はじまる二人
「ああ、この書類か……」
「あの。本当は牧原さんに頼む予定だったんですけど、早退しちゃったから代わりに宮永がって、先生が」
「愛美が早退?」
「詳しくは聞いてないんですけど、どうも外でご飯を食べてたら熱中症気味になったみたいで」
「はぁ、なにやってんだか……」
先生から受け取った謎の書類を渡すと、荒木さんはそれに軽く目を通してからため息をついた。
腕を組んで息を吐くその動作すらカッコよく見えてしまうのは、きっと私だけではないはずだ。
とっても卑怯だと思う。
因みに、頂いた紅茶の味は兎に角高そうというか、私の舌ではただ美味しいということしかわからなかった。
「あの、牧原さんを知っているんですか?」
「ん?ああ、よく知ってるよ。私の数少ない友人かな。宮永さんは仲いいの?こう言っちゃなんだけど、あんまり接点なさそうにも見えるけど」
苦笑しながら小さく「ごめんね」なんて謝られてもちっとも怒れないし、寧ろ謝らせてごめんなさいっていう感じで、何というか、本当に卑怯だと思う。
「あの、牧原さんがすっごく仲良くしている子がいて、その子と話しているうちに、自然と私も牧原さんとちょっとお話しするようになったんです」
そう最近のよくある日常をお話しすると、荒木さんは意外と言わんばかりに目を吊り上げた。
「へぇ?愛美が仲良くしてる子がいるの?」
「はい、須藤さんって言って、ちょっと変わっているけど可愛い子なんです」
「ふぅん……愛美め、そんなこと一言も言ってこないじゃないか」
ちょっと面白くなさそうな荒木さんも、それはそれで良い、というか。
嫉妬を抑えきれていないような雰囲気で、さっきまではかっこよかったのに急に可愛くも見えて来た。
横目に様子を伺うと、彼女は唇を少しとがらせた後、それを誤魔化すかのように紅茶に口をつけた。
「……ん、今あんま見ないで。ちょっと恥ずかしいから」
ひー!かっこいいのに可愛いって反則!
思わずにんまりと上がりそうになる頬の肉を、無理矢理何とか押さえつける。
「え、えっと、それで部活の方は……というか、学校の方は……」
「ああ、不思議?学校行ってないこと」
「それは、はい。正直、どんな人なんだろうって凄く不安で。でも会ってみたらとっても素敵な人で。あの、どうして学校に来ていないんですか?」
気になっていたことを、口に出た勢いに任せて聞いてみることにした。
だって私からしても不思議だ。正直に言って素行に問題があるようには見えないし、引きこもりの人たちのような自閉感もないように感じる。
友達だって、きっと沢山できるはずなのに。
「んー、いいよ。特別に見せてあげよう。私が学校に行かない理由」
「え、いいんですか?」
「家まで来てくれたお礼と……あと、宮永さんの反応が見たいってのもあるかな」
「わ、私、何を見せられるんですか……?」
「はは、そんなに怯えなくてもいいよ。ちょっと待ってな、取ってくる」
「は、はい……?」
私の肩をぽん、と叩いた荒木さんは私を置いて何処かへ理由とやらを取りに行ってしまった。
取りに行ける理由って一体何だろう……?
私の乏しい想像力では、スケールの違う荒木さんの理由はとてもじゃないが想像がつかない。
暫くすると、荒木さんが帰ってきた。その手には……ギター?
「荒木さん、ギターって……」
「そ。……久々に人前でやるから、ちょっと緊張するな……」
隣に腰かけて苦笑いする荒木さんはふと目を閉じると、徐にピックでアコースティックギターを弾き始めた。
「――――」
聞いたことはない、けど、何処かノスタルジックな音は、一瞬で私の感情を揺さぶった。
目を閉じたまま、鳴らす音楽に身を任せてリズムを取る荒木さん。
学校の音楽の授業とは明らかにレベルの違う演奏だと、そういったことに疎い私でもわかった。
どうしよう、かっこいい。
「――――♪」
歌が乗ると同時に少し目を開けた荒木さんは、喋っているときよりももっと優しく、でも力を感じる繊細な声で喉を震わせた。
喋っていた時の声と似ているけど、違う。不思議と安心する歌声は、この広いリビングに響き渡っていく。
(すごい……)
音楽はあまり聴かないし、流行っている曲をたまに橋本さんたちに教えてもらうぐらいで、まるで知識もないけど。
気づけば、彼女の歌と曲に圧倒されていた。
歌詞はどうも私の知らない言語だし、何を言っているのかはわからないけど、それでも心が震えた。
「――――♪」
たまに歌っている荒木さんがこちらを伺うけど、演奏している彼女から目が離せない。
優しく目を細めた彼女は、目を伏せてまた歌い始めた。
そんな荒木さんを、私はどこか夢心地のままに眺めるのだった。
「――――…………どうだった?」
「……」
歌い終わった荒木さんをぼやっと見つめる。
……っは!
「あっ、あのっ!すごかったですっ!私、音楽ってよくわからないんですけど、それでも心に響いたと言いますか、兎に角感動して!」
思わず、さっきまで委縮していたことを忘れて身を乗り出した。
音楽で感動するなんて、初めての経験だったから。
「ど、どうどう。……そっか、感動してくれたんだ?」
「はい!私、音楽を好きになりました!荒木さん、とっても凄いです!」
「……ふふ、ありがとう。そう言ってもらえて、私も嬉しいよ」
慈しむように頭を撫でる荒木さんに気が付かないほど、今の私はすっかり興奮してしまっていた。
悲しいけど、でも温かさを感じるギターの音色に、優しい荒木さんの声。
一発で荒木さんのファンになってしまった。
満足そうに私の頭から手を下ろした荒木さんは、ギターを持つとソファの横へ立てかけた。
「今のが私が学校に行かない理由。こうやって音楽を作って、世界に発信してる」
「音楽を……」
「そう。結構有名なんだよ?お陰で此処に住んでる。まぁ、両親の力もあるけどね」
私の頭では、全く予想もつかなかった理由が飛び出してきた。
「じゃあ、さっきの曲って……?」
「そう、私の曲。日本ではあまり流行ってないけど、イギリスとかフランスではチャートに乗ってたりするんだ」
「えぇぇ……」
本当に私と同じ歳なの?と軽くショックを受けてしまう。
私にはインターホンを押すことにすらとても勇気が要ったのに、荒木さんはその何段階も上に居るんだ。
でもここまで差があると、あまり現実味がなくて何処か遠い世界のことに思えて、嫉妬とか僻みとかなくてただ尊敬しかない。
はぁー、と感心していると、ふと気になった疑問が湧いてきてぽろっと聞いてしまった。
「あ!そうだ、その、ご両親ってここで住んでらっしゃるんですか?」
「いや、いないよ。二人とも忙しくてね、海外を飛んでる。だからこうして、学校をサボれるわけ」
「あ、なるほど……」
思わず頷いて納得してしまった。確かにそうだ。一緒に住んでいるとしたら絶対、学校には行きなさいって五月蠅いもん。
私の親だって、いつも宿題をしたかチェックをしてくる。もう高校生になったのに、親の気分はまだ小学生なんだ。
はぁ、そう考えたら、一人暮らしっていうのも悪くないのかな……
「おいで。ついでにウチのスタジオに案内するよ」
「えっ!家の中にスタジオがあるんですか!?」
スタジオって、あの音楽を作るために一杯楽器があったり、機械があるところだよね!?
家の中にスタジオがあるの!?
びっくりしている私に、注釈してくれる荒木さん。
「折角広いんだし、有効活用しないとね。完全防音室だから大きな音を出しても大丈夫。さ、行こう」
「あっ……あの、ありがとうございます」
先に立った荒木さんから差し伸べられた手を、ためらいがちに握る。
私よりも少し大きくて、ギターを弾いているからか少し指先が固い。でも、しっとりとして柔らかい。女の子の手。
優しく私を引き上げてくれた荒木さんが見せた、安心させるかのような微笑みに、私の胸が高鳴った。