6. 診断なんかするんじゃなかった
今回のお話は「診断の後悔」について。
同じような悩みを抱えた方にも、少しでも届けばと思っています。
十五分後に折りたたみテーブルの周りに四つの折りたたみ椅子が囲まれた空間が出来上がった。ホワイトボードを出してきてそこに「アジール」とあかりは書いた。
「あらあら、助かったわ……大丈夫?」
「だ……大丈夫です」
ぜえはあと荒い息をしつつあかりはどうしてこんなに疲れているのか分からなかった。高校の頃はこれくらい平気だった。あれから二十年は経っているが、この程度で疲れるほど体力が低下しているはずがない。
(まさか引きこもって外にでないから? まさか、その程度で)
これはただ母に言われたことのショックだろうと結論づける。
「大丈夫なので、どうか始めてください」
「あなたしかいないけど……でも、そうね。私は雪白月絵、本名じゃないけどよろしくね」
「本名じゃないんですか?」
「自助グループではよくあることなの。本名を名乗りたくない人もいるし、来ることを隠したい人もいるから、その日に名乗りたい名前を名乗るのよ」
隠したい、という言葉に母を思い出した。やはり障害者は恥なのだろうか。でも、バレる危険を冒しても自助グループというものに参加したい人もいると思うと気になる。
白紙のシールに好きな名前を書いてくれと促される。あかりは迷ったが、思いつかず「アカリ」とそのまま本名を書いた。シールを胸に貼る。
老婦人、雪白は右手で会場を示した。雪白の胸にはシールではなく、紐で首から下げるタイプの名札入れが下がっていて、そこに「アジール主催者 雪白月絵」と書かれたシンプルな名刺が入っている。
「アカリさん、初めてなのよね。私が勢いで開催を始めたから、あなたと私しかいないの。チラシを作ったら気がすんで人に知らせるのを忘れちゃったのよね。せっかくだから二人きりのお茶会にしましょう」
雪白はもう足は痛くないようで、紙コップにペットボトルの午後の紅茶を入れると紙皿にクッキーを出してテーブルから手招きした。その笑顔は能天気で先のことなんか考えても仕方ないかと落ち込んだあかりを安堵させた。
「さっきも言ったけど、ここでは普通でいることを偽らなくていいのよ」
普通でいなくていいなんて初めて言われた。あかりはファンタグレープを紙コップに入れる。雪白の正面に座ると母の言葉は蘇った。
「診断して後悔しました」
場違いだと思っていたが口に出ていた。会場にあかりと雪白しかいないことも臆病なあかりを大胆にしていた。
「発達障害ってなんなんですか? ……診断なんて意味があるんでしょうか?」
「あらら、どうしてそう思ったの?」
「だって……お、お母さんは発達障害なんてただの怠け者だって……障害なんかじゃないくせに言い訳するなって」
口にするとまた涙が出てしまった。慌ててもらったポケットティッシュで目元を拭う。雪白は穏やかなまま、泣いたことに動揺しなかったのであかりはかえってホッとした。
「お母さんにそう言われたの?」
「診断されたことを言ったのに……お母さんは障害者なんて誰にも言うな、恥だって。せ、世間に顔向けができないって!」
ダメだ。涙が止まらない。胸に大きな穴が開いてしまったようだった。
「発達障害なんて怠け者の自己責任だって言われました。はは……そうなのかもしれません。だって私は十七年も引きこもっていつも家族の迷惑でした。いなくなればいい、そう思われていたのは知っていたのに……いざ言われると、く、苦しくて。もう家には帰りたくない。
私、これからどこへ行けばいいんですか?」
ポケットティッシュは無くなってしまった。また袖で涙を拭うしかない。するとすっと雪白は淡いグリーンのハンカチをあかりに差し出した。
「いいです、そんな綺麗なもの」
「いいの、いいの。ハンカチは買いすぎちゃって、持ちすぎてるから」
「わ、私なんかに、いいです!」
「なんか、じゃないわ」
雪白は子供を叱るように言うとハンカチをあかりの頬に当てた。グリーンの布地に涙が吸収されていく。
「家族のカミングアウトに失敗しちゃったのね。でもね、よくあることだし、アカリさんが悪いわけじゃないのよ」
「……カミングアウト?」
さっぱり分からずあかりは雪白の顔を見返した。
「カミングアウトは自分の発達障害を告白することよ。逆に言えば選んだ人以外には隠している人が大半になるわね。家族、友人、職場、カミングアウトを誰にもしない人もいるわ。それほど障害という言葉は重いんでしょうね」
「そ、そんな……家族には言わないといけないんじゃないですか? 家族なのに黙っているなんておかしくないですか?」
「そう? 家族は選べない、だからこそ無理なら無理だと思うけど。残念だけど家族が発達障害を否定することは珍しくないわ。特に子供が成人になるとね。私が昔していた自助グループでもそういう人を何度も見たわ」
「そんな……」
もう一度言えば母は何か違う反応をするのではないだろうか。そんな幻想を砕かれる。だって家族は普通は仲良く暮らしていくものだと教わってきた。
「ダメなんですか? お母さんは何度言っても私を受け入れてくれないんですか?」
「いいえ、時間の経過で変化する親御さんもいるわ。でも、ダメな人は一生ダメね。そこを見極めるのは難しいけれど」
あかりは泣き叫んだ。
どこかでまだ今までの引きこもりを発達障害だからと家族に受け入れてもらう希望を持っていた。でも雪白の言葉で母はきっと一生ダメな方の親だと確信してしまった。
これからどう生きていけばいいのか分からなかった。
「お母さん、お母さん……!」
溢れる涙を袖で拭うことも忘れる。
子供の頃、子供の会であかりが普通に振る舞えず、母がひどく冷たい眼差しで睨んだことを思い出した。帰りに転んで泣いたが母は振り向いただけで助けてはくれなかった。
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次回は「これからどうするか」を書く予定です。ぜひまたお立ち寄りください。
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