29.引きこもりの家族の気持ち
今回のお話は「美希の気持ち」について。
同じような悩みを抱えた方にも、少しでも届けばと思っています。
受給者証が手に入ったあかりはさっそくポラリスに週三で通い始めた。不安だったので三回とも午後からの通所にしてもらった。それでも慣れない作業でぐったりと疲れ、終わると直帰してベッドで泥のように過ごした。
「雪白さん〜」
「アカリさん、作業所スタートおめでとう」
作業所を始めてから二週間後のアジールで相変わらず雪白頼みのあかりだった。それでも多少は成長して、話を切り上げることを意識している。雪白も慣れたもので「焦ったらダメよ、いきなり増やしたりせず、まず慣れるところから」と的確なアドバイスをくれる。
「ブルースさん〜」
「アカリ、近い近い」
あかりは頼る先が増えていた。開始時間きっかりに来たブルースに近づく。ブルースはスタッフは辞めたが、二ヶ月に一度はアジールに通っていた。
(なんだか話す人が増えて嬉しいな、やっぱり私変わったのかな)
あかりとブルースが立ち話をしていると声をかけられた。
「あの……私も参加していいですか?」
そこにいたのは中高生ほどの少女だった。髪が短くて、白いカットソーと黒いパンツを履いている。大きな瞳がオドオドとして受付の表札を彷徨っている。
あかりとブルースは顔を見合わせた。高校生か下手すると中学生だ。若すぎる参加者はどうすればいいんだっけ?
「えっと……少々お待ちくださいね」
「アカリ、雪白さん呼んでくるよ。ちょっと待っててね」
少女はこくりと頷くとブルースの帰りを待った。不安そうで大丈夫だよと言ってやりたくなる。好奇心であかりはつい訊いてしまった。
「学生さんだよね? い、いくつ?」
「十七歳です。高校二年生なんです。去年診断されてから……どうしたらいいのか分からなくて」
少女は俯き、さらに不安そうになる。そこでブルースに連れられた雪白がやってくる。
「高校生なのね。ごめんなさいね、うちの会は十八歳未満は参加できないの」
「……十七歳はダメなんですか?」
「うちの会のルールでね、ごめんなさい」
雪白の言葉に少女はかなり落胆した。それでももう一度顔を上げると口を開いた。
「あの、三ヶ月後に誕生日で十八歳になるんです。その時なら来てもいいですか? それとも高校生ならダメですか?」
「そうね……あなたなら大丈夫だと思うわ。三ヶ月後でもよかったら来てちょうだい」
「はい!」
少女は目に光を灯し、アジールを背に去っていった。
「あの、雪白さん、若すぎるとダメなんでしょうか?」
「中高生は不安定で責任を持ちきれない部分があるから。でもあの子はしっかりしてそうだから三ヶ月後に来たら受け入れようと思うわ」
去っていく背中をあかりは消えるまで見つめた。
十七歳。あかりが引きこもっていた時間と同じだ。あの少女があの年齢になるまでの時間、あかりは社会から隔絶されていた。いや、拒絶していたのだ。美希のことだって拒絶してきた。
(美希、ずっと私をどう思っていたんだろう。前の話だと心配してくれていたんだよね?)
自己紹介が終わると一度受付を閉め、雪白に美希のことを話す。
「そんなことがあったのね。話を聞いている限り妹さんはアカリさんを心配していると思うけれど」
「そうなんですけど……妹がどうしてそうしてくれるのか、分からなくて。この前のお茶だって本当に奢ってもらった。本当に何が狙いか分からなくて」
雪白は少し考えて、あかりに向き直った。
「妹さんはただ嬉しいんじゃないかしら?」
「ただ、嬉しい?」
「私は昔カウンセラーのようなことをやっていたんだけど、引きこもりの家族の多くはそのことで悩んでいるわ。どうしてこうなったんだろう、この先どうすればいいんだろうって……私が出会った時、アカリさんはすぐに引きこもるのやめたけれど、それまで十七年引きこもっていたのでしょう? 十七年の間、妹さんはずっと悩んでいたんじゃないかしら。だからアカリさんが部屋から出てきてくれた。ただそれだけでとても嬉しいと思うわ」
「私が出てきただけで、嬉しい……?」
美希がどんな気持ちで引きこもったまま出てこない姉を見ていたか、初めて想像した。そして今までそれを想像しなかったことに愕然とした。部屋から出られないあかりはただ自分だけが不幸なのだと思っていたが、美希も悩んでいたのだ。
「明日、また妹と会う予定なんです。そのことを聞いてみます」
「そうなのね、私個人としてアカリさんが家族から理解されるならそれだけで嬉しいわ」
翌日、また例の三宮のカフェに美希と一緒にきた。今度もあかりはバナナスムージーを頼み、美希は落胆して同じようにイチゴスムージーを頼んだ。
「お姉ちゃんが部屋から出てきて嬉しいって……そりゃそうだよ! 嬉しいに決まってるじゃん!」
「そ、そうだよね」
「当然じゃん!」
「……ごめん」
基本的すぎて今まで見落としていた。そう、引きこもりの家族は引きこもりが部屋から出てきたら嬉しいのだ。
あかりは後悔した。自立はしていないが部屋から出るだけなら二年前から少しずつチャレンジしている。美希にすぐそれを教えれば二年は悩ませずに済んだのに、嫌われていると思い込んで何も言わなかった。
慌ててそのことを話しつつ謝罪するとイチゴスムージーをかき回しながら美希は姉の顔を肘をついて眺めた。
「そっか、二年前から……確かに教えて欲しかったな」
「ごめん、お母さんから美希は私を軽蔑してるって聞いてたから。お母さんの勘違いだったんだね」
「お母さんが……?」
美希は一度右に視線をやってあかりの目に戻した。
「お母さんってやっぱり変だよ」
「お母さんが……変?」
「だって私はお母さんにそんなこといったことないし……昔から思ってた。お母さんは普通じゃないよ」
「お母さんが……普通じゃない?」
まさかそんなことを言われると思わなかった。あかりの中で母は誰よりも普通にこだわる人だった。実際、必死に普通であろうとして、普通になれないあかりを責めた。その母が普通じゃない?
美希は一気にイチゴスムージーを啜ってしまうと一気に話し始めた。
「小さい頃から違和感はあった。お母さんは普通じゃない。なんだかいつも周囲に合わせてるようでかえって浮いてる。普通にしろというけど普通じゃない。なんか普通のフリをしていつも余計なことしてる」
あかりは驚いた。母はいつも優秀な美希を褒めていた。これこそが普通だと。だから美希も母を好きなのだと思い込んでいたが、今の美希は母に苦い顔をしている。
「そ、そうかな? お母さんは普通にしなさいって言ってるからすごく普通の人なんだと思ってたんだけど」
「普通の人ってさ。普通になるのが当たり前だからそんなに普通にこだわらないよ。私も大学生くらいから分かってきたけど……お母さんはなんか変だよ。普通じゃないからあんなに普通普通ってこだわるんだと思う。まあ、うちはお父さんも独特だから、もうしょうがないって思ってたけど」
あかりは久しぶりに父のことを思い出していた。父はいつも残業して帰ってきて、酒は飲まず、タバコを吸っていつも自室に閉じこもっていた。自分の世界が強く、それを邪魔されるのを何より嫌った。母は相談したい時も父には相談できず、子供の頃のあかりはそんな母を気の毒に思っていた。
「とにかく、お母さんは何か変だよ! だからこれから私がお姉ちゃんを軽蔑してるとかそういう根拠のないことを信じないように!」
「わ、分かった……美希に確認しないで決めつけてごめんね」
「全くだよ」
「話は変わるけど、その、私も少しだけ働き始めたよ」
「ええ!?」
「いや、厳密には違うんだけど!」
あかりは作業所の制度のことをできるだけ分かりやすく話した。就労そのものではないが就労訓練ではある。時給は安いが、午後からマイペースに作業をしている生活を二週間続けている。
聞いた途端に美希は椅子から落ちた。慌ててあかりは席を立って近寄った。
「お、お姉ちゃんが働いてるーーー!!?」
「だからそんなに驚かないで!!」
美希の手を取って椅子に座り直させる。美希はまだ信じられないらしく、両手で額を多いうつ伏せになっていた。
「お姉ちゃんが引きこもって十年くらい立った頃、私は怖くなってきた。その頃から引きこもりの本を読んだり、NPOってところに相談に行ったりした。スタッフさんがお姉ちゃんと話すって言ってくれた。でもお母さんがNPOって普通じゃないから嫌だってすごく反対して……お父さんも嫌がったから結局その話は流れた。その頃はお姉ちゃんも部屋から出る気配はなかった」
あかりは言葉に詰まった。雪白の言った通りだ。美希はあかりのことでこんなに悩んでいたのだ。
「でも私は諦められなくて……本だけはずっと読んでいた。はは、きっとうちの会社で引きこもりに一番詳しいよ」
美希の目端に涙が滲んでいてあかりは驚いた。美希はタオルハンカチで涙を拭うとあかりを見て微笑んだ。
「ありがとう、あの部屋から出てきてくれて」
「美希……ごめん!」
あかりは雪白に会うまでずっと自分は一人だと信じていた。けれどあかりが気付かなかっただけで妹は姉とまた話せる日を待っていたのだ。
本当はあかりだって覚えていた。部屋に引きこもり初めて最初の一、二年は美希は「お姉ちゃん、話がしたい」「何があったの? 出てきてよ」と何度も姉に声をかけた。けれどあかりは全てを拒絶してしまった。
「覚えてるよ。ごめんね、美希……あの時、私は誰も信じられなかった。家族はみんな私が嫌いだし、いない方が喜んでると思ってた」
「そんなわけ、ないじゃん!」
「ごめん」
美希の顔を見ているとあかりも思い出してきた。子供の頃は本当に美希とよく遊んだ。美希はゲームがうまくて負けないように頑張った。同じアニメを見て笑い合ったことだってある。小学校は辛いことも多かったけど、やんちゃな女子のグループに入って遊んでいたこともある。
(そうだ、なんで私、忘れていたんだろう……)
過去は辛いことばかりと記憶を封じていた。けれど楽しかった時だってあったのだ。美希のことだって可愛い妹だった。
「美希、ありが……」
「こうはしてられない! お会計!」
美希は突然立ち上がり、伝票を持って扉に向かう。あかりが慌てて止める。
「ちょっと待って! 急にどうしたの!」
「だってお姉ちゃん働き始めたんでしょう!? 三宮にきたんだから買い物に行かなきゃ!」
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次回は「地道な努力」を書く予定です。ぜひまたお立ち寄りください。
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