ぬるい水
国民健康保険とは、自治体(市区町村)所管の強制加入の医療保険である。保険制度であるため、その利用者には使用料、つまり、保険料の納付義務が課せられる。自治体の多くはこれを地方税の一種(特別目的税)と定め、納入が滞った場合には医療の現物給付に差し止める(医療機関窓口で医療費を全額支払うことになる)等の不利益処分を行う。それでもなお滞納者が納付を行わない場合、国税法や地方税法等に基づいた強制的な財産処分等により、自治体は滞納を解消することもある。民事執行法に基づくことなく自治体は自力執行することができるため、滞納者はある日不意に預金、生命保険、自宅、給与等の財産、収入を差し押さえられるリスクを常に背負うことになる。社会全体での医療費の増大により、保険料収入の確保はどの自治体にとっても急務となっている一方、被保険者にとっては保険料の負担は増加の一途を辿っている。
必要な医療を誰でもいつでも受けられることを目的とするこの保険制度の理念は本来、福祉に近いものと言えるが、社会的弱者保護の観点からすると、近年、その機能を急速に喪失しつつあることは隠せない事実である。保険料(税)は、所得税や他の地方税と同じように、前年の所得額を元に計算される。従って、失業した場合であっても、在職中の水準で保険料(税)が計算されるため、結果として支払いが困難になるケースが多い。貧困の中で病を得ても、保険料の納付ができずに滞納し、医療費を全額実費で負担するだけの当座の資力もなければ、現実には、生活保護を受給する以外に医療を受ける手段はない。生活保護受給者は国民健康保険の加入資格の適用除外となるため、受給開始後の保険料の支払義務は発生せず、未納保険料についても減免措置がとられることが多い。国家財政を圧迫しつつある生活保護関連の支出の中で医療扶助費が最大の費目となっている原因の一つは、おそらく、この国民健康保険の制度のいびつさであると思われる。
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「どうしても安くならないんですか?」
「ええ、これ以上は、ですね。条例でこうなってるもので」
「いま、収入ないのに、こんなに払うんですか?」
「ええ、現時点での収入じゃなくて、前年の収入で掛かるものですからね、こんな値段になるんですよ」
婦人はうなだれた。窓口担当の加藤は端末を叩いて何かを調べるふりをしながら話をし、話が途切れたついでにハンカチで汗を拭う。緊張しているのでも厄介な話をしているのでもない。ただクーラーの利きが悪いので、窓口にでて一日中しゃべっていると汗が噴いてくる。こういう、だめなものはだめ、ときっぱり話を付けないといけないときには、なおさら汗を掻く。
「あのう、収入に差がある場合の減免とかの措置はないんですか?」
「一応ありますが、それはその、去年と今年の収入が確定してからでないと、適用にならないんですよ。もともと、保険料の計算がその、払う側からすると一年遅れになるので、いざ払う段でそんなこと今更言われても、ということがありますから」
「今すぐはならないんですか。もう、収入がなさそうな見込みはたってるんです。ずっと仕事がなくて失業保険も給付期間を長くしてもらって、ハローワークの人もなかなか見つからないかもしれませんが、なんて言ってるんですよ」
「ええ、でも、今はまだ8月の半ばで、まだ今年が完結するまで四ヶ月ありますから。何ともいえないでしょ? だから、確定申告の時期になるまで減免の相談には進めないんですよ、今年度の保険料については」
「申告なんて」
「今年の収入がないにしても、その証明なりがいりますから。現時点では、分割払いのご相談を承った上で支払いを継続していただいて、減免については申請日の時点で未納の額を対象に、という取り扱いになりますね」
婦人は顔を上げた。
「未納の額が対象になるって、つまり、その時点で払ってない額が減免されるってことですか」
「ええ」
「どうして、そんなに手間の掛かる仕組みなんですか? もっと、利用者の便宜を考えた仕事の仕方にしてないのは何故ですか?」
「利用者、というかですね。役所で加入する国民健康保険、というのはですね、社会保険というか、要は職場の健康保険に入っていない人は、お客様が先般に手続きされて加入されたようにですね、加入していただくものなんですよ。要は、日本の法律では、誰でもなにかしらの保険に入っていないといけない。で、その趣旨上ですね、失業された方とか、所得のない方に特化した保険ではないんです。任意に加入する保険商品ではなくて、加入せざるを得ないもの、と考えてください」
加藤は目の前の婦人が、最初思ったほど歳を食っていないことに気がついた。なんてこった、まだ四〇なりたて、俺と歳なんて十も違わないじゃないか。ハンカチをしまった方の掌がまたじっとりとしてきて、カウンターの下の膝頭に押しつけて拭うと堅くて丸いが感触が、そして端末にはわせた指がキーの割れ目をなぞると弾力ある反発が返ってくる。対応に集中しないといけないのだが、その両手の軽く汗ばんだ感触が気になってしかたがない。
「加入を取り消したいんですが。医療を受けるときは実費で払いますから」
「あのう、それもできないです。これはね、職場で保険に入っていない期間は全部、この保険の加入期間と見なされるという仕組みなんで」
「どうしてですか」
婦人は顔を上げる。加藤はこの客を窓口に迎えて初めてくらいにその顔をまじまじと見た。色白の苦渋が額に広がっている。加藤は僅かに興奮を覚える。
「制度がですね、要するに、国の定めている制度ですけれど、保険のない期間を作らないために、その期間は強制的に適用となるという制度でした。ただ、申請主義となっているので、手続きをとらないでいると保険証はもらえない、そのかわり、保険料の請求は発生しない、ただし、いつ加入しても、さかのぼって加入することになって、任意の時点からの加入はできないんです」
「保険料が掛かるのはわかりましたけど、どうすればこの保険から抜けられるんですか」
「何らかの社会保険に加入するしかないですね。ご自身でお勤めされて加入するか、あるいは別のどなたかの扶養になるかしかないです」
「あとは、死ぬか」
いつものそれか、と思って加藤は口をつぐむ。公租賦課のたぐいを払えないと言って横になる奴の言いぐさはいつもそれ、という、職場仲間の常套的なやりとり。加藤は一瞬目の前の、どちらかと言えば美人の部類に入る女の顔に見入る。襟元から僅かに覗く白い地肌はなめらかそうだった。
「あの、私のばあい、失業とかじゃなくて、離婚して、夫が経営していた会社もやめた関係で社会保険も同時になくなって仕方なく国保に入ったんですけれど」
「まあ、失業と言えば、そうですね」
端末をまたいじって横目で見ると、確かに、所得種別は専従者所得の形になっている。つまり、家族で経営している会社で給与を得ていたかたちだ。女の言っていることに嘘はない。
「どうにか、ならないんですか」
女は下を向いた。
「ええ、まあ……制度、ですので、この私自身もおかしいとは思いはしますが」
おざなりの慰めを連ねる。後はせいぜい端末を叩いて、調べている振りをして、女があきらめるまで待つことにする。何気なく、世帯の構成を検索してみると、婦人の歳にしては珍しい、ひとりだけ、高校生の娘がいることがわかった。前の夫のときの子供だろう。この歳で高校生の子供がいると言うことは、二十歳そこそこくらいには出産していたことになる。苦労しているはずの割にはまだ若さがどこか残っている婦人の、意外かもしれない家庭生活が見えるようだった。
携帯電話の着信音がした。女はすいませんといって、鞄から電話を取り出して、声を抑えながら話す。
「……もう住民票はとれたのね? 一階? 私は二階の、4番の窓口にいるから」
すいません、と言って電話を切った女に向かって、加藤は用意していた別れの挨拶代わりの窓口案内を切り出した。
「お子さんは未成年ですよね。ええと、その、ひとり親の医療扶助の手続きはとられてます?」
「それなんですけれど、いま、児童手当の申請をしているところでそれが下りないと、できないですよね」
「ああ、いま、手続きされているところですか……ほかに何か受けられるもの、あったかな……その、失礼ですが、生活保護とかは」
「持家があるから駄目って言われたんですよ。でもね、そんな、家まで売ってそのお金がなくなってからでないと受けられないなんて、貧乏にもっとなれ、みたいな話じゃないですか」
「ああ、そうですよねえ……」
加藤はどうすればこの女に帰ってもらえるか真剣に考えだした。窓口の番号札の発券機はあと十三人の来客が待っていると表示している。終業の5時まであと40分。ぎりぎりだ。さっさと結論を示してかえってもらうべきところだが、しかし、困惑してすがりついてくる、どちらかと言えば美人の女をすげなく振り払うのは気弱な加藤には難しい。何かきっかけがほしい。
「そうですねえ、とりあえず、先ほどお話ししましたようにですね、分割払いのご相談なら担当がおりますから、お時間がおありだったら、少し席を移してご相談いただければ」
「いえ、ですから、そうじゃなくて、保険料を払わないですむというか、額を少なくすることができるっていうのは、ないんですか」
「それは先ほどからご紹介したとおりで、今すぐというのはできないんですよ、ですから、せめてですね、今日の段階では分割払いのご相談をしていただいてですね」
着崩した制服姿のティーンエージャーが、婦人の後ろから突然、まだ終わらない? と声をかけた。婦人は振り返って、まだよ、あら、あなた、そんな恰好できたの? という。丈の短めのシャツがスカートの外にでていて、これまた短めのスカートの下から輝いている褐色の腿と同じ色の腹部の肌がちらちらと加藤の目を打ったようだった。学校からまっすぐ来たからしょうがないじゃん、とその娘は言い、染めてはいない肩の長さの黒い髪の毛を揺さぶる。肌の褐色は人工的なものではなくて天然ものらしく見えた。母親の座っている椅子の背にかけた両手に体重をかけ、好奇心からか、机の上に並んでいる、端末の画面のハードコピーをのぞき込む。加藤は普段ならそういう個人情報を他人にうっかり見せない条件反射が働くのだが、その娘のシャツの袷のところから覗く色と、無造作ななりと対照的に整ったその少女の顔立ちに気を取られていた。
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5時を20分過ぎてやっと窓口の来客のすべてが捌けた。それから処理のすんでいない届け出を入力し、プリンター、端末の電源を落とし、個人情報を打ち出した紙類がデスクの上にだ玉間になっていないかを確かめる。日付スタンプを翌日の日付に直して、操作用のマニュアル類をもって、窓口を離れて中の事務室に戻る。そうやって窓口業務の一日が終わる。加藤は自分の事務机にもどった。
事務は窓口の当番に当たっていない日にまとめてこなす。正直、仕事の量は対して多くはない。残業など滅多にしない。むしろ、仕事がないときをどうやり過ごすか、どう仕事の種を見いだし、育て上げるかの方が問題だ。それも一定量以上にしてはならない。定時に終わるようにしなくてはならない。大手を振って残業ができるのはたとえば飛び込みの業務が入ったとき、それだって、できれば定時に終わらせるようにすることが定めのようになっている。何事も決まりきったように、分を越えず、怠らず、不足なくこなすように。社会人経験者枠で任用されて三年、学んだ職業倫理がそれだった。下級公務員とはつまりそういう仕事だ。なにも変えない。情に流されない。至らないことがあってはならない。感情は関係ない。他人の人生に興味を持つ必要はない。窓口のやりとりがすべて。それ以上は、聞いても仕方がない。必要以上に聞くのは余計だ。手続きを正当に受理し、それに応じたレスポンスだけを返す、それが仕事、自分の意志でそれをなさなければならない。
加藤は自分の席で一息つきながら、朝役所に来る前に買ってきたペットボトルのお茶を一口飲んだ。ぬるい。定時後はクーラーが止まるから、暑くなってきている。今日の一日の仕事を何となく思い返す。端末への入力が間違っていなかったか。受け答えや問い合わせに対して間違ったことを答えなかったか。漠然としか思い出せない。問い合わせも処理も五十か百かあって、窓口に来た市民の顔もそれに応じてあり、すべてモンタージュ写真かモザイクのように溶け合って、もはや個別の印象など思い出せない。それでもいいのだ。もし何かあってまたくっきりと思い出さなければならないときは、また最初から、生年月日と名前とを聞き出して端末に検索させる。自分で処理したものなら、画面に現れる住所、保険証の番号、保険料とその支払いの状況が、相手の顔にとってかわり、まず話をするのに滞ることはない。べつだん細かいことまで思い出さなくてもよいのだ。加藤は細かい相手の特徴をできるだけ頭から追い出し、せいぜいおおざっぱな印象だけを残すようにつとめている。端末に現れる市民の細かいデータ、多くの場合本人すら把握していないような細かい情報をすべて押さえながら話せる以上、相手の外見などいくら覚えても意味がない。
だがむしろ、そうであるから、と加藤は密かに自負しているが、彼の密やかな趣味である人間観察はおおらかに翼を広げることができた。大まかに、窓口に来る人間の恰好は何種類かに分けられる。勤め人風。自営業風。無業風。さらにここに年齢と性別、収入、生活の質、教養の度合い等々による区別が入る。女性の場合は化粧の仕方で仕事の違いまでわかる気がした。そういう感覚的なデータから初見で相手の属する階級を見抜いて語彙と言葉遣いを選択し、相手の表情に合わせて寛容と苦渋と冷静さの調合を瞬時に行い、身振りすらコントロールする。程良く表現された職業的無関心の奥に好奇心を飼い慣らし、我にも他にも必要なことだけをしゃべらせる一連の演技のプロトコル。加藤の職業的自負はそれだった。趣味と実益のあい手を携えた華麗な競演ではないか。地方公務員も悪くない。
また加藤はぐい、と、誰も見ていないのに自慢げにペットのお茶を呷った。今日の最後のほうも相当待ち人数がたまっていたが、それだって終業のチャイムから大して時間もあけずに片づけた。十分だ。よくやっている。これでいいのだ。ペットボトルを鞄に放り込む。
帰る前に念のために、窓口に何かを忘れていないかを確かめておこう。普段なら忘れはしないが、平均の五割り増しくらいの人数が来た今日のような日だと、終わった後は少し呆然としてしまうものだ。もしかしたら窓口に忘れ物をしているかもしれない。確かめにいってみた。そのとおりだった。端末操作のマニュアルがモニターの脇に置きっぱなしだった。取り上げてみると、女物のハンカチがその下にあった。誰かの忘れ物にちがいない、と思う。どちらにしてもハンカチはただの落とし物だ。総務課に届けてしまえばいい。
だが、さらにその下には、給与の源泉徴収票の書類があった。今日の客のだれかが何の関係もないのに持ってきて、役に立たないのに加藤が何となく預かってしまったものかもしれない。
だれの? 大幅に個性の希釈された今日の体験のスープの中かからすぐにその持ち主の顔が浮かび上がる。終業ぎりぎりまで粘っていたあの女だ、だらしない格好の高校生の娘のいるあの婦人だ。まちがない。ふとみると、端末の電源がまだ切られていなかった。まだ、顔が思い出せる。名前と生年月日も浮上してくる。輪郭がたちまち鮮やかになる。語った言葉の具体的なひとつひとつまではよみがえらないが大まかな話の道筋が浮かび上がる。あの女は収入がが少ない証明として持ってきたのだが、年度がずれているために何の役にも立たなかったのだ。たかが年度、されど年度、要するに、女の健康保険料はまさにそこに記されている所得を元にして計算していた。元々少ない所得から計算されていた保険料がそれでも払えないというだけでもお笑い草だし、だいたい、保険料の算定方式もわかっていないのに不当に高いと文句だけは言いにくる、いい市民の例だ。
そういうあざけりで心のどこかの脆弱なところを守りながらも加藤は焦り始めていた。預かってはならない個人情報を預かってしまった、しかも、コピーではなくて書類原本を預かってしまったのだ。前にも加藤は別の書類について同じ種類のミスをして、しかもその書類を紛失してしまっていたーーとうぜん、その迷惑を被った市民は後日、大切な書類が永遠に失われたと聞いて怒鳴り込んできたーー同じミスはできない。いまの業績に昇進がかかっていた。内々にこれを処理してしまいたい。ハンカチともども。恭一にだって、処理や対応にはなんの問題もなかった。完璧な仕事でなくてはならない今日の仕事に、つまらない落ち度を残したくない。
どうすればいい?
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住民登録上の住所をもとに携帯電話の地図を調べながら歩き続けた。日が落ちるまでまだ時間があり、暑い。さっきコンビニの前の自動販売機で新しく買ったお茶はずっと手に持って歩いていたせいで既にぬるくなり始めている。川沿いに出たので多少涼しくなってきてはいるが、携帯電話のナビゲーションによると少し先にある橋のたもとから延びている階段を上がらないといけないらしい。表示される方向に従ってずっと歩いているが、遠回りばかりさせられている気がして、加藤はいっそう不安を大きくしていた。
さらに汗を吹き出しながら坂を上りきると、例の母子の家の家のほとんど目の前についているらしかった。携帯電話から顔を上げて見回してみたが、しかし、どの家なのか判別がつかない。どれも同じようにくすんだ色合いの、屋根に埃が染み着いた家ばかりだ。加藤は鞄を忙しくかき回して、クリアフォルダにつっこんだ母子の家の住所の資料を取り出す。職場の端末から引き出した個人情報。本来の職務以外の目的で取り出している以上、既に、個人情報取扱の規則に反している。それを思い出すとまた気が萎えてくる。いまなら引き返せる。明日の朝、何気なく書類をよけいに預かったことを上司に報告して通常通り、郵送して返却すればいい。丁寧にあらかじめ返送することを電話もしておけば、こともなく解決するのだ。引き返したほうがいい。
いや、と加藤は頭を振った。余計な書類を預かったことはミスだ。昇進がかかっている。ミスなどないほうがいい。書類にしたって、ぶっきらぼうに郵送するのではなくて、わざわざ直々のお返しにあがるのだ。その方が印象がよく、決して相手を怒らせることもない。ここでひと手間かけることで、すべてをなかったことにできるどころか、感謝までされるかもしれないのだ。これ以上の解決はない。尻込みすることなど? わかりきったことだ。災い転じて福となす。美人の母子が喜んで書類を受け取ってくれる情景を思い浮かべて加藤は勇気を奮い起こした。
住所を印刷した紙がやっと見つかった。いまよく見ると、番地と地番までしか表示されていない。このあたりは全部同じ地番みたいだ。古い地所なのか。持ち家といっていた。とすると、表札を全てみて回るか、わからなければ一軒一軒飛び込んで調べるしかない。飛び込みは加藤の得意技だ。役所に入るまでは飛び込み営業で食っていたくらいで、正直つらい仕事だったが、初めて訪れる家の人に営業スマイルを浮かべたまま冷ややかに応対を断られるのは慣れていると言えば慣れている。
いまもまた加藤はそうやって、一軒ずつ当たるつもりで、手近な家の前にたった。深呼吸をして門のチャイムを押した。門から三段上の玄関を見つめていると、ボツ、という、耳から水が抜けるときのような音のあとに、「はい?」という返事があった。加藤は母子の名字のあとに様をつけ、こちらのお宅でいらっしゃいますか、と尋ねてみる。
「そうですけど?」
なんと、一軒目でこの出来だ。ついている。加藤は畳みかけた。
「わたし、市役所の国民健康保険の窓口でお宅様とお話をさせていただいた、加藤と申します。その、窓口にですね、お宅様のお持ちになった書類が置いたままになっていましたのを業務終了後に発見しまして、今日うかがった中では直接役に立つことのない書類でしたが、他の面ではまた別に意味あるものですから、早めにと思って」
「役所の人ぉ? ママならいません」
加藤は地団太を踏みたくなった。いま向こうで話しているのはあのだらしない格好の娘の方だ。声が若すぎるのにどうして気づかなかったのか。くそくそくそ。端から失点一だ。
「あの、さようですか、いらっしゃいませんか」
「わたししかいません」
「さようですか、でしたら、あの、書類をあなたにお預けして、それでですね、お母様にお渡しいただきたいのですが」
「もう少ししたら帰ってくると思います」
「あ、さようですか」
「よくわからないから、直接渡してください。中に入って待っててください」
加藤はたじろいだ。それはまずい。なかにはたぶん、この娘だけしかいない。そこに母が帰ってきたら、その状況をどう理解するか。うまくとってくれれば、加藤の目的通りにとってくれればいい。だが、まったくべつの悪い可能性、最悪の理解をするかもしれない、それだけは避けろと、加藤の職業的理性は示していた。とっさに、いいわけを考えて不自然でないように辞去しなければならない。
「いえ、あの、それはですね、さすがにご迷惑でしょうから。封筒に入れて持って参りましたので、郵便受けに入れましたら、すぐにおいとましますから」
「どうしてそんなに低姿勢なの? なんか、さっき役所にいたときとは上から目線ぽかったのに、おじさん」
言葉を失った態になって、加藤は空いた口がふさがらない。
「よくわからないから、やっぱり、そこで待ってて」
「ここで」
「中には入らないでください」
言うことがころころ変わりやがる。中にはいるのも困り物だが、ここでただ待たせるというのはひどい了見だ。これ以上何か交渉するようなことはしないで、いったように封筒を郵便受けに入れて帰ってうことにしよう。だいたい、返しにきたということで、必要以上のことをこちらはすでにしている。あまり下手に印象づけてしまうと後を引きかねない。投書でもされたら。
「あのー、では、ここでずっと待っているというのもご近所の迷惑にもなると思いますから、書類をですね、先ほど申しましたように」
「ああ、いいです、そこで待っててください」
通話が切れた。
これ以上は何の進展もなさそうだった。封筒を郵便受けに入れて帰ってしまおう、このままここに立っていても仕方ないし、あの娘のいうとおりに母親がすぐに帰ってくる保証もない。
かたくなな娘だ。母親に似て強情、融通が利かない。しかも、こちらの迷惑を考えていない、これでずっとこんなところに立っていたら熱中症になってしまうとか、そういうことは想像もしないらしい。いや、役所の人間となど不必要に関わりたくない、という心理かもしれない。たぶん、まだ子供だから、役所人間の食い下がり方について経験がなくて、振り払おうとするがかえってこちらをやきもきさせるようなことをして話を複雑にしているのだ。きっとそうに違いない。役所で一目見たときの印象をふと思い出す。肌の露出があるわけじゃないがどことなくだらしない制服の着方だった、どこがだらしない印象の源だっただろうか。ワイシャツの襟口が左右で形がずれていて、脱ぎかけに見えたこと、そこから見えた鎖骨のまわりが妙に深くえぐれていて、やせっぽちにみえたこと、とかが蘇ってくる。だが、そうだ、可愛いというか、どことなく引きつける感じがしなくもない、不快ではないだらしなさだった。どちらかというと、制服のボタンをかけ違えている幼稚園児呼び止めてボタンをはめなおしてやりたいと思うときの感じを思い出させる。子供などいないくせに加藤は、そう思った。
喉が急に渇いてきて鞄からペットボトルを取り出し一口あおった。入れ替えに封筒を取り出して、郵便受けを探したが、困ったことに、それは門の中、三段あがった玄関のドアに作り付けになっていた。今時珍しい、郵便屋を敷地の中に入れざるを得ない仕組みだ。だが、そうせざるを得ない。そとにむき出して置いたままにするわけにはいかない書類だ。だからこそ持ってきたのだ。喉の渇きがまたひどくなった。引っ込みはとうにつかない。押しつけがましさは百も承知だ。あとすこしだけあの段を上って郵便受けに、えい、と押し込んで、振り返らずにすたすたと帰ればいいのだ。決然と門を開けて段を一歩一歩上る。足音が響かないようにおそるおそる、ゆっくり。登り終える。誰かに見られているのではないかと不安になって後ろを見たあと、小脇に挟んだ封筒を、郵便受けの緩いふたに押しつけた。だが、どういうわけか、受け口が封筒の幅より小さくて、うまく入らないのだ。軽くたわませたくらいではだめのようだ。折り曲げてしまおうか。それともさっさと押し込んでしまおうか。大して力もいらないその仕事のために、どれほどの不安を越えなければいけないのか。加藤はそこでぎょっとして固まる。あの娘は俺の一連の動作を中から見ているに違いない。こんな恥ずかしいところを。大の男が。頭の中が真っ白になるというのはこういうことかもしれないが、加藤はそれからたっぷり一分近く、封筒を郵便受けに押し込もうとした動作の途中のまま抜き差しならなくなっていた。
いきなりドアが勢いよく空いて、加藤はむしろ安堵したくらいだった。風圧に押されるようにして段を後ろ向きに下がり、あわてて場を取りなすように曖昧な笑いを浮かべて見上げると、軽蔑するような、怪しむような、どちらにしても攻撃的なニュアンスの微笑を浮かべた娘と目があった。制服ではない。下着同然のホットパンツとシャツだけの姿だった。目が合うのを避けて視線をそらすと腰の付け根の間接が見えそうな太股に吸い寄せられ、あわててまた別の所を見ようとすると、ブラのカップの上の縁が透けて見える胸の方に目がいってしまう。
娘はじろじろ見られていることも加藤の狼狽も察しているらしく、自分を隠そうともせずに立ちはだかっている。
「その封筒? 書類って」
問いかけられていることに気がついて、うろたえたままなにもいえずにそれを差し出した。
「受け取っていい?」
「どうぞ」
娘は封筒をとってもドアを閉めずにいた。加藤もまた何かを言わなければ帰れない躰で困惑を深めた。口を切ったのは娘の方だった。
「役所の人って福祉とかしているんでしょ」
「福祉? ふくし、ええ」
「どうすればその福祉って受けられる?」
「どうすればって……」
「誰に相談すればそれって受けられる? おじさん、その担当?」
加藤は娘の顔をまじまじと見上げる。また喉の渇きを意識した。
「ママは、ホントは今晩は帰ってこないと思うの。男の所にっているから。その男のせいで離婚したんだけど。たぶん、市役所で助けてもらえなかったから、その男に何とかしてもらうつもりだと思う。でも、うまくいきそうもないの、ママは誰に電話しても話がうまく言ってる様子がないのね。わたしに隠れてこそこそ家の片隅で電話してるけど、たいてい、大声で泣き言みたいなことばっかりいって、雰囲気おかしくなって終わりなの。ホントに泣いていることもあるみたい。自分のせいでそうなったのに、自分は悪くないって言いたいらしいんだけどね。今日も市役所でママ迷惑かけなかった? 書類、わざわざ持ってきてくれてありがと、でも、ママってかなりバカだから、それ、役に立たせられないと思うけど」
「いえ、その、仕事ですから」
「わたしも困ってるの。高校卒業できなかったら人生終了じゃん? 大学まで行くつもりでいたのにさあ。なんとかならないかな?」
「なんとか?」
「市役所の人ってお金あるでしょ?」
「は……」
「ねえ、わたし、イケてるしょ? 入ってかない?」
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加藤は今、駅のホームに立っている。日はとっくに暮れている。白々した蛍光灯がところどころガムのこびりついた点字ブロックをもうしわけのように黄色く光らせている。向こう側のホームに部活帰りらしい、学校の体育用のジャージを着た女子高生がいる。加藤はあわててその姿が視界に入らないように、電車のくる向きに顔を背けた。
娘の顔と体つきがまだ目の前にちらついている。喉はさっきからからからで、さっき自販機で買ったばかりの500mgの水はたちまち空になった。いくら飲んでも飲み足りないのは乾きは癒えず体の中の虚脱感も去らなかった。
誰もこんなことのために生きているんじゃないはずだ、と呟いた。誰の耳にも入らない声で。けれど、何のために生きているのか、誰も知らないのだ。要するに、生まれてからずっと、目的もわからないままこづき回されて、右に左に引きずり回されて、ただ、こんなことのためじゃない、こんなはずじゃないとつぶやきながら生きているだけだ。
今日俺がしたことはいいことだったのか? そんなはずはない。誰にも誉められることじゃない。あの娘のほうがずっと俺よりもわかっていた。人生の真実をだ。あの若さで。本当の辛さなんてなにも知らないと見くびってかかった。事実は逆だった。俺の方がよっぽど楽な人生を送っている。いや、少し違うかもしれない。同じなのは、俺もあの娘もただ訳の分からないものに引きずり回されているということだが、違うのはその引きずり回されているということをどう考えているかだ。俺は自分は引きずり回されてなどいないと思っていたけれど、そうではない。誰でも簡単に落ち込む罠が、今日、ぽっかりと口を開けていた。あの娘はそれがわかっていて、引きずり回す側に少しでもなろうとしていた。いいことか悪いことかじゃない。生きていこうとしていた。どうにもならないものを受け止めて、利用できるものは少しでも利用しようとしていた。だが、あの娘のそういう強さだって、結局は同じ所をぐるぐる回っているだけだ。
そういえば俺の親父も役人だった。貧民を馬鹿にしていて、酒に酔う度にその話ばかりで、子供の頃ずっとそれが嫌だった。俺もあの娘も同じだ。同じ所をぐるぐるしているのは俺も同じだ。
加藤は吐き気を覚えた。吐き出せるものは水しかないが、なにもかも吐き出したかった。
はるか向こうの闇の中に電車のヘッドライトが光った。もうまもなくそれは風を切って彼の前を通り過ぎるだろう。その風を少し近いところで感じることができれば吐き気も消し飛ぶかもしれない。ひどく美しく光るヘッドライトに加藤は引きつけられ、力の入らない足が二、三歩、前にでた。
職業小説企画参加作品、ということで、むろん、職業のリアリティはを書くのは当然と考えて心を砕きました。
リアリティの水準維持をスタートラインと定めた後、細部の描写で行数を稼ぐだけでは職業を書いたことにはならない、職業ってなんだ、「仕事」とは違うのか? と考えをすすめたら、どこかで転轍点間違って小説自体が職業をテーマにしたと小説という企画の方向性からは逸脱してしまった、という。いちおう、職業とは個人が社会に関わる仕方であり、社会からの評価の具体的な現れ方として具体化する、という線まで考えたんだけど、あーなんか勘違いしてた。書いてから気が付きました。職業的欺瞞にのめりこんだ男の話、になって、職業がテーマにならなかった。残念。失敗です。企画外作品ですね。
なお、作中で言及される「国民健康保険」についてはその名のまま現実の我が国の「国民皆保険制度の最後の砦」をモデルにとっておりますが、小説内の描写はあくまでフィクションであることを言明しておきます。ただ、おおよそどこの役所の保険係の窓口でも、保険料がらみの相談に行っても、簡単に安くなんかならねえんだよ、というまさにこの小説どおりの流れになると思います。あたった窓口職員がめぐり合わせ悪く小物の悪達者な奴でなければ良しとしたほうがいいかもしれません。
追伸。沢木様のご感想を参考に一部修正いたしました。(2010/4/4)