57.さようなら、お母さん
今回のお話は「見つからないミサキ」について。
同じような悩みを抱えた方にも、少しでも届けばと思っています。
「……ミサキさん、見つかりませんでした」
三十分ほど会場の周りを探したあかりは帰ってくるとそう言った。会場の人々も心配しており、ミサキが帰ってこなかったことに落胆する。雪白は厳しい表情で椅子に座り、ミドリは俯き、手にした採用通知をじっと見ていた。
「……私が悪いんでしょうか」
「そんなわけないさ」
ブルースがミドリを顔を覗き込む。
「ミドリは自分のやりたいことをやっただけじゃないか」
「でも……私は環境に恵まれてるだけなのかも、自分の実力じゃないのかな」
「誰だって自分の人生は選べない。その中で自分なりに選択していくしかない……そうだね、ミドリは少し恵まれているかもしれない。でもだからってミドリの頑張りを否定する理由にはならないさ」
「ブルースさんはどうして私は恵まれてるだけだって言わないんですか? ブルースさんも親とは絶縁したって言っていたのに?」
「私は親と絶縁してるからこそかもね。私にとって親はもう過去なんだよ。きっとさっきの子にはまだそうじゃないんだろうね」
「さっきの人の親は……ひどい人なんでしょうか?」
「話せればそれも分かったかもしれないけど、もう分からない。私もミサキには何度か話しかけたことはあったけど、いつも一人でいてアカリとだけ話してた」
あかりは隣で二人の話をずっと聞いていた。
「あの……ミドリさん、ごめんなさい。私もずっとあなたが羨ましかった。発達障害を理解しようとするお母さんがいていいなって思ってた。どうしてあの人が私のお母さんじゃなかったんだろってミドリさんのお母さんを見るたび何度も思った」
「アカリさん……私が嫌いですか?」
「ううん、でも全然嫌いになれなかった。話していると楽しくてミドリさんが好きだった。だからかな、余計に辛くて」
「……だから陰でミサキさんと私の悪口を?」
「ええ!? 違うよ、私はミサキさんが福祉を利用できるように……」
「あはは、分かってますよ。アカリさんにそんなことができないって」
そう言って笑ったミドリの顔はいつもの笑顔に戻っていた。
「また、あの人会えるといいな……今度こそちゃんと話せるといいな」
三人はドアを見るがミサキは現れなかった。
「アカリさん、顔色悪いわ、大丈夫?」
「雪白さん」
アジールは閉会に近付いていた。けれどミサキは戻ってこない。あかりは何度もドアを見ては落胆していた。雪白もいつも明るさがなかった。
「あの、雪白さん、いいですか?」
あかりは雪白にミサキのことを話した。
酷い親に働いてお金を渡さなければいけないこと、最近まで精神病院に入院していたこと、入院の時に読んだ雪白の本がずっと心の支えだったこと。一つ一つをゆっくり話した。
「ミサキさんはずっと雪白さんに憧れていたんです。ミサキさんはずっと雪白さんと話をしたかったんだと思います。でも何度誘っても自分なんかいいって……」
「……そうだったのね。本って因果なものね。本には理想を書いてしまうから、私はただの人間なのにもっと違うものに見えてしまったのかしら」
雪白はぼんやりとドアを見えていた。あかりはグッと拳を握った。
「私も悪かったんだと思います。生半可な知識でこうした方がいいって言って……かえってミサキさんは嫌だったのに。福祉なんて利用したくないって内心思ってた」
「いいえ、違うわ、アカリさん。助けようとしたこと自体を否定しないで」
「でも……」
「アカリさんはミサキさんの話を聞いて、力になりたいって思ったんでしょ? それで自分の体験を元になんとか助けようとした。それこそが自助グループ、アジールがやりたかったことよ」
「でも私……中途半端で、あれでよかったのか今でも分かりません」
「今回はうまくいかなかったかもしれない。でも今の気持ちを否定しないで。それは絶対に価値のあることだから」
ミサキは閉会後も姿を現さなかった。
それから冬が終わり、春が来て、あかりの変化がやってきた。
大量の段ボールが三つの引越し業者に運ばれて、空っぽの家が残った。あかりは空になった自室を見てずっとここで生きてきた人生を想う。
(私の部屋、さようなら)
今日、八木家は引っ越す。三つバラバラの世帯になる。
父は母と共に2LDKの賃貸へ、美希は灘区の中古マンションをリノベーションして買う。
あかりはなんとか灘区の安い賃貸アパートを借りることができた。ここ数ヶ月、身の丈にあった賃貸物件を探すことに必死だった。
(さてこれ、どうしよう?)
あかりは空になった部屋に残った黒いカバンを見た。その中には母の診断書が入っていた。いっそこのまま新居にまで持っていくべきだろうか?
空になった家にはもう父と美希はいない。先に外に出ている。家に残っているのは母とあかりだけだ。
わずかに躊躇い、あかりはカバンからグレーのクリアファイルを取り出した。中には母の診断書が静かに収まっている。
家を探すと母は空になった自室で正座して、じっと窓の光を見ていた。母からしても四十年暮らした家は感慨深いのだろうか。
「お母さん、もうすぐ時間だよ」
「……あかり?」
ゆっくりと母は振り返った。窓の光が影になっているが母が一気に老けたように見える。母は十秒沈黙すると口を開いた。
「……ずっとおばあちゃんにあかりのことで責められていた。あかりはどうして引きこもっているのか、いつになったら働くのか。あかりも美希もいつ結婚するのか。やっぱりお前はまともじゃないのかって……私はなんとかしようとしたけど、あかりは部屋から出てこなかった。
何をしてもダメで、私はあかりは家事手伝いだからいいんだって思い込むようになった。そうして私は「普通の母親」の立場を守った」
あかりは数歩、母に近寄った。
「五年前、突然あんたが発達障害だって言い出してゾッとした。昔のことを責められているようだった。私の血に違いない。またおばあちゃんになんて言われるだろうって思って、あんたを否定した。否定したことを間違っていたと思ったことはない。だって普通じゃないとこの世界では生きられない。普通のフリをしないと居場所がない」
母は遠い過去を見て今を生きていないように見えた。普通じゃないとうちの子じゃないと言われた冷たい冬の日から一歩も動いていないのかもしれない。だからこそ母には何を言っても届かないのだろう。
「居場所がない? そんなことないよ、発達障害にも障害者にも居場所がある。お母さんが「家族」の中から出てこようとしていないだけだよ」
「なにを言ってるの? 普通じゃない人間にはどこにも居場所なんてない。どこに行っても同じよ」
「違う! それがいけないんだよ、お母さん……お母さんより年上の人でも発達障害として堂々と生きてる人を私は知ってる!」
「そんな人いるわけない……生きていくにはこうするしかない」
「おばあちゃんはもう死んだんだよ、お母さん」
ビクッと母は身を震わせた。母はきっと祖母の愛をずっと求めていたのだ。あかりが母に愛されたかったように、幼子が母を求めるように子供のままだった。普通にならないと愛されないと思って生きてきたのだ。
あかりは母の診断書をすっと差し出した。
「これ、返すよ」
「……どうして?」
母はクリアファイルの中身を見て、驚いた。じっとあかりを見上げた母の顔には深い皺が刻まれていた。母が老いた事が実感として広がっていく。こんなに弱々しくて小さな人だったのだ。
「今日はお別れの日だから……返す。一つ、聞いていい? 発達障害をそんなに恐れていたのに診断書を捨てなかったのはおばあちゃんにいつか認めて欲しかったから?」
「……あんたに話す必要はない」
「お母さん、今からでも他の発達障害の人に会ってみない? 普通にならなくても生きていける人を見れば……」
あかりが手を伸ばすと母は振り払った。
「七十年近く生きてきた。今更、生き方を変えられない……私とあんたは違うの。ずっとこうして生きていく。そんな事を言うなら、もうあかりには……会いたくない」
それが母の限界なのだと悟る。母にはきっとずっと居場所がなかったのだ。住む家はあっても普通の仮面を被らなければならないと心に安住の地がなかった。
「そっか……そうだね。お母さんはいつも言い出すと聞かないもんね」
あかりは微笑んでドアへ向かう。最後に母に振り返った。母は何かぶつぶつと小声で言っっていた。
「普通じゃないと生きていけるはずがない……」
「さようなら、お母さん。いつもご飯ありがとう、おいしかったよ」
あかりはそのままカバンを持って、二度と帰らない家の玄関を出た。母は声をかけることも追いかけることもしなかった。
マンションから見える桜がもう少しで咲きそうだった。
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次回は「あかりの船出」を書く予定です。ぜひまたお立ち寄りください。
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