23.計算障害
今回のお話は「ブルースの戸惑い」について。
同じような悩みを抱えた方にも、少しでも届けばと思っています。
次のアジールは気まずかった。あかりは雪白を避けて、ブルースの方に寄って過ごした。
「おーい、いつもと逆だぞ?」
折りたたみ椅子に座るブルースの影から思い切りはみ出したあかりがその影で体育座りをしていた。
「……だって何話したらいいか分からない」
そういえば雪白に働くために次はどうしたらいいのか聞くことを思い出した。もう半年も前の記憶だ。スタッフに夢中で忘れていた。
「アカリさん、ちょっといいかしら」
「は、ははは、はいっ!?」
雪白の方から話しかけてきた。彼女はブルースの方にも微笑みかける。
「ちょっと用事ができて電話しないといけないの。会場だとうるさいからセンターの外で話してくる。結構長引くみたいだから、アカリさん、くれぐれも会計の方をお願いね」
「は、はい」
「ブルースさんは会場の方お願いね」
「はい、雪白さん、足は大丈夫ですか?」
「今日は調子がいいから大丈夫よ」
前回の話は忘れてしまったのだろうか。それともこれが大人の対応というものか。あかりは結論が先延ばしされたことにホッとしてスタッフの仕事に集中した。
(そういえば仕事っていえばスタッフも仕事なのかな。もちろん、月に一日だけだし、本物の仕事には及びもつかないけど、誰かがやらないといけないことだし)
知らない間に仕事をしていたのだろうか。
あかりがいつものようにお釣りのケースの前に座っていると隣でブルースがテキパキと仕事をこなしていく。その手際に見惚れると慌てて自分の仕事に戻る。
開場の時間になる。すると受付の参加費受け取りのあかりの元に十人以上の列ができる。それだけ並ぶと少し慌てるが半年スタッフをやっていると慌てずに一人一人ゆっくりこなしていくことが大切だと自ずと分かってくる。隣でブルースは初回のしおりを配ったり、飲み物コーナーの案内をしている。
すると事件が起きた。
ガタンっと音がして悲鳴が上がる。参加者の一人が倒れたのだ。あかりがさっと振り向くと同じ年頃の女性だった。
「ブルースさん、会計お願い!」
あかりは咄嗟に走り出し、後の仕事をブルースに頼んだ。彼女はらしくなく戸惑っていた。
「え、でも、私は……」
「ブルースさんなら簡単でしょ! 私はあの人を見てくる!」
お釣りのケースをブルースに渡して、あかりは倒れた人のそばに寄った。倒れたというか床に膝をついて椅子にもたれかかっていた。顔色が真っ青だ。
「大丈夫ですか?」
「……ごめんなさい。昨日、仕事でほとんど寝てなくて。でもどうしても今日はここに来たくて」
(仕事ってやっぱり大変なんだ……それに比べて私は)
「そうなんですね、座れそうですか? あとで水を持ってきますね」
「……うん、大丈夫、座れそう」
そのまま彼女はぐったりと椅子に座り、テーブルに肘をついて両手で両目を覆った。
あかりは少し彼女の様子を見ると飲み物コーナーに水を取りに行った。今日の飲み物に水がなかったのでカフェインのないウーロン茶を紙コップに注ぐ。彼女の前にそれを置くと、ありがとうと見上げられる。
(よかった……もしかして、仕事ってこんな風に誰かの役に立つことなのかな……)
またガシャンと音がした。受付の方だった。音を出したのは床に膝をついたブルースだった。以前のあかりのようにお釣りが床に散らばっていた。
「ごめんなさい、ごめんなさい、私にはやっぱり無理……!」
いつもあかりの倍は働いて有能そうなブルースはそこにはいなかった。
「ど、どうしたの、ブルースさん?」
ブルースの目は焦点が合っておらず、現在ではなくどこか遠くを見ていた。ごめんなさい、と小さな声でぶつぶつと呟いているので、以前の自分のようにパニックになっているとあかりは参加者に向かって叫んでいた。
「すみません! スタッフの体調が悪いようなので、ちょっと受付を待ってください!」
「なに、どうしたの?」
「大丈夫?」
参加者たちが止まってくれたので、あかりは一度散らばった五百円玉を拾おうとして止める。先にブルースに近寄って、なんとか彼女を座らせる。泣いてはいないようだ。だが、目の焦点が合っていない。
「ブルースさん、どうしたんですか? いつものブルースさんなら簡単に……」
「ごめんなさい……」
ブルースは一筋だけ涙を流した。そしてばっと立ち上がり、自分のバックを持ち、ドアから出ていってしまった。
「そう、そんなことがあったのね。大丈夫、ブルースさんには私があとで連絡するから」
その五分後、雪白が帰ってきた。それから参加者の動揺はあったものの、あかりと雪白で受付を終えて、アジールの開催を始めた。
(ブルースさん、どうして? 私のせい? 私が同じ落ちこぼれ仲間だなんて思ったから? ……友達になれると思っていたのに)
そんなはずはない。ブルースに直接はそんなことをは言っていない。みんなの自己紹介を聞きながらそんなことばかり考えていた。
「アカリさん」
自己紹介が終わり、参加者が自由に交流する時間が来ると受付席に雪白が戻ってきた。あかりは立ち上がり、焦った声を出した。
「雪白さん、ブルースさんは」
「大丈夫、今連絡をしたわ。大丈夫、大丈夫よ」
あやすような声音であかりに座るように示す。雪白はあかりの隣に座ると話を始めた。
「ブルースさんのことでアカリさんに伝えないといけないことがあって」
「……え?」
「ブルースさんはね、計算障害なの。SLD、学習障害の一つで、簡単な計算ができない。だから受付でお金を扱う作業はやらないようにしていたんだけど、それをアカリさんに伝えていなかった。黙っているようにお願いされたけど、やはり伝えてくべきだったわ」
「ぶ、ブルースさんが学習障害? とてもそんな風には見えないです。だってスタッフの仕事だっていつも私よりできて、有能そうで……勉強だってできそうでした」
「そうね、ブルースさんはとても有能な人よ。それでも、学習障害もそういうものなの。他のことはどんなにできても計算だけはできない。発達障害の一つでもある。他にも文字がどうしても読めない、書けない人もいるわ」
「そんな、そんな……でも前は、私がやらかした時には全部代わりに」
「無理をしていたの。一度、あかりさんの代わりにスタッフの仕事を全てした後に私に「今日はなんとかなったけど、お金の計算だけはお願いしたいです」と言ったわ。アジールの扱うお金はほとんど五百円だし、かなりゆっくりやれば落ち着いてできたみたい。でも負担になっていたから今後は私に会計を分担してほしいと言っていた」
あかりはハッとした。さっきは突発的なことが起きて、あかりは「彼女ならできるに決まっている」と突然ブルースに全てを任せてしまった。だから落ち着く余裕をなくしてしまったのだ。
「それにブルースさんにはトラウマもあるかもしれない」
「……トラウマ?」
雪白は語る。かつてブルースは仕事が生きがいだった。しかし、ある日会社が再編して経理の部署に移動した。その時に計算障害でとても苦しみ、大好きだった会社を辞めることになった。
「辞めるまで、かなり無理をしていたみたい。だから計算障害というだけじゃなくて、お金を扱う仕事が怖くなってしまったのかも」
雪白は電話をしてみると一度会場の外に出ていった。あかりはぼんやりと折りたたみ椅子に座っていて、ブルースと交わした今までの会話を思い出していた。
会場には穏やかに会話を交わす参加者たちがいて、それがあかりの暗くなった胸をほのかに照らした。
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次回は「ブルースとの会話」を書く予定です。ぜひまたお立ち寄りください。
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