暗闇の真実
【翌朝】
せっかくの休日だというのに、いつもより早く目が覚めた。
昨日の夢のような時間――その余韻が、まだ胸の奥に微かに残っている。
けれど、それと同時に、気がかりなことも増えてしまった。
胸をざわつかせる想いばかりが膨らみ、頭の中が空回りしている。
知りたい、でも近づけない。そんな焦りが、言いようのない不安を呼び込んでいた。
気持ちを少しでも落ち着けたくて、ふらりと散歩に出かけた。
だが、気がつけば足は自然と病院へと向かっていた。
――誰かに、話を聞いてほしい。
そんな想いが、チカを彼女のいる場所へと向かわせたのかもしれない。
ユウカと会うのは、あれから1週間ぶりだ。
「ユウカちゃん!」
ノックと同時に病室のドアを開けた、その瞬間だった。
想像もしていなかった光景が、目の前に飛び込んできた。
ベッドの隣。
そこには、椅子に座り、穏やかな表情でユウカと話しているケンの姿があった。
「……どうして君がここに?」
突然の来訪に、ケンは明らかに戸惑いを見せながらも、静かに問いかけてくる。
その視線を真正面から受けたチカは、動揺のあまり言葉を失った。
「ユウカ。この人と知り合い?」
「うん! お姉ちゃんは――」
「わっ、ちょ、ちょっと待って!」
慌ててユウカの口元を手で塞ぎ、チカは無理に笑みを浮かべながらケンを見つめる。
だがその表情は、どう見ても不自然だった。
ケンの眉が僅かに寄り、怪訝そうな眼差しがチカを捉える。
「……ユウカ、下でタバコ吸ってくる」
立ち上がったケンは、何かを感じ取ったような表情のまま病室を出ていった。
ユウカは軽く手を振って見送る。
その姿を確認すると、チカはすかさずユウカの前にぺこりと頭を下げ、両手を合わせた。
「この前のこと、絶対言わないでね! お願い!」
「わかってるってば。さっきも遠い親戚ってことにしようと思ったのに!」
「それ、通用する!?」
不安げなチカとは対照的に、ユウカは腕を組んで自信満々な様子だ。
その根拠のない自信は一体どこから来るのか――
そう思いながらも、もはやユウカに任せる以外に方法はなさそうだった。
ふとユウカに目を向けると、何か言いたげな表情をしている。
「ケン兄とは、どう?」
「ケン君は……私のことなんて、何とも思ってないよ」
寂しいけれど、それが現実だとわかっている。
――私のことなんて、せいぜい親友の後輩くらいにしか見ていない。
ただ、それだけの関係。
しばらくすると、慌ただしい足音とともに病室のドアが開いた。
「ごめん! 今、スタジオから電話あって……戻らないと」
ユウカの表情に、一瞬だけ影が差す。
寂しさが滲み出ていた。だがすぐに、それを打ち消すように笑って見せる。
その変化に気づいたチカは、何も言わず、ユウカの頭をそっと撫でた。
そして、ケンに向けて精一杯の笑顔を浮かべる。
まるで「大丈夫だから」と言うように。
ケンは軽く手を振ると、病室を後にした。
それからの時間、チカとユウカはたくさんの話で盛り上がった。
気づけば窓の外はすっかり暗くなり、夜の帳が静かに下りていた。
「たしか、再来週が退院だったよね?」
「うん!」
ユウカは嬉しそうに、何度も何度も頷く。
「退院の日、また会いに来てもいい?」
「もちろん!」
「じゃあ、そろそろ行くね」
名残惜しさを胸に押し込めて、チカはユウカの病室を後にした。
病院の前に続く、小さな並木通り。
もう辺りはすっかり暗くなり、人通りもほとんどない。
所々に立つ街灯が、葉の落ちた並木を静かに照らしている。
ふと見上げれば、昨日降った雪が、枝を白く彩っていた。
葉のない寂しげな木々が、まるで化粧を施されたかのように凛と美しい。
そんな幻想的な風景に、チカはしばし足を止め、見惚れていた。
――その時だった。
通りの向こう側から、一人の人影がゆっくりと近づいてくる。
暗くて顔は見えない。
けれど、左手には大きなボックス。
右手には、かすかに揺れる小さな光。
そのシルエットを見た瞬間、胸の奥がわずかに震えた。
心に浮かんだのは――あの人の姿。
距離が少しずつ縮まり、街灯と雪の淡いコントラストに照らされて、やがて彼の顔が浮かび上がる。
そう、それはやはり――ケンだった。
二人は、数歩の距離を保ったまま、ぴたりと足を止めた。
「お仕事、お疲れ様です」
「今から帰り?」
「はい」
「気をつけて」
それだけを言って、ケンは再び歩き出した。
ふわりと漂ってきた、彼の優しい香り。
その香りが通り過ぎてゆくのと同時に、チカの胸に小さな勇気が灯った。
「……ケン君って、本当にいい人ですね!」
切なさとともに、背中にぶつける精一杯の想い。
ケンは足を止め、ゆっくりと振り返った。
「俺が“いい人”?」
「はい。アヤカちゃんの話も、ユウカちゃんの笑顔も見ていれば、わかります」
しかし――
「……綺麗な部分しか、聞いてないだけだろ」
ケンのその言葉には、どこか冷たい響きが混ざっていた。
「綺麗な部分? どういう意味ですか?」
チカの声が、静まり返った夜道に落ちる。
さっきまで吹いていた風はいつの間にか止み、あたりに静寂が広がる。
そして、ケンの低く淡々とした声が、その静けさを切り裂いた。
「――あの笑顔が、アヤカの“最初で最後”の笑顔だったんだ」
* * *
アヤカがあの“笑顔”を見せてくれたあの日から、大学のテストやバイトが重なって、しばらく病院に行けない日が続いた。
いつもなら少し無理をしてでも顔を出すのに、気づけば2週間が経っていた。
ようやくテスト期間が終わり、バイトも運よく休みが取れた。
久しぶりにアヤカに会える。
そう思って、意気揚々と玄関のドアに手をかけた、その瞬間――。
ケータイが鳴った。
不意を突かれたように胸がざわつく。
ディスプレイに表示された発信元は、《公衆電話》。
妙な胸騒ぎを覚えながら、急いで通話ボタンを押す。
「……ケン兄ちゃん?」
声を聞いた瞬間にわかった。アヤカだ。
「アヤカ? どうした?」
けれど、返ってきたのは思いもよらない言葉だった。
「ケン兄ちゃん、私に笑顔をくれて……ありがとう」
それだけを告げて、電話はぷつりと切れた。
「アヤカ!? アヤカ、待って!」
慌てて名前を叫んだが、返答はなかった。
公衆電話からの着信――。
こちらからかけ直すこともできなければ、アヤカの家の番号も知らない。
不安が一気に押し寄せ、足元がぐらつく。
何かがおかしい。何かが――違う。
そう感じた瞬間には、もう体が勝手に動いていた。
病院へと全速力で向かった。
到着してすぐ、ナースステーションでアヤカのことを尋ねた。
だが、誰一人として今日のアヤカの姿を見た者はいなかった。
嫌な予感がどんどん現実味を帯びていく。
「お願いします! アヤカのご自宅に連絡を取ってください!」
そう看護師に頼むと、俺は病院中を駆け回った。
思い当たる場所はすべて――
あの中庭、遊び場、階段の踊り場。どこにもいなかった。
時間だけが過ぎてゆく。
辺りは次第に暗くなり、夕暮れの光も街の影に溶けていく。
その時――ケータイが再び鳴った。
アヤカだろうか。希望と不安の狭間で、すぐに応答ボタンを押す。
「アヤカ……!?」
しかし、それは看護師からの電話だった。
「ケンさん、アヤカさんのご両親が警察に捜索願を出されたそうです」
頭の中が真っ白になった。
信じたくない。
けれど、現実は、目の前でゆっくりと重く扉を閉じていった。
その日は、夜になっても探し続けた。
何の手がかりもないまま、ただひたすらに。
次の日も、そしてまたその次の日も――
俺はアヤカを探し続けた。
けれど、どれだけ歩き回っても、どれだけ声を枯らしても、
アヤカの姿は、どこにも見つからなかった。
――そして、アヤカと再び対面したのは、それから10日後のことだった。
その身体は、悲しいほどに変わり果てていた。
冬の、冷たい海の中――たったひとりで。
寒かっただろう。
寂しかっただろう。
彼女のポケットの中には、俺があげたグロスと手鏡が入っていた。
その鏡に映っていたのは、醜く歪んだ――俺自身の姿だった。
どうしようもない悲しみに満ちた現実。
流すことしかできない涙。
何ひとつ救えなかった自分への、どうしようもない怒り。
感情を抑えきれず、俺はそのグロスを握り潰した。
――連れて行くと約束していた海。
「ケン兄ちゃん、いつか海に連れてって。海水はアトピーの肌にいいって、先生が言ってたの」
その願いは、もう果たすことができない。
その場所で、アヤカは命を絶った。
俺が――
俺がアヤカを死へと導いたんだ。
たった一度メイクをしてあげただけで、彼女を救ったつもりでいた。
“良いことをした”そんな幻想に酔いしれていただけだった。
後になって、看護師から聞かされた話。
俺が病院へ行けなかったあの2週間――
アヤカは、変わろうとしていたという。
今までの自分を変えたくて、勇気を振り絞って。
俺が教えたメイクを、自分でして、学校に登校したらしい。
でも、現実は残酷だった。
その日から、彼女へのいじめはさらに酷くなり――
きっと彼女は、自ら命を絶つことを考えたのだろう。
あの時、もし俺にもっとメイクの技術があったなら。
もっと彼女の心の声に寄り添えていたなら、アヤカは、死を選ばなかったかもしれない。
きっと、今もどこかで生きて、笑っていたかもしれない。
そして……
彼女の死後、アヤカの母親は日に日に精神を崩していった。
会うたびに、泣き叫ぶように俺に訴えてきた。
「どうして中途半端なことしたのよ! あんたが余計なことさえしなければ、アヤカは今も生きてたのよ! アヤカが死んだのは、あんたのせい……あんたが殺したのよ、この人殺し!」
何も言えなかった。
言い返す言葉も、否定する資格もなかった。
だって、間違っていない。
彼女の言葉は、すべて正しい。
俺が――
俺が、アヤカを追い詰めたんだ。
* * *
「……俺がアヤカを殺したんだ」
「そんなことない……」
込み上げる感情を抑えきれず、チカは震える唇を、ぎゅっと噛み締めた。
「君に何がわかる?」
ケンの声は、彼女の言葉をはねつけるように、鋭く突き刺さった。
その声は、今までの彼とはまるで違っていた。
どこか怒りにも似た激情を孕んでいて、チカは思わず言葉を失う。
「俺が中途半端なことをしたから……無責任な希望を口にしたから……アヤカを追い詰めたんだ!」
「違う……そんなことない。ケン君は悪くなんかない……!」
ケンは唐突に、コートのポケットに手を差し入れ、一本のメイクブラシを取り出した。
「このメイクブラシはな、握る人間によって、魔法の杖にもなるし鋭いナイフにもなる。あのとき無知だった俺が握ったそれは、アヤカを傷つけるだけのナイフだった」
「違う……!」
チカは首を振った。
目には大粒の涙があふれ、頬をつたって零れ落ちていく。
「人は笑ってるからって楽しいとは限らない。涙を流してるからって、悲しいとも限らない。俺は、アヤカの心の奥にある本当の想いを見ようとしなかったんだ。他の誰も気づかないようなことに、俺が気づいてあげていたら……あんなことには……」
「でも、ケン君は見ようとした。だからこそメイクをしようと思ったんじゃないですか。だから必死に勉強して、あの子を笑顔にしてあげたんじゃないですか!」
涙声のまま、チカは必死に想いをぶつける。
「最後に電話をかけてきたのも……ありがとうって、心から思ってたからじゃないですか……きっと……!」
その瞬間――
「あんた……ウザいな」
――ケンの、冷たく切り捨てるような言葉。
チカの胸は一瞬で締めつけられた。
ショックを受けなかったわけじゃない。
それでも――
それでも、彼の中に刻まれた傷痕の深さが、どれほど痛々しいものかを思えば、その言葉さえも、憎めなかった。
彼が背を向けて歩き出す。
その背中から滲み出ていたのは、見えない涙――
こらえてもこらえきれなかった、心の奥底から溢れる、沈黙の慟哭。
気づけば、目の前にいたはずの彼の姿が、涙でにじんで見えなくなっていた。
どれだけ涙を流したのか、わからない。
気がついたときには、彼の姿はもうそこになかった。
冷たい冬の空気に凍えるような静けさの中に、彼が残していったもの。
それは――
心の奥深くに、ひときわ鮮烈に刻まれた、哀しすぎる記憶だった。




