51.母が「普通」になった日
今回のお話は「母が「普通」になった日」について。
同じような悩みを抱えた方にも、少しでも届けばと思っています。
そんな弓子に転機が訪れる。
中学校に上がった時、担任の教師が弓子を気に掛けた。優しい女性の先生で弓子はそれを純粋に喜んだ。担任の教師は成績が悪く、必死に勉強しているのに成績が伸びない、女子グループから浮いている弓子に疑問を抱いた。彼女の兄は精神科の医師で多少知識もあった。
……「小川さんのせいじゃないよ」……
担任の教師は家庭訪問をして弓子には発達障害がある可能性があると話した。それなのに普通の学級に通わせるのは可哀想だと言った。弓子を病院で診断してくださいと頭を下げた。
両親は鼻で笑った。発達障害など聞いたこともない。弓子はただの怠け者だと言いつつ、権威に弱く、教師の顔を立てて弓子を大きな病院で診断させた。
すると弓子は発達障害と診断された。当時はアスペルガーとも言われていたが、とにかく先天的な障害があるということが分かった。
当初、弓子は嬉しかった。全て自分の努力不足と思っていたことは発達障害のせいだったのだ。自分のせいじゃなかった。これで両親も自分の不出来を許してくれるに違いない。
弓子の心とは裏腹に発達障害の診断のことで家庭は荒れた。
……「お前のせいだ! おかしいと思っていたんだ、うちにはこんな子はいなかった。お前の家の血が障害者なんか産んだんだ!」……
……「あなた、違うんです! あんなの間違いです、弓子は普通の子です!」……
弓子は想像していた。これからは自分のせいではないと許してもらえる。父は無理かもしれないが、大好きな母はきっとこれから自分の不出来を許してくれる。
弓子の心と裏腹に両親の喧嘩は増え、大好きな母の眼差しは日々、厳しいものに変わっていった。
ある冬の日のことだった。夕暮れで沈み、雪がちらついていた。
……「お母さん、お母さん……お願い、うちに入れて!」……
弓子は発達障害のことを口にしたことで母から平手打ちをされ、強引に腕を掴まれると一階の廊下から庭に放り出された。激怒した母の表情と冬の冷たさが手足に染みてくると弓子は必死で窓を叩いて、入れてくれと懇願した。
弓子は中学三年生になっていた。両親にずっと発達障害のことを訴えていたが、常に「あの診断は医師の間違いだ」と否定され続けていた。それでもと医師に無理を言ってもらった診断書のコピーを弓子は大切に持っていた。
徐々に弓子も両親はすぐには受け入れないと発達障害のことを口にしなくなっていった。弓子は診断書を引き出しの一番奥にしまいながらもどうすればいいか分からなくなっていた。それでも母には分かって欲しかった。
……「もうそのことは口にしないように。うちに障害者がいるなんて恥よ。ご近所さんになんて言われるか」……
そう母に言われて弓子は諦めつつあった。それでも成績が悪いことや周囲に馴染めないことは変わらず責められて、追い詰められていた。
しかし、その冬の日に久しぶりに母と二人きりになった弓子はついまた発達障害のことを口にしてしまった。
結果、母は激怒して制服のままの弓子を冬の庭に放り出した。近所の人は弓子の声に多少奇異な目で見たが「あの家庭ではいつものこと」と日頃の折檻のことを思い出し、すぐ視線を逸らした。
……「お母さん、寒いよ。私がどうなってもいいの?」……
弓子の声を母は無視した。母が自分を愛していないはずがないと声をかけ続けた。その間、秋江が帰り、父も帰ってきたが弓子は家に入れてもらえなかった。
……「寒い、寒いよ。もう許して、許してよ!」……
秋江は母に妹をもう許してと懇願したがはねつけられた。父も事情を知ると弓子に厳しい目を向けた。
夜九時が近くなると弓子はやっと家に入れてもらえた。凍えた弓子はストーブを探したが両親は冷たい床に彼女を正座させた。やっと凍えないで済むと思ったが本当に凍りつくのはそれからだった。
……「この恥知らず! もうこの家から出ていけ!」……
……「そうよ、障害者なんてこの家にはいらない! 私の娘じゃない、出ていけ!」……
……「……お父さん、お母さん? でも先生が私はアスペルガーだって……」……
弓子が反論すると今度は父の手が飛んだ。それから弓子は夜中まで両親から怒鳴られた。襖の向こうから見ていた秋江は恐怖で泣いていた。
なぜそんなにできが悪いのか。お前の怠け癖のせいに決まっている。それなのに何が発達障害だ。医者や教師に何が分かる。障害者が家にいるなんて世間からなんて言われるか。なぜちゃんと努力しない。お前がどんなに家族に迷惑かなぜ分からない……。
……「ごめんなさい、ごめんなさい」……
弓子は土下座して許しを乞うた。このままでは本当に家を追い出されるという恐怖があった。
母はまた父に責められた。お前の家系の血のせいではないかと。母は焦ったようにより弓子を責めて、また強引に腕を掴んで玄関へ連れていった。
……「約束しなさい。もうあの診断のことは忘れるって。二度と口にしないって。さもなくば……今すぐここから出て行きなさい」……
……「お母さん……?」……
……「障害者はうちの子じゃない、いやなら出て行きなさい!」……
弓子は二度と発達障害のことを口に出さないと誓った。
それから弓子は変わった。
必死で普通を装うようになった。正直、そうしても彼女はどこか周囲からチグハグに見えたが必死さでなんとかカバーした。成績も死に物狂いでなんとか普通の水準まであげることができた。
……「まともにならないとあの家にいられない」……
一度、秋江にそんなことをこぼしていた。当然、二度と発達障害のことは口にしなかった。両親は「ほら、ただの怠け病だったんだ。教育してやってよかった」と普通を装うようになった弓子を多少認めた。
けれど秋江には弓子が歪んだようにしか見えなかった。少し変わっていて女の子なのに虫や理科が好きだった彼女はそれを全てやめてしまった。楽しそうに虫の話をしていた妹が不憫に思えた。
彼女は普通の女の子が好きなものを「勉強」して普通の女の子として振る舞うようになった。弓子はもう二度と本心では生きないのではないか。秋江は一度、両親に見つからないように聞いたことがある。本当にそれでいいのかと。
……「私が普通ににならないとお母さんが可哀想。今まで家族に迷惑をかけてきた分、頑張らないといけないの……そうしないと私は生きられない」……
それからも弓子は両親、特に母に気に入られるように必死で普通を演じ続けた。
気付けばあかりと叔母のコーヒーはすっかり冷めていた。せっかく頼んだケーキも手付かずのまま乾いていた。
「きっと時代もあったわ。昔は障害者への偏見も強くて、座敷に隠してしまうような家もあった。それに障害といえば身体障害で発達障害なんて誰も知らなかった。だからうちの両親が特別というわけでは、なかったのかも……」
「……」
「それからも弓子は普通を演じて生きていた。進学先も就職先も望むものより、普通であることを選んだ。姉の私から見るとそれはとても歪なものに見えた。幼い頃に出していたあの子の個性は全て推し殺され、失われたように見えた。
そして、あかりちゃんのおばあちゃんが望むように弓子は「普通の母」になることを望むようになった。それから慎介さんと見合いしてあなたと美希ちゃんを産んだ。それもきっと「普通」になるためなのね」
「……そんなことがあったんですか」
叔母はあかりに頭を下げた。慌ててやめてくれと頼むが叔母は頭を上げなかった。
「あかりちゃん、どうか弓子を許してやって。きっとあの子には無理なの。あんなに両親に否定された弓子にはあかりちゃんの発達障害を認めることができないの」
「……はい」
あかりは笑顔を叔母に向け、カバンの中にある母の診断書のことを思った。
「でも意外ね……弓子がまだ診断書を持っていたなんて。とうに捨ててしまったのだと思っていた」
「そうですね、私も不思議です」
「あの子の中にはまだ……診断を認めてもらいたかった頃の自分がいるのかもね」
その日はそれ以上、話すことはなく、叔母とは言葉少なく別れた。
そんなわけであかりは「普通普通」と言われて育ったわけです
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