90. 先輩と殿下(クララの視点)
殿下は私の顎に指をかけたまま、親指で私の頬をなぞった。その瞳には慈愛が溢れていて、私は泣きたくなってしまった。
「君が幸せを見つけてくれてよかった」
「殿下……」
私から手を離して、殿下は湖のほうを向いた。目を凝らすように遠くを見つめる。
「セシルはレイを、この世で最も愛する者を失ってしまった。私が間違っていたんだ。相思相愛の二人を引き離して、国のために政略結婚の道具にしようとした」
「それは違います! 殿下も王女様も民のために決断した。誰にも非はありません」
私の言葉を聞いて、殿下は視線を落とした。唇が震えているように見える。一瞬、殿下が泣いてしまうのではないかと不安になった。
「ありがとう。それでも、私の罪は消えない。セシルを守っていけるのは、もう私しかいないんだ。王太子の正妃として、いずれはこの国の王妃として、彼女を愛して慈しんでいこうと思う。いつか彼女が心を開いてくれるように」
「はい」
王女様の哀しみと、殿下の苦しみ。胸が苦しくて、目からは自然に涙がこぼれた。
誰も悪くない。悪いとしたら、それは戦争というもの。もし争いがなかったら、多くの人の人生が狂うこともなかった。その生命が奪われることも。
「私は王太子として、次期国王としての務めを果たす。正妃を愛して子をもうけ、王家の血をつないでいくことも王族の使命だ。だが、義務ではなくて、心から彼女を慈しみたいと思っている」
「はい」
「個人の感情は、今日を最後に、ここで捨てる。だが、君には覚えていてほしいんだ。王太子でも国王でもない、アレクという男がいたということを」
「はい」
「今日、この花園を出たら、その男はこの世から消える。だが、その男は確かにこの世に存在したんだ。そして、その男が君に伝えた気持ちも、永遠に変わることはない。それを忘れないでほしい。それが、アレクという男が、僕が、生きていた証になる」
「はい」
王族として生きるというのは、とても難しいことだろう。ときには、辛く悲しいこともあるかもしれない。
でも、殿下と王女様ならきっと、いつかそれを乗り越えられる。二人とも、本当に素晴らしい人だから。
「ありがとう。君に伝えられてよかった。これでもう、私は迷うことはない」
殿下は指で私の涙を拭って、とても幸せそうな笑顔を見せてくれた。
「さ、もう泣き止んで。そんな顔をしてたら、ローランドが心配するだろう」
「殿下。私、一生懸命、王女様のお世話をします。少しでも元気になってもらえるように。また笑っていただけるように」
「ありがとう」
「だから、殿下も諦めないでください。殿下も王女様も必ず幸せになります。そのために、私も頑張ります。ずっと殿下の味方ですから。だから、運命になんて負けないでください」
「クララは頼もしいな。そうだね、君はそういう子だ。運命に打ち勝てる力がある。その強さが君の魅力だ」
「私、粘り強いんです。それだけが取り柄かもしれないんですけど」
「そんなことはないよ。でも、よく頑張ったね。君は幸せを掴んだ。それは君の勲章だよ」
殿下はそう言うと、私の頭を撫でてくれた。学園でもずっと私を支えてくれた。私はその気持ちに甘えてしまっていた。
だから、今度は私が殿下のために何かをする番だ。
「まだまだです。まだまだ頑張れますよ!私、欲張りですから。みんなに幸せになってもらわないと、満足できないんです!」
殿下は黙って優しく微笑んだ。学園で見た、あの先輩の笑顔だった。
私たちは湖まで歩きながら、学園での思い出やカイルのことを話した。殿下とカイルは、中等部では仲のいい友人だったそう。
でも、殿下が立太子してからは、互いの立場のせいで距離ができてしまった。それが残念だったと言っていた。
みんな、いつまでも学生ではいられない。でも、学園の緑は今も同じ色をしている。これからも多くの学生が、未来を夢見て輝く時代を過ごす場所。
当たり前なものが、当たり前にある平和な世界。それは大人たちが守っていかなくちゃいけない。殿下はそう言っていた。
「そろそろ戻ろうか。遅くなると心配するだろうから」
出口までは上り坂になるので、殿下が手を引いてくれた。殿下の手はとても温かくて、暖炉の前で私の手を温めてくれたことを思い出した。
殿下がくれた優しい愛を、私は忘れない。アレク先輩の思い出は、この先もずっと私の心の中に。先輩は私の記憶の中で、いつまでも生き続けていく。
扉を開けて、王宮の庭園に出ると、ローランドが私たちを待っていた。
「クララ、お迎えだ。行って」
「はい」
殿下に背中を押されて、私はローランドの元へ向かった。ローランドが頭を下げたので振り返ると、殿下はすでに王宮のほうへ向かって歩き出していた。
殿下は一度も振り返らなかった。真っ直ぐに王女様のところに戻って行った。
私は二人の幸せを心から祈って、その後ろ姿に頭を下げたのだった。




