いかける。

 答えを考える間もなく、気がつけば駅に着いていた。


「じゃあ俺は病院にバイク停めてあるから、ここで」

「カフェから病院と駅って逆方向なのに、わざわざありがとうございます」


 その何気ない優しさが、チカの胸に温かく染み込んでいく。

 冷たい風が吹いていたはずなのに、心の中にはほんのりとした温もりがあった。

 結局、連絡先はもらえなかった。

 でも、それでも――今日は前より少しだけ近づけた気がする。

 “答えがわかれば教える”

 たぶんそれは、ただのクイズじゃない。

 何度も頭の中で問いを繰り返す。

 なぜ「ひらがな」は、「あ」で始まり、「ん」で終わるのか。

 意味があるのか、ないのか。

 それとも、意味を見つけ出すことが、彼の言いたかったことなのか。

 ベッドに入っても、その問いが頭から離れない。

 何かに似てる――

 そう、まるで“心”みたいだ。

 始まりがあって、終わりがある。

 でもその間には、数えきれない言葉がある。

 たったひとつの“あ”から、すべてが始まるように。

 “ん”で終わることを恐れずに。

 また“あ”から、始められるように――。



 翌日の夜練習。

 シザーの開閉音がフロアに静かに響き渡る。

 ウィッグに向かい、カット練習をしているチカとミサキの手は、止まることなく動き続けていた。


「ねえ、ミサキ。“ひらがな”って、なんで“あ”から始まると思う?」

「……は? なにそれ、クイズ?」

「ううん。クイズっていうより……問いかけって感じ」

「誰に聞かれたの?」

「ケン君に……」

「え、もうそんな仲になったの!?」


 ミサキの声が思わず大きくなり、フロアに響く。

 慌てたチカは後ろを気にして、小声で囁いた。


「ちょっと……声大きいってば。タカユキいるんだから……」


 その名を出すと、どこか胸がちくりと痛む。

 チカは視線をそらしながら言葉を続けた。


「昨日、ユウカちゃんが退院する病院で、偶然ケン君に会って……そのときに聞かれたの」

「ふぅん……」


 すべてを察したように、ミサキは小さく何度か頷く。


「ケン君からの問いかけなら、きっと意味があると思うよ。でもね、たぶん正解が知りたいんじゃなくて、チカがどう思うかを知りたいんじゃないかな」


 その言葉に、チカの手がふと止まった。

 動かし続けていたハサミをそっと下ろし、ぽつりと呟く。


「……私の思いか」


 練習を終えたあと、ウィッグを片付けながら、チカは休憩室へと向かった。


「お疲れ様です!」

「おう、お疲れ」


 アシスタントの練習ノートに目を通していたジュンに、思い切って聞いてみる。


「ジュンさん、“ひらがな”って、なんで“あ”から始まると思いますか?」

「……なんだ急に?」


 走らせていたペンが止まり、ジュンの視線がチカに向けられる。


「わかんないけど……もしチカが“ひらがな”を作るとしたら、何を思って並べるかを考えてみれば?」


 ジュンの言葉に、ふと視線が揺れる。

 もしも私が“ひらがな”を作るなら――。

 最初は「あ」。その次は「い」。

 そう、最初に並ぶのは「あい」。

 “愛”――。

「あ」から始まって「い」が続く。

 “すべての言葉のはじまりが、愛からだったら――”

 その瞬間、電気が走るように、答えが心に届いた。


「ジュンさん!」

「ん?」

「ケン君の連絡先、教えてください!」

「お、おう? どうした急に?」

「“これがわかったらジュンから連絡先をもらっていい”って、ケン君が言ってたんです!」

「なるほどね……そういうことか」


 納得したように頷くジュンが、ポケットからケータイを取り出す。

 数秒後、チカのケータイにメッセージが届いた。

 画面に表示された、その名前――。

 “ケン”

 ついに、その連絡先が手に入った。

 胸の奥で、何かが音を立てて動き出す。

 それは、物語の始まり。

 “あ”という名の、新しい一歩。


「それで答えは何なの?」


 いつの間にか隣に座っていたミサキが、待ちくたびれたように呟いた。


「これは“答え”っていうより……。ミサキが言ってた通り、私が“どう思うか”なんだと思う。だから、自分の感じたことが正解なんじゃないかなって」

「何それ、うまくまとめたつもり?」


 ミサキはいじけたように笑い、そのやり取りを見ていたジュンも、どこか笑いを堪えているように見えた。

 夜練習を終えた帰り道。

 チカはケータイを見つめたまま、夜道を歩く。


 《質問の答えですが、何となくわかった気がしたので、ジュンさんから連絡先を聞いてしまいました! きっと“ひらがな”を作った人は、後世のために“生きる意味”を、言葉という形で残したかったのかなと思いました》


 慎重に言葉を選びながらメールを打ち終え、最後にもう一度内容を確認してから、送信ボタンを押した。


「日曜日はメイクのチェックか……」


 星のない空を見上げながら、ミサキが大きくあくびを漏らす。


「メイクって、本当難しいよね」

「私もそろそろ、カットだけじゃなくてメイクの練習もしなきゃって思ってたとこ」

「じゃあ明日の朝、メイク練やろっか!」


 チカはミサキの肩をポンッと叩き、笑顔で返した。

 いつもの分かれ道でミサキと手を振って別れ、家路を急ぐ。

 玄関を開けるなり、すぐにケータイを確認したが、まだケンからの返信はなかった。

 そのまま夕食の準備に取りかかるも、箸を持つ手が何度もケータイの画面へと向かう。

 “きっと忙しいだけ。きっとそう――”

 そう自分に言い聞かせ、シャワーを浴びにバスルームへと向かった。

 鼻歌交じりにお湯に打たれていると、ふとシャワーの音に混じって、微かな着信音が耳に届いた。


「……えっ!?」


 慌てて飛び出し、濡れたままの体にバスタオルを巻きつけ部屋へと駆け戻る。

 画面を開くと――。


 《ジェルネイルやりたいんだけど、店長に怒られるかな?》


 それは、ミサキからのメッセージだった。


「……なんだ、もう……」


 脱力しながらも、少しだけ笑ってしまう。

 そういえば、ケン君も左手の小指だけ、ジェルネイルをしていた。

 男性では珍しいけど、あれには何か意味があるのだろうか?

 バスルームに戻りながら、ふとその爪の光を思い出す。

 シャワーを終え、再びケータイを確認したが――やはり返信はない。

 ふてくされたまま、ドレッサーに向かい、化粧水を手に取る。

 いつもは時間をかけて行うスキンケアも、今夜ばかりは心ここにあらずで、手抜きになってしまった。

 髪を乾かしながらも、何度も視線がテーブルの上のケータイへと戻る。

 やがて、気を紛らわせるように休日にまとめてやるはずの家事に取りかかった。

 洗濯物を畳みながらも、ケータイに目をやる。

 食器を洗いながらも、ケータイに耳を傾ける――。

 すべてが終わったころには、部屋の明かりだけがぽつりと灯り、チカは静かにベッドへと入った。

 暗闇の中、ケータイの画面を見つめる。

 返信は――ない。

 目をこすりながらも、画面から目が離せない。

 深夜、待ちくたびれたまま、ケータイを胸に抱き締めるようにして、眠りに落ちた。

 

 翌朝。

 ケータイの着信音でチカは飛び起きた。

 寝ぼけたまま手探りで画面を開くと――


 《ケン君からメール来た?》


 またミサキからのメッセージだった。


 《まだ……》


 そう返信してからケータイを閉じ、急いで身支度に取りかかった。

 出勤後も、営業開始までの間、ケータイを開いては閉じるの繰り返し。

 だが、朝礼の時間となり、しぶしぶケータイをバッグにしまった。

 ――そして、19時を回る頃。

 客足も落ち着き始め、チカはようやく休憩に入った。

 昼に買っておいたカップラーメンにお湯を注ぎながら、左手にはケータイを握る。

 画面を開くと――「メール受信」の文字。

 祈るような気持ちで指先を滑らせ、メッセージを開いた。


 《俺の答えに少し近い》


 ――ケンからの返信だった。

 思わず口元が緩み、胸の奥がじんわりと温かくなる。

 チカはすぐに返信を書き始めた。


 《ケン君の答えは何だったんですか?》


 ほどなくして再び、ケータイが鳴る。


 《“ひらがな”って、“あい(愛)”から始まって、“をん(恩)”で終わる。人は愛を授かって生まれて、恩を返して生涯を終える。そんな生き方みたいなことを教えてくれるものなのかなって思ってる》


 画面を見つめながら、チカの胸に何かがすとんと落ちる。


 《すごく素敵な考え方ですね!》


 そう返信したあと、少し迷いながらも、もう1通メッセージを送った。


 《実はお願いがありまして、今度の日曜日にメイクチェックがあるので、その前にメイクを教えてもらえませんか?》


 数分後――


 《いいけど、今週は明日の深夜0時以降しか空いてない》


 少し遅いけれど、それでも構わない。

 むしろ、チカにとっては願ってもない機会だった。


 《私も大丈夫です! お仕事でお疲れのところすみません。うちの店に待ち合わせでもいいですか?》

 《わかった》


 ――その返事が届いた瞬間。

 夢中になりすぎて、すっかりのびきってしまったカップラーメンを大慌てで啜り、笑顔でフロアへと戻っていった。

 

 営業が終了し、チカが休憩室でケータイを眺めていると、陽気な足取りでミサキが入ってくる。


「聞いて! 店長に聞いたら、長さ出さなければジェルネイルOKだって!」

「良かったね!」


 嬉しそうなミサキの笑顔を見つめながら、チカの心にはある記憶が蘇る。

 ――ジェルネイル。

 ケンの左手小指に、そっと添えられていた、あのネイル。

 そのとき、再び休憩室のドアが開いた。


「ミサキ、店長が呼んでるぞ」

「はーい、すぐ行きます!」


 ジュンの呼び声に、ミサキは弾む声で返事をし、そのまま楽しそうにフロアへと戻っていった。


「あいつ、機嫌いいな……」


 ジュンは疲れをほぐすように顔をこすり、ポケットからタバコを取り出すと火を点けた。


「ジェルネイルやるみたいで」

「……女性って、ほんとそういうの好きだよな」


 ぽつりと呟いたジュンの言葉に、チカは意を決したように切り出した。


「そういえば、ケン君もやってますよね?」

「……そうだっけ?」


 裏返った声。

 思わず出たその反応に、チカは確信する。


「ほんとは知ってますよね?」


 じっと見つめるチカの視線に、ジュンは観念したように肩を落とし、静かに口を開いた。


「……あれは、ケンにとって“自分への戒め”なんだ」

 

 

* * *

 

 今から5年ほど前――

 俺が美容師として働き始めてまだ間もない頃のことだ。

 あの日は、仕事終わりにケンと二人で飲みに行った。


「美容師、どう?」

「大変だよ。まだシャンプーしか合格してないしさ」


 そう言いながらケンに視線を向けた時、ふと目に留まった。

 左手の小指に、何かが塗られていたんだ。


「左手の爪のそれ……何?」

「これか。病院の子が塗ってくれたんだ」


 爪には不器用に塗られたマニキュア。

 はみ出した色が指先の皮膚にまでこびりつき、乾いて固まっていた。


「……下手くそだろ!」


 そんな言葉とは裏腹に、ケンの顔は柔らかく、どこか誇らしげだった。

 まるでプレゼントをもらった子供のように――。

 あんな表情のケンを見るのは初めてだった。

 それが、ケンにとってどれほど特別なものだったのか。

 あの時の表情を見れば、言葉にしなくてもわかった。

 ――あれは、アヤカからのプレゼントだった。

 その一本の爪には、アヤカという少女がくれた“思い出”が宿っていた。

 無邪気な優しさ。小さな勇気。

 それをケンは、今でもずっと指先に封じ込めている。

 許されることのない“事実”――。

 あの出来事を抱えながら、それでもアヤカの優しさを忘れたくなかったんだろう。

 だからこそ、忌まわしい記憶と優しい記憶をひとつに重ねて、左手の小指に刻んだ。

 それはケンにとって、贖罪であり、祈りでもあったのかもな。

 だが今となっては、それはただ、己を戒めるためだけに残された、深い烙印となってしまったのかもしれない。

 

* * *

 

 

 何かしらの意味があるとは思っていた。

 けれど、そんな深い想いが込められていたなんて、夢にも思わなかった。

 忘れられない思い出。

 忘れてはいけない思い出。

 それがかけがえのない記憶ならば、なおさらだ。

 人は亡くなってしまえば、他者の記憶の中でしか生き続けることができない。

 だからこそ――悲しみだけを宿したままの思い出であっていいはずがない。

 私が知っているあなたは、強くて、優しくて、どこまでも真っ直ぐな人だ。

 たとえ今、その思い出が自分を責めるための傷痕に変わってしまっていたとしても……

 いつかきっと、取り戻せる。

 あの日の微笑みも、温もりも。

 それが、あなたの中で――もう一度「大切な記憶」と呼べる日が、きっと来る。

 悲しみではなく、希望とともに息づく記憶として。

 あなただけの、誰にも汚されることのない、尊く、愛おしい思い出として――。

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