56.ミサキの嵐
今回のお話は「ミサキの爆発」について。
同じような悩みを抱えた方にも、少しでも届けばと思っています。
夏の暑さが去り、空の雲が秋らしくなってきた。あかりはやっと仕事にも慣れてきた頃、新しい挑戦を始めた。
「ゲンさん、お久しぶりです」
「おお、そうだ。今回はあんたも参加するんだったな」
「ええ、例のことも含めてよろしくお願いします」
「本気なんだな。あんた、顔に似合わずやるねえ」
あかりは大阪の大きな公共施設に来ていた。朝の十時に間に合うように早起きした。「ゲンさん」ことゲンタは会議室二という場所で受付をしていた。
今日は「自助グループ研修」という自助グループのリーダーやスタッフの勉強会だ。元々は雪白が始めたもので今はゲンタが引き継いでいる。心理学と自助グループを運営していくノウハウなどを学ぶ場所だ。
あかりは迷ったが最終的に申し込んでいた。
会場は長テーブルに椅子が三つ設置され、それが四列並んでいた。すでに五人ほど席に着いている。あかりが前の方の席に座ると隣から声をかけられた。
「こんにちは」
「こんにちは……あれ、結の主催者さんですか?」
隣にいる女性はあかりより若くクールそうな雰囲気の背の高い女性だった。痩せ型と言っていいほど細く、黒いシャツにベージュのズボンを履いている。
あかりが一度だけ行った結という西宮市の自助グループの主催者だ。今日も名札が受付で配られて、彼女の首には名札下げが下がっている。リンダとニックネームがボールペンで書かれていた。
「ああ、そういえば一度来てくれましたっけ? 改めまして、私はリンダです。今日は研修よろしくお願いします」
「こちらこそよろしくお願いします。私は自助グループ研修は初めてで正直とても緊張しています」
「私はもう五回目なのでそういう気持ちはなくなっちゃましたね。大丈夫、座学も興味深いし、グループワークは楽しいから」
リンダはほのかに笑うとじっとあかりを見た。
「確か、あなたはアジールのスタッフさんでしたっけ? だからこの研修に参加するんですか」
「えーと、一応そうです、はい」
「でも雪白さんに聞きましたがアジールって来年でなくなるんでしょう? それなのにどうして参加するんですか?」
「ええと……」
あかりが黙っているとリンダは謝罪した。
「ごめんなさい。ASDの悪いところが出ました。ストレートに聞きすぎましたね」
「いえいえ、そのう……」
「勉強熱心なんですよね。もしよければアジールが閉まったらうちの会のスタッフ、やってみませんか? 研修を受けた方なら歓迎です。もしもこれからも自助グループに関わりたければですが」
「……」
あかりは一度前を見て、そこに自助グループ研修をホワイトボードに書いてあることを確認して、リンダに向き直った。リンダはまた謝った。
「すみません、なんでも思ったことを口にしすぎですよね。まだアジールはあるのに……」
「あの、リンダさん」
「はい?」
「実はずっと考えていることがあって。ゲンさんにも話したんですが……頼みたいことがあるんです。いいですか?」
二日間の自助グループ研修が終わり、あかりはまた仕事に邁進した。仕事が始まって半年経つと「順調そうだし、一日に八時間働くか考えてみませんか?」と社員に尋ねられた。考えさせて欲しいというと社員は待ってくれた。
(そうすれば給料は十二万円以上になる。万一、年金が打ち切りになってもギリギリ暮らせるかも。町田先生は障害者雇用なら打ち切りはないって言ってたけど不安はある。でも、就業時間を増やすことで帰って無理をして辞めたら本末転倒だし)
ベッドの上でゴロゴロと悩んでいると美希に声をかけられた。
「お姉ちゃん、そろそろ行くよ」
「うわ、もうそんな時間? ごめん、今から着替える」
今日は祖母の一周忌だ。あかりはまたスーツを着るのかと少し憂鬱だ。それでも今は働いている自信がついたからか親戚たちの視線も怖くない。
家族で電車で大阪に向かう。ふとあかりはこうして家族全員で出かけるのはこれが最後かもなと思った。
父の言葉を思い出す。もうあかりは四十を超えた大人で、親と一緒にいない方が自然だ。
それでもあかりはずっと四人で暮らしてきたので来年はバラバラに暮らしていると思うと不思議な気がした。
「秋江おばさん、お久しぶりです」
「ああ、あかりちゃん、なんだか綺麗になったんじゃない?」
「そうですか?」
あかりは体重計に乗り続けていた。今は七十二キロ。働き出してから少し痩せた。オールインワンジェルでスキンケアも始めた。それが外見に反映されたのかと内心小躍りする。
(九十キロからここまで長い道のりだった)
感慨に耽っていると一周忌が始まった。あかりに儀式のことなど分からないが僧侶がやってきて何かを読み上げている。よく分からないのでとりあえず数珠を手にかけて手を合わせている。
「……お母さん……」
小さな声が前から聞こえてきた。それは母の声だった。母は祖母に認められたかったと叔母の話から察している。あかりにとってはよく知らない祖母だが母には人生の目的が失われたようなものだろうか。
(診断書、ずっと持っていたのはもしかしておばあちゃんにいつか認めさせたかったから?)
一周忌が終わるまでずっとそんなことを考えていた。
秋が終わり、枯れ葉が散って、冬の気配がやってくる。そんな冬のアジールであかりはいつものように受付に座っていた。
「……ふう」
「ミドリ、またアジールが終わること考えてるの?」
「だって……いや、なんでもないです」
ブルースとミドリは最近よく話している。なんだかんだ面倒見のいいブルースにミドリも懐いているように見える。
「いや、今日は違うんですよ。雪白さんに報告したいことがありまして」
「へえ、よかったら後で私にも教えてよ」
(やっぱり最近は二人とも仲良いなあ)
少し寂しい気もするあかりはそれでも二人を微笑ましく眺めていた。
「アカリさん、いい?」
するとミサキがやってきた。自己紹介が終わったのでもう自由に談笑する時間だ。最近はミサキに話しかけられることがあかりのお馴染みになっていた。
ミサキはすっとあかりが前に渡した相談支援のパンフレットを鞄から取り出した。
「ここ、一応電話してみた。一度、来て話してみないかって……」
「電話してくれたんですね! いいじゃないですか、キリンとツバサならきっとミサキさんの家庭のこと分かってくれますよ」
「手帳も……医者が診断書書いてくれるって」
「よかった!」
あかりは昔のことを思い出した。あかりだって昔は障害者手帳のことも相談支援のこともさっぱり分からなかった。自分で体験していくことで覚えたのだ。その体験が誰かの役に立つことは嬉しい。
(やっぱり自助グループっていいな)
こうして自分の体験を誰かに役立てるかもしれない。それは嬉しいことだった。自助グループ研修で習ったことを思い出す。ヘルパーセラピー原則。それは誰かを助けることが自分を助けることにもつながるという法則のことだった。
ミサキはポツポツと話した。
「親は……相変わらずなんだ。ギャンブルと買い物ばかりで私のことなんて見てくれない。私も……少しおかしいのかもしれない。いつか親が振り向いてくれるんじゃないかって期待をどこかで捨てられない。だから福祉を頼ることに抵抗がある。ああ……どうして私の親はああなんだろう」
ミサキは視線を鋭くしてブルースと談笑しているミドリをみた。
「どうしてこんなに違うんだろう。どんな親の元に生まれるかなんて選べないのに、ずっとそのことに苦しむ人といつまでも親に守られて当然の人に分かれているんだろう?」
「ミサキさん」
「どうして……? 同じ人間なのに、同じ発達障害なのに、どうしてこんなに違うの?」
「雪白さん!」
ミドリが声を上げる。雪白は参加者との会話を終えて、受付に戻ってきた。ミサキが硬直する。
ミサキの様子などミドリは知る由もなく、雪白に駆け寄っていく。
「あらあら、ミドリさん、どうしたの?」
「雪白さん、私……ついに就労移行から就職しました! ⚪︎⚪︎社に障害者雇用で、ばっちり希望通り事務職です!」
⚪︎⚪︎社は世間知らずのあかりでも知っている大手企業だ。ミドリは懐から採用通知を取り出すと雪白に示す。雪白は採用の文字が書かれた書類を見ると笑顔になる。あかりの目の前でミサキの表情が消えていく。
「流石ね、ミドリさん。発達障害は特性があるから希望の職種につく方がいいわ」
「就労移行に行ってから自己分析を重ねた甲斐がありました! えへへ、結構資格も取ったりして……こうして雪白さんに報告できて嬉しいです!」
「本当によかった……あら?」
「……どうして、あんたばっかり」
ミドリと雪白の間に誰かの腕が入る。ミサキの右腕だった。歪んだ表情でミドリを睨みつける。
「どうしてあんたばっかり恵まれてるの? 私はずっと親に搾取されて、あんたは親になんでもしてもらって……どうして?」
「え、ええと、どなたでしたけっけ?」
ミドリは一歩退き、目を丸くしていた。ミサキが避けているのでミドリはミサキの顔をろくに見た事がない。けれど激昂したミサキは気付かない。
「親に守られながら就職までして、雪白さんに笑いかけてもらって……どうしてこんなに違うの!?」
「み、ミサキさん、落ち着いて!」
あかりがミサキとミドリの間に入った。ミサキの方を向いて必死に言葉を探す。
「ミサキさん、私、気持ち分かるよ。でもミドリさんに当たってもどうしようもない……」
「私とあんたは同じなんかじゃない! だってあんただって恵まれてるじゃないか!」
今度はミサキの視線はあかりを憎むように捉えた。
「私だって引きこもりたかった! 鬱で辛くても、親は働くことしか許してくれなかった! 金が稼げないなら追い出すって……十七年引きこもって親に守られてたあんたに私の気持ちが分かるはずない!」
「ミサキさん……!」
あかりは言葉が出てこなかった。ミサキの怒りはミドリを超えてあかりに向かっていた。
「ずっと嫌だった! こうすれば助かるだの、ああすればいいだの! 私はあんたと違う、やったってどうせダメなの! あんたなんてただ恵まれてるだけじゃないか!」
「ストップ」
すっとあかりとミサキの間に雪白が入ってくる。静かな眼差しで初めてミサキは雪白を真っ直ぐ見た。雪白はただ静かに言葉を紡いだ。
「ここは自助グループ・アジールよ。みんなの避難所なの。誰もがそれぞれ痛みを抱えている。辛さを比べて自分の痛みを誰かにぶつけることはルール違反よ」
「ゆ、雪白さん……」
ミサキは真っ青になって雪白の視線の先に立っていた。
「誰かが自分より恵まれて見えることもある。実際にそうかもしれない。でもね……誰かを傷つけていい理由にはならないの」
「雪白さん、雪白さんなんて……どうせいなくなってしまうくせに!」
雪白の目が見開かれる。ミサキの目端には涙が滲んでいた。
「アジール、もうすぐなくなっちゃうじゃないですか! あなただって私の前からいなくなってしまうくせに! あなただって私を助けてくれない! 自助グループなんてそんなもの、同じ立場の人と話したからって本当に辛い人は助けれないじゃないですか! アジールなんて、アジールなんて!」
ミサキは耐えられず、バッグを掴むと出口へ走り出した。あかりはその背を追う。
「ミサキさん、待って!」
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次回は「変化する世界」を書く予定です。ぜひまたお立ち寄りください。
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