ゴーストライター
『小説を書くことは崇高なことである』
あるベストセラー小説に出て来た一文だ。当時高校生だった僕はとても感銘を受けた。30歳を過ぎた今この一文と出会ってもそこまで影響を受けることはなかっただろう。読み流していたかもしれない。だが、思春期ど真ん中な時期の僕の道標となるには十分だった。
たった一文が、それまで小説を書こうすら思わなかった僕を小説家志望へと変えた。
それからはひたすら小説を書いて書いて書きまくった。もちろん、楽しいことばかりではない。アイデアが何も浮かんでこないとき。読んでもらった友人に「つまらない」と言われたとき。しかし、何よりも辛かったのは自分で読んでも面白くないときだった。
それでも書き続けた。そうすることで僕は崇高なことをしている。言いようのない高揚感を感じていた。
大学を卒業するころ、周囲が社会人としての生活に不安と夢を膨らませているときも小説を書き続けた。もちろん就職先は決まっていない。
公募に応募するようにもなった。結果は当然のように一次落ちだ。下読みを恨んだ。編集さんさえ読んでくれれば……。落選のたびにそんなお門違いも甚だしいことばかりを思うようになった。今振り返ると大学生の僕は小説そのものを憎んでいたのかもしれない。
そんなある日。バイトで電源を切っていた携帯電話をオンにすると着信歴があった。とりわけ人とのつながりもない僕に着信。ワン切りさえない僕に、まさかの着信。
驚いた。
思いがけず電話をかけなおした。発信元なんて関係ない。
「フューチャー出版です」
滑舌の良い女性の声がした。フューチャー出版? 片っ端から応募した新人賞のなかのどれかに関係した出版社だろうか。
「お電話いただいたみたいなんですけれど」
「申し訳ありませんがお名前をお願いします」
「あ、はい。矢野です」
「矢野様ですね。少々お待ちください」
このときほど『少々』という言葉を便利に思ったことはない。それほど、その『少々』は長く感じた。
「もしもし。お待たせしました」
相手の電話口は中年と思しき、しがれた声の男性に代わった。
「お電話いただいた矢野です」
「私、フューチャー出版で編集やってます。太田といいます。申し訳ありませんね。本来ならこちらが再度かけ直さなきゃいけないところを」
「いえ。それで、どういったご用件でしょうか?」
僕は平然を装って言った。バイトでのルーチンな会話とは違う。本当の『会話』というだけで緊張は3割り増し。それが出版社からともなれば、いつ自分が爆発しても不思議ではない。
「小説読ませていただきました。大変すばらしかった」
「あ、ありがとうございます!」
「そこで矢野さん」
太田さんは一呼吸置いた。
「小説を書いて欲しいのです」
僕は爆発した。
「ただ……いわゆるゴーストライターとしてですが」
それからの僕は、ある人のゴーストライターをしている。彼は僕が書いた作品を自分の名前で発表する。いや、発表するのだろう。僕が書いた作品はまだ世に出ていない。
それが世の中にいつ出るのか。誰の名前で出るのかはわからない。僕が生きているうちに出版されるだろうか。それさえわからない。何もわからない。
ストック。
僕は未来の誰かのゴーストライターだ。将来、いつの時代か、どこかの著名人が僕の書いた作品を自分が書いたものとして出版する。
喫茶店でノートパソコンを使い原稿を仕上げる日々が続いた。
そんな毎日のなか僕はふと立ち止まり、思い出した。
『小説を書くことは崇高なことである』
得体の知れない笑みが沸いた。そして、泣いた。喫茶店には、ほかにお客さんも店員もいる。でも僕には人目を気にする余裕はなかった。ひとしきり泣いた。
泣いた理由は僕にもわからない。違う。本当はわかっている。でも、わからない振りをした。
『小説を書くことは崇高なことである』
そして落ち着いたのち、店員を呼んだ。
「コーヒーのおかわり、お願いします」
僕は、未来のゴーストライター。