35.凍った心が溶ける
今回のお話は「安心の大切さ」について。
同じような悩みを抱えた方にも、少しでも届けばと思っています。
翌日のアジールで、あかりは受付を早々に締めて雪白と向かい合わせで椅子に座っていた。今回は来ていたブルースも横にてチラチラとあかりに視線を送る。
「……ということだったんです」
洗いざらい全て話した。父の言葉、三ヶ月後の引き出し屋、ポラリスに行けなくなったこと、自分が全部悪いこと、働かなければいけないのに履歴書が書けないこと、里中の言葉。
それを一つ一つ、不器用にゆっくりと話すことができた。正直、父に追い出すと言われてから言葉がうまく出なくなっていたので、話すこと自体ができてホッとした。
「生活保護、受ければいいじゃない」
口を開いたのはブルースだった。どうやら彼女は怒っているらしい。
「せっかくあかりがここまで来たのに、三ヶ月で急に結果出せなんて無茶だよ。お父さんにも言い分あるのかもしれないけど、それなら生活保護を受ければいいよ。家は離れることになるけど、追い出されるなら役所も納得してくれる!」
「ブルースさん、私は……でも、私のせいなのにそんな資格」
「アカリ、私はね……私も」
「落ち着いてブルースさん」
雪白はあくまで冷静で穏やかだった。前に身を乗り出したブルースに細い手を掲げる。
「アカリさんも落ち着いて。その話は一週間前のことなのよね。なら、まだ三ヶ月ある。その間にいくらでも作戦を立てられるわ」
「それは私が働くってことですか? それとも……生活保護を?」
「生活保護は恥じゃないわ。行き場がなくなったのなら遠慮なく使えばいい。けれどまだ時間があるわ。最終手段として考えておけばいい」
「でも……現実感がなくて」
「引き出し屋は社会問題になっているわ。悪質な業者も多い。引き出し屋を訴えた元引きこもりの人もいて勝訴している。引き出し屋を呼んだ親を訴えた人もいるわ。それでもアカリさんのお父さんのことを考えるとまだまだ利用しようとする人はいるのね」
「……私はどうすれば?」
「アカリさんは何があっても死んだりしなくていいってことよ。まず、安心して。そうしないと何もできないわ。恐怖では解決しないの」
雪白はいつもあかりが飲んでいるオレンジジュースを差し出した。それを飲むと身体の奥が温かくなった。
「……私は死ななくてもいいんでしょうか? だって二十年も家族を苦しめたのに」
匿名掲示板の言葉を思い出す。多くの声に責められた。死ねという言葉もたくさんあった。父の言葉も相まって「そうだ、最後は死ねばいいんだ」とかえってその暗い道に縋るようになっていった。
「むしろ逆よ。死ぬことはルール違反よ。それが私の信念だと思ってちょうだい。それに、死ねばいいと思うことは逆にもう何もできなくなる。そうじゃなかった?」
「……そうなんです。どうしても履歴書を書く手が震えて、これじゃ追い出されて死ぬしかないと思うと不思議と昔に戻るんです。寝ることしかできなくなった、どうしてなんでしょう?」
「安心して初めて人は動けるからよ」
雪白はキッパリとそう言った。安心。あかりはアジールに来てからのことを思い出した。アジールではいつも安心していた。アジールに来てからキリンやポラリスに繋がることができた。
「安心って……そんなに大切なものなんでしょうか?」
「大切よ。マズローの欲求五段階説って聞いたことあるかしら? 土台にまず生理欲求がある。飢えない、眠りたい。その次に来るのが安全欲求。安心して暮らせるようになりたいって気持ちよ。これが今アカリさんからなくなってる。働きたいっていう気持ちはその次の社会的欲求からくるものよ。だから順番が逆なの」
「す、すみません、難しくて」
「あらら、ごめんなさい。つい昔の癖で……つまり、働きたいなら安心してからじゃないといけないって話」
「逆なんじゃないでしょうか……飢えるから人は仕方なく働くんじゃ?」
「そんな人は日本にはそんなにいないんじゃないかしら。安心して食べられて住む家があって、そこで初めて就職活動をしようって人の方がほとんどだと思うわ」
すぐには納得できなかった。父も母も昔はドアの向こうでただ働けと行っていた。匿名掲示板でもそうだ。けど実感として分かる部分もある。
あかりはアジールで雪白と繋がることで安心を得て、キリンという居場所に繋がることができた。ブルースと友人になり、友人がしている作業所に興味を持つことができた。だからポラリスにも繋がった。
安心と繋がりは繋がっていた。
(それは私が安心していたから? ……そうかもしれない。怖いと思っている時は外にどうしても出られなかった。
雪白さんにあって、怖くない人もいると分かってから少しずつ誰かと繋がることができた……そうか、私はずっと世界が怖かったんだ。いつも普通になれなくて、人から弾かれて、安心できなかった。部屋の中にいても外が怖くて安心できなかった)
あかりは雪白とブルースの顔を見た。二人の表情には心配はあれど悪意など見つからない。そういう人たちだと知っていた。だからあかりは安心できている。
「アカリさん、十年以上の引きこもりの社会復帰には、諸説あるけど八年かかるという人もいる。もしくは三〜五年程度という人もいる。アカリさんは発達障害の診断を受けて、アジールに来て、まだ三年。平均的な年数ならまだ早いわ」
「で、でも、お父さんが出て行けって……私もあのままポラリスに慣れて、普通に就職活動をするつもりだった。でも、それには時間が足りなくて」
「さっきも言ったけれど、追い出されるなら生活保護という最終手段もあるわ。生活保護を受けたらアカリさんはこのままポラリスに通って、今言ったことをすればいい。本当に親から見捨てられた人と関わったこともあるわ。その人は生活保護を受けた、そして何年もして最後は就労して抜け出した」
「……生活保護か。あはは、私って変ですね。自分で稼いでないのにそういうものとは無縁だと思っていた。なんて呑気なんだろう」
雪白が必死で話していることが伝わってきて安堵したのだろうか。徐々に生活保護を受けるかもしれない未来を選択肢として受け入れつつあった。ずっと引き出し屋という言葉で思考が凍っていた。安心して住めるねぐらを奪われると思うとただ恐怖のみが脳裏を支配して自責だけをしていた。
想像した。生活保護を受けて一人暮らしを始めて、このままポラリスに何年か通う。そこで自信がついたら就労して生活保護を抜ける。なんて甘い夢。叶ったら夢みたい。そんなことが自分に許されるのだろうか。
「雪白さん……自分を責めてはいけないんでしょうか? 例え自分が悪くても?」
父も、母も、妹もあかりのせいで苦しんでいる。そんな自分に不幸以外が許されるのだろうか。
「あなたの場合は自分を責めすぎね。何事も限度があるわ。自責も他責も程よいものなら役に立つ。でも死んでもいいと投げやりになるくらい自分を責めるならやりすぎよ。今のアカリさんは自分をこれ以上責めても、苦しくなって動けなくなるだけだわ」
「雪白さんは厳しいなあ……自分を責めるだけの私になることを許してくれないんですね」
実際、自分を責め続ける日々はベッドから動けなくなるだけのものだった。
「私はアカリさんに安心して、幸せに暮らしてほしいわ。そう願って、助言しているだけ。あとは長年の経験から……それにアカリさん、本当はもっと言いたいことがあるんじゃないの?」
「言いたいこと……?」
その言葉でズキリと胸が痛んだ。頭がぐらぐらする。
「お父さんに、家族に、罪悪感で言えなかったことがあるんじゃない?」
「……私は」
過去を思い出す。母のいう普通にどうしても馴染めず、父は部屋に篭って何も言わず、妹は優秀でいつも母に比較された。
「……私だって、辛かった!」
どうしていつまでも外に出られないのか、分からなかった。必死に高校まで通ったあとは力尽きてしまった。このままではいけないのは分かっているのに部屋から出られない。
苦しかった。けれど迷惑な存在だから苦しむ権利がないと思い、その気持ちを封じてきた。
「どうして、出て行けなんて言うの、お父さん……! 私、私、これからだったのに! あと少しだと思っていたのに! あとちょっと、だったのに……!」
あかりは膝を上で拳を握って、その上に涙をこぼした。悪い自分には思う資格もないと思っていた言葉だった。
「どうして外に出られないのか、私にも分かんないよ、美希! 苦しめてるのは分かるけど私も苦しいんだよ……でも私が悪いから、思う資格もないと……思って。どうしてこんなことになったんだろう……安心してなかったから? そんなこと知らなかった……逆だと思ってた」
ボロボロと涙が次から溢れた。涙は不思議なもので溢れるほど身体の内側が安心していった。身体の中で凍っていた悲しみ、恐怖、自分への失望が解けて本来の自分に戻っていくようだった。
「大丈夫よ」
「だ、大丈夫だって!」
雪白がオレンジのハンカチを、オロオロしたブルースがブルーのタオルハンカチを差し出してくる。なぜ里中の前で泣いたのか分かった。苦しみが大きいと涙を受け止めてくれる人がいて初めて泣けるのだ。
(ああ、大丈夫と思っていいんだ、私)
あかりは二つのハンカチを受け取ると両方で涙を拭った。
「私、こんなでも、生きていっていいんでしょうか?」
「もちろんよ」
にこりと雪白が微笑む。ブルースは立ち上がって背中をさすってくれる。泣くととても疲れてそれでいて安心する。
「じゃあ私、これから……どうしたら?」
「それについてだけど、アカリさん、作戦をいくつか立てましょう。まずお父さんのことを少し教えてくれない?」
雪白は真面目な表情になり、ノートとペンを取り出した。
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次回は「父の対決」を書く予定です。ぜひまたお立ち寄りください。
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