9. こんなことすらできないなんて!
今回のお話は「想像していなかったあかりの現実」について。
同じような悩みを抱えた方にも、少しでも届けばと思っています。
「キリンいいところだし、これから毎日行くの簡単そうです!」
病院の診察であかりは明るかった。担当医師の町田は静かな笑みを浮かべてカタカタとパソコンに何か入力した。あかりより少し年上の男性医師はキリンへ行くことに賛成してくれているらしい。
「八木さんが元気そうでよかった。デイケアを勧めようかと思っていたけど、そっちで大丈夫そうだね」
「はい、雪白さんは大袈裟なんです。私だってあれくらいできるのに」
「自助グループにも行っていると……いやはや、そんな場所があるんだねえ。他の患者さんにも勧めてみようかな」
「お医者さんなのに、知らないのですか?」
「そんなものだよ。医者は医療のプロで、福祉のことは知らないことが多い。まして民間ボランティアである自助グループなら尚更だ。八木さんが自分で調べてくれなかったら僕も知らなかったよ」
心底驚いた。医者にも知らないことがあるのだ。あかりは自分で調べることの大切さを感じた。
町田医師は向き直って少し真剣な表情になった。
「八木さんの問診をしてみたけど、やはり鬱病のようだね。今後は軽い抗鬱薬を飲んでください」
「鬱病……私が?」
雪白にも通院して調べるように勧められた。毎日のように自分を責める気持ちが溢れて、他に何もできないと言ったら医師の意見を仰ぐように言われた。それでも自分が精神疾患だと知ることは衝撃だった。
「自責感情が強いし、よく眠れていないみたいだ。軽い睡眠導入剤を処方するから寝る前に飲んでね。あまりうるさく言うつもりはないけど、可能なら夜に眠って朝起きて欲しい。昼間は言っていた地域活動支援センターに通うといいよ」
自責感情。自分が悪いという気持ちのことらしい。あかりは自分がそうなのかよく分からなかった。あかりが悪いと言うのはただの事実ではないだろうか。大学も中退して、仕事もせず家にいて、まともなことができない。そんな自分は客観的に悪いとしか思えなかった。
雪白も町田医師もそれはうつ症状だと言う。しかし、自分は罰を受けるべきだという気持ちが拭えなかった。いつでも悪いのは自分で自分に自信がなかった。
「両方とも夜に一錠だから忘れずに飲んでくださいね。強い薬じゃないから効くまで二週間くらいかかるだろうから、すぐ効かないと言って飲むのを辞めないでね」
「はい、ちゃんとお薬は飲みます」
それは雪白との約束である。薬を飲んだら何か変わるのだろうか。少し期待してしまう。
「生活指導としてはできるだけちゃんと食べて、夜に眠る。行ける時はそのセンターに行くといいよ」
「はい!」
突然、あかりが目を爛々と輝かせて大声を出したので町田医師は目を丸くした。
あかりは自信がない。いつでも悪いのは自分だと感じている。一方で自信満々な側面もある。
「もちろん、キリンには毎日行きます。だってキリンって何もしなくていいんだもん。今は本があるから時間が潰せるけど、外に出るのに慣れたらアルバイトだって考えないと! 約束だから通うけど簡単すぎます。毎日、朝起きて着替えて外に出るなんて誰でもやってること私にできないわけありませんから!」
特徴的な早口であかりはペラペラと話す。自分を否定する一方で、みんなにできることはすぐできるだろうとあかりは無邪気に信じていた。
「できるなら越したことはないけど……また今度どうなったか教えてくださいね」
町田医師は意味ありげな目であかりを見ると再診の日取りを決めた。
夕方に家に帰るとあかりは部屋に戻る前にリビングの様子を伺った。幸いにして誰もいない。冷蔵庫にそっと手をかける。
(あるかな……あった)
冷蔵庫にはサランラップがかけられた食事の残りがあった。ご飯に、肉じゃがに、ほうれん草のお浸し。それが一人分避けらている。
(お母さん、作ってくれてるんだな)
あんな風に否定したのに不思議な気持ちだ。義務感だろうか。あかりはそれをトレイに乗せて自室に運ぶ。雪白にも町田医師にもお菓子でお腹を膨らませるのはよくないと言われた。そんなことがそんなに重要とは思えないが、多少の栄養は必要だろうと従っていた。
今度こそ自室に戻ってトレイを机の上に置いた。といっても机はぐちゃぐちゃでトレイはギリギリ乗せられる程度に散らかっていた。あかりは机の上の漫画を本棚にしまった。発達障害は片付けられないと本に書いてあったが自分もそうなのだろうか。
「いただきます」
久しぶりにまともな食事をする。食事が冷たくて次から電子レンジを使うことを誓う。お菓子の濃い味付けに慣れたあかりには薄かった。けれど町田医師の診察を受けるために病院まで行ったのでお菓子よりも身に染みた気がした。夜のうちに空の食器を流しに置いておかないとならない。
食後ということで今日処方された薬を両方飲んでしまう。一日一回薬を飲むなんて簡単だと思っていたが毎日となると忘れないか不安になった。
(今日も病院に行きました。地域活動支援センターに行くことになりました……と)
ベッドに寝転んでスマホで桃プリンにメッセージを送信する。今日は病院に行って疲れた。最近は出かけてばかりで引きこもりを返上できる日も近いかもしれない。
大体、毎日外に行くなんて簡単だ。あかりはこんな家早く出て行きたくて外に出たいと願っているのだから。
「早く、また、アジールに、早く行きたいな……雪白さん」
そのままあかりは深い眠りについた。眠ってしまった一時間後、スマホに桃プリンのメッセージが届いてチカチカとスマホが朝まで点滅していた。
息が切れる。足が痛い。完全に想定外だ。
(嘘、ウソ、うそ……た、たったこれだけも歩いただけで疲れるなんて)
自分は体力がない、ということをあかりは全く想像していなかった。
キリンに行くだけの徒歩十分程度の道のりに息が切れる。前のようにスニーカーを履いてくればよかった。外に行くということで多少はマシな格好をと思って新品のカットソーと昔のパンプスを履いてしまった。
電柱に寄りかかる。キリンまでの道のりはまだ半分ほどだ。それなのに立つことも辛いとは自分で自分が信じられない。パンプスのせいで踵が赤くなって痛い。
(前はどうやってキリンまで行ってたんだっけ)
あかりは自分がハイになっていたことに気づいていなかった。元々、体力がないことを母親への反発で無理をしていた。自分だってこれくらいできるというプライドもある。
けれど、精神力が平時に戻れば五分歩くだけで疲れ果ててしまう自分に戻ってしまった。
(私は引きこもってたから体力ない、なんてどこかで信じてなかった)
どこかで自分は昔のままだと信じ込んでいた。そりゃ、二十代ではないけど、まだ三十七歳で老人ではない。あかりはずっと家族と自分だけで過ごしていて同年代の人間と自分を比較する機会がなかった。
だから、どこで自分は引きこもり始めた二十代の時の体力のままだと思い込んでいた。
(誰とも会わないから、ずっとあの頃のままだと思っていたかも……)
自分の現実を見ることが辛い。ずっと部屋でパソコンでゲームをするか、ベッドに寝転んでスマホでゲームをするか。そんな生活をしていたら歩くことすら辛くなるなんて現実からずっと目を逸らしていたかった。
惨めだった。
(……帰っちゃおうかな。行く義務はないって里中さんも言ってたし)
惨めで咄嗟にそう思ってしまう。
(何言ってるの、お母さんなんて大嫌い、あんな家にはいたくない。そう決めたじゃない。せめて昼くらいは離れていたい)
首を横に振って、あかりはキリンへの道をまた進み始めた。
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次回は「意外な再会」を書く予定です。ぜひまたお立ち寄りください。
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