39.永遠はないって、分かっているけど
今回のお話は「いつか来る終わり」について。
同じような悩みを抱えた方にも、少しでも届けばと思っています。
「障害年金を申請しようと思うんです」
アジールの自己紹介の後、あかりはいつものように雪白に相談していた。ここ三年はずっとこうだから今後は四年目となる。雪白はいつものように向かい合って「あらあら」とあかりの話を聞いていた。
いや、今日はいつもと様子が違うような?
「ブルースさんとも話したんですが社会保険労務士を使って障害年金の申請をしようと思うんです。診断書を含めてお金はかかりますが、最初の数万円以外は成功報酬だからやる価値があるって。だからチャレンジしてみようと思います。
そして今後は朝から作業所にいこうと思います。働くことも考えないと。そうして少しずつ変わっていけば、私もあの家から出られるように……雪白さん?」
「……あら?」
珍しく雪白はぼうっとして見えた。本人も驚いたようで目をぱちぱちと瞬かせている。
「ごめんなさい、少しぼうっとして……ええ、障害年金、可能性は充分あると思うわ」
「は、はい、簡単なことではないと分かっています。それに精神の年金だと二年で打ち切られてしまうこともあるって知ってます。それでもA型作業所や障害者雇用なら打ち切られることも少ないって。だから……」
「……」
「雪白、さん? ……もしかして調子悪いですか?」
「……いつまで」
「え?」
「いつまで、私、こうしてアカリさんの話を聞いていられるのかしら?」
あかりは驚いた。雪白は心細そうに見えた。こんなことは初めてだった。
「す、すみません! あの、また私が話すぎてしまったでしょうか?」
「いいえ、違うの……ごめんね、アカリさん、少し私の相談を聞いてもらっていい?」
雪白が相談する。そんなことを言われたことも初めてだった。
「わ、私がですか? もちろんです。でも私なんかに……」
「……実は私、年齢のことで悩んでいるの」
「年齢、ですか?」
「ええ、この前に七十五歳になったわ。ついに後期高齢者になったんだなあって……本当におばあちゃんになったんだなってなんだか実感してしまったの」
七十五歳。確かに後期高齢者だ。あかりは四十歳だから三十五歳は雪白が年上になる。
「私ね、歳をとってから自信ができたんだと思う。若い頃は発達障害で普通ではないことを責められて、でも発達障害が分かってからはそこまで自分を責めなくなった。
活動をしていくうちに仲間もできて、たとえマイノリティでも楽しく生きられるんだって思った。もちろん理解しない人もたくさんいたけど仲間がいれば怖くなかった。だからこの年までずっと進み続けることができた。
七十歳になって引退宣言をしたけど、なんだか何もしないのが退屈になっちゃってね。二年引退生活をして私ならまだやれるって思って杖をついたままアジールを始めたの」
あかりは雪白に初めて出会った時を思い出した。雪白は杖をついて手作りのチラシを配っていた。それを受け取らなかったらあかりの人生はどうなっていただろう。
「アカリさんは最初からアジールに来てくれた。だから私の知識と経験の限り、でもやり過ぎないように助言したわ。アカリさんはいつも私の話を真面目に聞いて、実行してくれた。アカリさんは前より元気になったわ。私にはそれで充分……そう思っていたのだけど、最近は思うの。
私はいつまでアジールができるんだろうって」
雪白はいつもの揺るぎなさがなく、年相応の頼りなさが漂っていた。それがあかりを不安にさせた。
「な、七十五歳なんて今時まだ若いですよ。アジールには雪白さんが必要なんです。雪白さんがいないと……」
「私は二年後、喜寿になる。本当にそれまでアジールができるかしら……」
「私が負担ですか?」
「違う、違うのよ、アカリさん。私はあなたが好きだし、頼りにされて嬉しくも思う。ちょっと奇妙かもしれないけど娘か孫がいたらこんな感じかしらと思ったりするわ」
「すみません、すみません、私、最近相談しすぎでしたか? 前、ブルースさんに言われたのに、また私……」
「違うのよ、アカリさん」
あかりは驚いた。雪白の白くて細い指があかりの右手に触れている。ひんやりと冷たかった。老いた老女の手だ。
「私はいつまでもアジールをやっていたいわ。でももしもできなくなったらアカリさんがどうなってしまうのかと思って」
あかりは父の言葉を思い出した。父は六十七歳だ。雪白はそれよりもさらに高齢なのだ。
「いつまでも元気でいたいけど、八十歳も見えてきた。ころっと死んでアジールがなくなる日が来るかもしれない。そうなったらアカリさんはどうする?」
「雪白さんが死ぬなんて……そんなの考えたくないです」
雪白は柔らかく笑った。
「……実は健康診断に引っかかってね。私の歳なら珍しくないけど再検査することになった。これまでアカリさんの相談を聞くことで私なりに力になったつもり。でもそれがなくなった時にあなたがどうなるか、私は考えが浅かったかもしれない」
「私、雪白さんに頼りすぎ、でしょうか?」
「そうじゃないわ。ただ、アジールがなくなった時、どうなるんだろうかと思うとアカリさんの顔が浮かぶの」
「す、すみません……心配させすぎですよね。今日はもういいです」
あかりが立ちあがろうとすると雪白は細い腕で遮った。
「違うのよ。信頼できる誰かに相談する。それ自体はやめないで」
「ごめんなさい、私、難しくて……考えることが苦手で雪白さんに頼ってきた。自分で考えることに自信がなくて、アジールが支えだった。どれくらい頼ればいいか、分からないんです……雪白さん?」
あかりは雪白に抱きしめられているのかと思った。だが、雪白は両手であかりの両腕を握っただけだった。
「迷惑なんかじゃないわ。相談自体をやめてほしいわけじゃないの。そうね……最初の話に戻りましょう。作業所に行く時間を増やすなら、今月は休み方について、工夫をしてほしいの」
「休み方……?」
「ええ、働くなら休むことをしないと続かないのよ……大丈夫よ、年寄りだけどまだ動けないわけじゃないから」
検索して「喜寿」という言葉の意味を調べると七十七歳という意味だった。
(雪白さんってお年寄りだったんだな……)
あかりに実感はなかった。雪白はいつも活気があって、自信があり、なんでもできそうだった。外見から老人だとは知っていたが、病や死と結びつけて考えたことはなかった。
(雪白さんがいなくなったら、アジールがなくなったら、私本当にやっていけるかな。これから就職や一人暮らしをしないといけないのに相談できる場所がないなんて)
じっとアジールの隅でぼんやりしていると話しかけられた。
「アカリさん、お話いいですか?」
「へ? ああ……どうぞ」
ミドリだった。隣にブルースもいる。ブルースは心配そうな顔をしていた。
気がつくと三人で椅子を並べて輪になっていた。ミドリはよく明るく笑った。それがあかりには少し眩しい。
「だから、就労移行でメイクの基礎を習ったんです。と言っても大学生の頃からしていたんで知っているからおさらいって感じだったんですけど。でも私は割と肌に合う化粧品がないんですよ! これも感覚過敏なんですかね?」
「ああ、発達障害の女子って結構そういう悩み持ってる人いるよね。ノーメイク派の人も珍しくない」
と、ブルースが言うとミドリは強く何度も頷いた。
「そうなんです! でも就活の時は流石にしなきゃまずい時もあるじゃないですか。だからしないって言い張るわけにもいかなくて……そこでSっていう化粧品メーカーを見つけたんです! そこの下地を使えば大丈夫だったんですよ!」
「メイクですか……」
あかりはその単語をポツリとこぼした。メイクとは化粧のことだ、とは流石に分かっている。しかし、あかりは人生でほぼ化粧をしたことがなかった。大学は行くのが精一杯で、メイクをする余裕なんてなかった。
しかし、ミドリの言葉も気にかかる。就職活動にはメイクがつきものなのか。ならばあかりも全くできないというのもマズいのではないか。
「最近はノーメイクの職場も増えてるけど、してこいってとこもまだあるもんね。まして面接だと……アカリ、何?」
「ぶ、ブルースさん、メイクには詳しいですか?」
ミドリには話しかけることが躊躇われてブルースに話しかける。
「詳しいってほどじゃないけど、まあ人並みに。私はそんなにメイクでストレスでないタイプだったから……何、アカリ、メイクしたいの?」
「私もミドリさんと同じで就活しなきゃだから、すぐじゃないけど今のうちに勉強したほうがいいのかなって」
「あれ、アカリさんも就活するんですか?」
「う、うん、就活はいつかしなきゃって……でも、私、恥ずかしいけど人生でメイクってしたことないから、お、教えて欲しくて」
考えたブルースはスマートフォンであかりに何かを送った。数秒でLINEの通知が光る。
「美容系YouTuberの動画送ったよ。何から買えばいいか分からないって初心者向けのやつ。商品も紹介してるから、何も分からなくても基本的なものは揃うと思う」
「動画で分かるかな。でも、ありがとう」
「お金で悩んだら、キャンメイクかセザンヌあたりがいいよ」
あかりは首を傾げた。確かにお金はないが、化粧品ってそんなに高いだろうか。
動画の概要欄を見ると商品の名前も載っている。これなら帰りにドラッグストアで買えるかもしれない。
「就活ってそういうとこ面倒くさいよね。最近は男子もしてるけど、女子は化粧必須でさ」
「分かります、避けられるなら避けたいのがメイクと就活ですよね」
うんうんと頷くミドリに思わずあかりは微笑んでしまった。そう、ミドリ自身は話していて楽しい人なのだ。
「あ、お母さんからLINEだ」
スマホを見てミドリは席を立つ。あかりは廊下に向かうその背をじっと見た。
前回がそうだったようにまたミドリの母は車で娘を迎えに来るのだろう。あかりの母は迎えに来ることなどないし、発達障害で集まっている自助グループに来ているなどと知ったら行くのをやめるように言うだろう。
(どうしてこんなに違うんだろう……)
「アカリ、大丈夫?」
ブルースに顔を覗き込まれてハッとする。あかりは大丈夫と笑った。ミドリ自身はいい子なのだ。母親に発達障害を受け入れられているということを気にしている方が悪い。
この気持ちは隠しておかないといけない。
アジールの帰りにドラッグストアに寄ったあかりは撃沈していた。
(け、化粧品ってあんなに高いんだ。信じられない。あんなに小さいのに五千円もするなんて!)
ブルースの心配を理解したあかりだった。正直、安いイメージのドラッグストアにあんなに高いものが売っていること自体信じられなかった。
結局、ブルースに勧められたキャンメイクとセザンヌというブランドの化粧品売り場に行った。確かにその二つは他と違って千円以下の商品があった。
しかしキャンメイクの商品はあまりに可愛らしすぎて四十歳になったあかりには気が引けた。挽回するようにセザンヌの淡いピンク色の口紅を一つだけ買って帰った。これなら就活に使えるだろうか。
「私って世間知らずなのかなあ」
家に帰ってベッドに寝転ぶ。アジールのスタッフはもう二年やっているから、そこまで疲れないがメイク用品の値段が衝撃的だった。
(私、大丈夫かな。ミドリさんに変な態度じゃなかった?)
きっと彼女に嫉妬しているのだ。自覚はある。だからこの醜い気持ちは隠しておかないといけない。
包装紙を開けて口紅をじっと見る。そういえば化粧品の消費期限はどれくらいだろう。
いつものようにスマホを取り出して桃プリンに報告をする。するといつもない通知があることに気付いた。
「雪白さん?」
雪白からのLINEの通知だった。あかりは慌てて起き上がる。雪白とLINEで繋がっているが、アジールスタッフのグループチャットだけで個人的な連絡などきたことがない。
慌てて開くとこう書いてあった。
雪白《こんばんは、アカリさん》
雪白《来週の日曜日に一緒に出かけたいんだけど、どうかしら? 連れて行きたいところがあるの》
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次回は「サードプレイス」を書く予定です。ぜひまたお立ち寄りください。
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