32.父は引き出し屋を呼ぶと言った
今回のお話は「あかりの父」について。
同じような悩みを抱えた方にも、少しでも届けばと思っています。
あかりはあまり父の記憶はない。父は食事を終えるといつも自室に篭り、ほとんど話したことがない。だからあかりが父を見た事自体、十年以上昔の話だ。
今、父は妹の隣に座ってテーブルに肘をついてじっとあかりを見ていた。
「なんだ、座れ。お前の四十歳の誕生会なんだろう?」
「……う、うん」
不穏なものを感じ取って座ることを躊躇ってしまう。美希に視線を送ると彼女も困惑しているようだった。
父はじっとあかりを見上げると不思議そうな顔をした。
「まさか……お前が外に出ているとはな、どうして言わなかった?」
ようやくあかりが席に着くとそんなことを言われた。
「お母さんが知ってるから……お父さんも知っていると思ってた」
「チッ、弓子か。あいつはいつも余計なことをする。あかり、お前だって自分で俺に言えばよかっただろう。お前をずっと養っているのは誰だと思っていたんだ?」
「……ごめん」
あかりは父の厳しい表情に下を向いてしまった。美希の顔も見えなくなる。
「ご注文はどうされますか?」
ハッと見上げるとウェイトレスが注文を待っていた。緊張がわずかに緩和されて、三人はオーダーをした。
といっても今日の注文は美希が頼んだケーキセット二つと事前に決まっていて、予定外の父だけがホットコーヒーを一つだけ頼んだ。
あかりも無言だったが、美希も口を開かず何度も父の方を見ていた。
「あかり、お前、働こうとしているのか?」
個室からウェイトレスが去ると父は口を開いた。同時に鞄から数枚の封筒を出した。中身を出すとポラリスの名前が印字された用紙が出てきた。
「これが俺宛に送られてきた。最初はなんだと思ったが、この会社に電話してみると就労継続支援事業所だと名乗った。お前の名前を出すとそこに通っていると言った。本当か?」
父の声音は高圧的で発言を躊躇ってしまう。いつも父はこうだ。家族の気持ちを考えないであかりも妹も母も萎縮してしまう。
「……そ、そうなんだよ。三年前から家を出ようと思って、色々始めたんだ」
「三年前? 家を出ようと思うならすぐ働けばいいだろう。それがなんで三年もかかってるんだ?」
「病院で鬱病の診断が出たんだ。それで、お、お医者さんがすぐには無理だって」
「鬱病? ただの甘え病だろ」
父は馬鹿にしたような笑いを漏らした。そういう人だと知っているから発達障害の診断のことは黙った。
美希が立ち上がり、父にきっと顔を向けた。
「お父さん! 話が違うじゃない、今日はお姉ちゃんの誕生日を祝ってくれるって言ったから連れてきたのに! そんなことを言うなら帰ってよ!」
「美希は黙ってろ。俺は何もしないあかりを二十年も養ってきたんだ」
二十年。そうだ、あかりは二十歳の時に引きこもったから四十歳の誕生日ならもうそんな長い年月あかりはただ父に養われていたのだ。
父の言うことが正しくて自分は全て間違っている。その思考があかりの思考を凍らせていった。
(そうだ、私が悪いんだ……だって家族を苦しめた)
「仕方ないだろう。こうでもしないとあかりは部屋に篭っていて俺と話すことはない。ずっと家族の声に耳を傾けず、引きこもっていたのはあかりじゃないか、自業自得だ。お前は俺が何歳か覚えているのか?」
「お父さんの歳? ええと、五十歳くらいだっけ……?」
また父はあかりを鼻で笑う。今度は父が悪いとは言えない。本当に父が何歳か分からないのだ。父の白髪が増えた頭にもっと年をとったことを考えた。
「お姉ちゃんは変わったよ、今も働いてるじゃない」
「働いてる?」
あかりは凍ってしまった喉をなんとか動かして声を出した。美希のプレゼントの紙袋が目に入る。今日は楽しい誕生日パーティーだったのに、どうしてこんなことになってしまったのだろう。
「厳密には働いてるとは言えないかもしれない。でも、働く訓練は受けてるつもりだよ。週四日通えるようになった。少ないけどお金も六〜七千円はもらえるようになった。私は昔とは違う……」
「六千円?」
ハッとまた父は鼻で笑った。あかりは工賃を貰ったの誇らしい気持ちが粉々に砕けた音が聞こえた。
「これを見ろ、お前のやっていることの無意味さが分かる。ぐだぐだ言ってまともに働こうとしないからだ」
父が見せたのは請求書だった。就労継続支援事業所ポラリスの月の利用料金と書いてある。数ヶ月分あり毎月の請求金額は一万円を超えていた。
(今の工賃の額じゃ足りない。全然足りない……そうだ、確か契約の時にそんなことを言われた気がする。家族の年収によっては利用料がかかるって。たくさん書類を書くのに精一杯で忘れていた……)
視界が暗くなっていく。あかりが稼いだささやかな金額は、福祉の利用料にも届かないのだ。
「……お、お父さん、ごめんなさい。もう毎月の小遣いは貰わない。私は――」
泣いているのかと頬に触れたが涙は流れていなかった。すると美希が立ち上がった。
「もう出ていって! お父さんなんか出ていけ! せっかくお姉ちゃんが外に出てくれたのにこれじゃ台無しじゃない!」
「台無し? うちの家族を台無しにしたのはあかりだろう。少し働いたフリをしたくらいで美希に同情を買って、四十にもなって恥ずかしくないのか?」
「またお姉ちゃんが引きこもったらお父さんのせいだ!」
(ごめん、美希……それが怖いんだね。お父さんだけじゃなくて妹も苦しめてきたんだ)
怒った美希が父の腕を取ってドアの方へ連れていく。父は誕生パーティーに参加する気は最初からないのだろう。大人しく腕を引っ張る美希にドアまで連れて行かれる。
「美希、どうしてお前はそこまであかりに味方する? 足手纏いの姉がいて、うんざりしてたんじゃないのか?」
「私はお父さんとは違う! 私はただ、お姉ちゃんに元気になって欲しいだけ!」
「お前たちはそんなに仲が良かったのか。興味がないから知らなかった……最後に一つ言っておく」
父はドアの前に立つとあかりを振り返った。
「あかり、お前が働こうとしていること自体は俺も望んでいることだ。二十年遅かったがな。金がかかる就労訓練にどんな意味があるかは分からんが……良かったじゃないか、これからどうせ家を出るんだから」
「……家を、出る?」
「あかりが四十歳になったら、もうダメだと判断して業者を呼ぶつもりだった。引き出し屋は知っているか?」
「引き出し屋……?」
あかりの頬から血の気が引いていった。
引き出し家は引きこもりを強引に部屋から連れ出し、施設に入れる業者だ。インターネットのニュースを見て震えたことがある。
「本当は今月、引き出し屋を呼んで、お前を追い出すつもりだった。俺が何歳か忘れているだろう。今年で六十七になる。もう一度退職して再雇用された。そんな還暦もとうに超えた親の脛をいつまでもかじれると思うな」
父の年齢をあかりは完全に忘れていた。だがあかりは四十歳の誕生日を迎えたのだ。父だってその年月の分、年をとったに決まっている。
(お父さん、六十過ぎてたんだ。あと三年で七十歳。それなのに私はずっと家にいられるって思ってた)
「だが美希に聞くとお前は働く気があるらしいじゃないか。だからあと三ヶ月待ってやる。三ヶ月以内に仕事を見つけて、家から出ていけ。さもなくば予定通り引き出し屋を呼んで追い出す。いつまでもあの家にいられると思うなよ」
去っていく父の背中にあかりの脳裏には自分が全て悪いという言葉だけが溢れていた。
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次回は「焦りばかりつのる」を書く予定です。ぜひまたお立ち寄りください。
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