55.永遠なんてない、けれど
今回のお話は「小百合のお別れ」について。
同じような悩みを抱えた方にも、少しでも届けばと思っています。
あかりは水曜日は仕事がない。
週四日の勤務で疲れ切っている身としてはベッドで寝転んでいたいが、実はスマートフォンをいじってしまうのでかえって疲れてしまう。以前のように図書館に出かけて雑誌をいくつか読むとウィンドウショッピングをしながら家に帰る。
あかりの住むマンションの入り口には見知った人物が立っていた。
「……小百合?」
「あかり!」
スラリとしたシルエットは小百合だった。彼女は泣き出しそうな顔をしていて、あかりを見つけると駆け寄ってきた。
「ごめん、突然。あんなこと言って別れたのにどうしてもLINEじゃ話せないって思って」
「いいって。どうしたの?」
「さ、里中さんが、里中さんが……!」
そこで小百合は涙をこぼして言葉が出なくなってしまった。あかりはカバンからハンカチを取り出すと小百合の頬に当てた。しかし次から次へと涙が溢れてくる。
「ゆっくりでいいから」
「里中さんが……」
「里中さんがどうかしたの?」
「……キリンを辞めるって」
「……え?」
あかりは視界が暗くなった。世界は夏で日差しが強いのによく見えない。
小百合の言葉に、あかりは連れ立ってキリンへ向かった。
「おや、八木さん、お久しぶりですね」
いつものキリンだった。里中は変わらずスタッフルームでノートパソコンを操作していた。河村も隣でコピーをしている。河村は気がかりそうな顔をしていた。
あかりの隣では小百合がずっと泣いている。
「里中さん……辞めるって本当ですか?」
「桃田さんに聞いたのですね。突然に利用者さんの皆さんを驚かせてすみません」
少し寂しそうに里中は鼻先をかいた。小百合は縋るように里中に近づいた。
「里中さん、嘘ですよね? ずっとギターを教えてくれるって言ったじゃないですか」
「すみません、桃田さん。私はキリンのスタッフです。けれどスタッフではなくなることもあるのです。何事も永遠ではないのです。でもキリンはこれからも桃田さんの居場所です」
「私、私はずっとキリンにいたくて……でも、里中さんがいないキリンなんて……!」
小百合はばっとドアへ走って行った。ずっとその頬には涙が流れている。小百合には里中がずっと支えだったのだ。
「小百合!」
咄嗟にあかりは追いかけようとして留まる。里中に聞きたいことがあった。
「里中さん、お話、いいですか?」
相談室ではなくキリンのメインルームであかりは里中と向き合っていた。以前のように里中はほうじ茶を淹れてくれた。ガラスの器にほうじ茶を入れ、氷を入れてアイスにしてくれる。
あかりは里中の顔をじっと見て、引き出し屋の時に里中が強く支えてくれたことを思い出した。
「里中さん……やめてしまうんですか? しかもこんなに突然に」
「すみません、もっと早く言えていたらいいのですが、こちらにも事情がありまして」
スタッフにも事情がある。あかりはハッとした。どこかでキリンは永遠に変わらずに存在すると思っていた。けれどアジールの雪白がそうであるように居場所を作る人たちにもそれぞれ事情があるのだ。
(支えてくれる人はみんなただの人間なんだ、でもどこかでそれを忘れていた)
里中は半分禿げた頭を軽くかくとほうじ茶を飲む。
「私は去年に六十五歳でキリンを定年退職しました。それから再雇用されて、もうしばらく皆さんと一緒にいようと考えていたんですが……ここだけの話、妻が調子を崩しまして、妻を支えるために少しだけ早くキリンとお別れすることにしたのです」
あかりは四年前を思い出した。
あの時、あかりは外に出る体力もなく、キリンに辿り着いてはソファで寝ていた。
そんな自分を里中と河村はいつも「休んでいいんですよ」と受け入れてくれた。あの声があったからあかりはキリンに行き続けることができた。
「私……寂しいです。キリンに里中さんがいなくなったら」
「河村さんも頼りになりますよ。それに本部から私の代わりのスタッフがきます」
「そんなの同じには思えません。私にとって里中さんは里中さん一人きりですから」
あかりは目端に涙が滲んでいた。雪白といい、里中といい、どうしてあかりの居場所の人たちは一斉にいなくなってしまうのだろう。
「お別れは人生につきものです。先ほど桃田さんにも言いましたが誰も永遠にはいてくれない。私にとってもキリンが大切な場所なことは変わりません」
「それでも、理解もしています……どうしようもないんですね」
人そのものが居場所なのだ。安心できる人がいてそこに居場所ができる。
あかりにとってキリンは信頼できるスタッフそのものだった。次のスタッフがきてもそれは里中ではないのだ。
居場所は永遠ではない。
「惜しんでくれるんですね。ありがとうございます。お別れはあっても出会いがなかったことになるわけではありません」
「小百合は……どうすればいいんでしょう? 私は分かるんです。小百合はキリンで里中さんにギターを習うことが支えだった。支えを失ったらどうすればいいんですか?」
「また見つかります。私はキリンに勤めて何年だと思いますか? 二十年になります。その間にたくさんの利用者さんやスタッフ達とお別れしてきました。別れで支えを失った人もたくさん見てきました。けれど、人は不思議な強さを持っていて、必ず次の道を見つけます。それぞれ時間は違いますが必ず道は見つかるのです」
里中のその言葉は不思議な強さを持っていて、あかりは受け入れることができた。自分にも道は見つかるだろうか。
帰宅したその晩、あかりのスマートフォンに小百合から連絡があった。
《お別れ会をしよう》
《来月、里中さんのお別れ会をするからあかりもきて。土曜日にするから来れると思う》
《突然、置いて行ってごめんね》
小百合は最後にごめんと書かれたスタンプを送った。あかりは小百合が次の道を見つけられるのか夜の闇の中で考えた。
翌月にキリンでは里中のお別れ会が開催された。もちろん主催は小百合だ。
キリンはいつになく混雑しており、あかりは座る席を確保するだけで大変だった。多くの両者が集まっているのは小百合だけでなく多くの利用者が里中を惜しんでいるからだろう。土曜日にしてくれたおかげであかりも無事参加できた。
「里中さん、今までありがとう!」
「こんな会を開いてくれてありがとうございます」
小百合が一歩前に出て一輪の花の花束を手渡した。
「里中さん、ありがとう」
「さようなら、里中さん」
里中には寄せ書きや花束が渡された。多くの利用者が里中に別れを告げたり、さよならを告げていた。小百合のように泣く男性もいた。里中は二十年キリンに勤めたのだ。その年月で多くの人に出会い、あかりのように多くの人が支えられてきたのだろう。
「里中さん、今までありがとうございます」
「八木さん、お元気で。きっとあなたなら大丈夫です」
あかりも列に並び、里中と握手をして別れを告げる。覚悟していたお陰か涙は出なかった。小百合が心配だった。
小百合を見るとギターとマイクを持ってメインルームの前に一人で立っていた。
「それでは音楽プログラムを始めます!」
「待ってました! 小百合!」
あかりは応援の声を上げた。それから小百合はギターで有名な曲のコピーを三曲歌った。どの曲もギターの音は安定しており、小百合の高い歌唱力とギターの腕前が発揮された。
(小百合?)
ギャンとギターから音程の外れた音が響く。
最後の曲の最後でギターは歪な音を立てた。その音の大きさに利用者は顔を見合わせた。小百合はギターを止めて、じっと里中を見た。
「里中さん、どうしても行ってしまうんですか……?」
小百合の頬を涙が何筋も溢れる。里中はいつもの里中らしく穏やかな笑みを返した。
「すみません、桃田さん。私は次の道に行かねばならないのです」
「……そう、です、よね。もうどうしようもないんですね。どうしても、お別れ、なんですよね」
小百合の声は涙でくぐもってマイクからメインルームに大きく響いた。その声に里中に別れを言いにきた者達もまた涙を滲ませた。
「分かっていました。今日でお別れだって……心の整理をしたつもりだったのに、最後で失敗してしまいました」
「いいえ、桃田さんの演奏は見事でしたよ。私も教えた甲斐がありました」
パチパチと里中が拍手する。あかりも小百合の演奏に拍手した。すると会場の全員が拍手した。
「里中さん……今まで、本当にありがとうございました!」
拍手の中、小百合は里中に頭を下げた。里中も小百合に近づき、手を差し出した。二人は握手をして別れを告げる。
(小百合)
人は居場所なのだとあかりは感じた。キリンという場所だけではダメで小百合には里中こそが居場所だったのだ。この会場に集まった人たちは里中という居場所が失われるからこうして別れを告げにきたのだ。
(私もいつか、誰かの居場所になれるかな)
拍手の音は鳴り止まなかった。
「あかり、あの時はごめんね」
里中のお別れ会の帰り道、あかりと小百合は自然と同じ道歩いていた。小百合が声を描けたのであかりは振り返る。
「あの時は本当にごめん。あかりに置いていかれると思っていたんだ。……どうしてなんだろうと思ってた。私はキリンで里中さんにギターを習って、あかりとお喋りする。
そんな日々がずっと続いて欲しいのにあかりはどんどん変わっていった。自助グループのスタッフになって、作業所に行って、就活して……キリンには来なくなった」
「小百合、私もごめん。あの頃は就活の愚痴を小百合に言いすぎた」
小百合の姿は夕闇に溶けてまだらにオレンジになっていた。
「あはは。正直、私は就活のこと話して欲しくなかった。
あかりが頑張るたび私は頑張れないのかって焦ってた。正直、親も私には困ってるし、将来のことは不安だよ。でもどうしても動けなかった。仕事のことを思うとまたあんなに傷つかないといけないのかって嫌になった。キリンで里中さんにギターを習ってるとなんでずっとこのままじゃないのって思ってた。
でも……里中さんもいなくなっちゃった」
「小百合、里中さんは」
「分かってる。里中さんは私を心配してくれてる。
私は勘違いしてたんだ。キリンと里中さんはずっと永遠にあそこにあるんだって。私は望みさえすればずっとあそこでギターを習っていられるんだって……でも、違うんだね、永遠じゃなかったんだね。里中さんも、あかりも永遠に一緒ってわけにはいかないんだね」
「私は小百合とずっと友達でいたいよ」
小百合はじっとあかりを見つめるとありがとうと夕闇の空を見た。
(永遠じゃない、里中さんも、雪白さんも)
あかりと小百合は並んで歩く。ならば自分には何ができるか考えながら帰っていった。
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次回は「ミサキの爆発」を書く予定です。ぜひまたお立ち寄りください。
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