75. 運命の幕開け
「だから、悪かったよ。さっきから何度も謝ってるだろ?いい加減、機嫌直せよ」
僕とヘザーは、王宮に向かう馬車に向かい合って座っていた。
「はあ?全っ然、謝ってるように聞こえない」
「だからって、グーで殴ることないだろ?これから公式行事だってのに!」
僕は頬をさすりながら、目の前でプリプリ怒るヘザーを恨めしそうに見る。女性の拳では大した痕はつかないけれど、痛みはそれなりだ。
「何それ。顔のこと気にしてるわけ? 痴漢ナルシスト最悪!」
「お、おい、いくらなんでも痴漢って」
ヘザーは据わったような目で僕を睨みつけた。これは相当怒っている。グー・パンチで済んで、実はラッキーだったのかもしれない。
「いきなりキスするなんて!そんな真似する男は、痴漢か変質者よ」
「一応、俺は婚約者だぞ?キスはありだろ?」
「ない!だって偽装よ?ありえない」
「だから、ごめんって。そんなに嫌だったのか?これでも学園では『抱かれたい男No.1』だったんだけど」
「うわっ!やだっ!ちょっと、やめて。想像したくないっ」
ヘザーは頭を抱える。うん、まあ、知ってた。ヘザーは僕に全く興味がないし、僕だってヘザーにはそういう気にならない。
あれは魔が差したというか、あんまりヘザーが綺麗だったから、つい……。
それに、人間は弱ってるときに、身近な人にすがってしまうものじゃないか?
「ちょっと血迷ったんだよ。お前の優しさにクラっときて」
パシッ!
さっきの頬とは反対側に飛んできたグーを、今回はうまく手で受け止められた。これは想定内だった。
ヘザーは僕の手を振り払って、さらにギリっと睨んでくる。
「この程度で我慢してるのは、これから式典があるからよ。あんたの顔が歪んでたら、クララが心配するでしょ?まったく、こいつのどこがいいんだか。趣味悪すぎるわ」
「本当に悪かったよ。もうしないから、許してくれよ」
「当然よ。今度したら、命はないと思いなさいよ!黒歴史だわ。あんたは今から私の奴隷よ。口ごたえは許さないから!」
やっぱり、本気で怒らせてしまったようだ。ここはおとなしくするのが得策だ。
ヘザーとは姉弟のようなもの。確かに近親相姦みたいな真似は、気持ち悪いと言われてもしかたがない。
でも、普通ここまで嫌がるか?もしかして、ヘザーのこの激昂は照れ隠し。
いや、待て!そんなことを思ったことすら、バレたら殺される。ここは素直に、下手に出るべきだ。
「分かったよ。何でも言うこと聞くから」
ふんっとヘザーは鼻を鳴らしてから、僕を見下ろした。実際には身長差があるので、見上げられる位置関係なのだけど、どう考えても見下されていると思う。
「もういいわ。油断した私がバカだった。心配して損したわ。あんた、クララがいなくても、すぐに次の女を引っ掛けそうね。やっぱりクララには、真面目なカイルのほうがお似合いよ」
許すと言ってはいるけれど、言葉の端々に棘を感じる。カイルだって普通の男だ。婚約者にキスくらいするだろう。
でも、その婚約者がクララなので、僕もカイルが潔癖な紳士であることを切望した。
我ながら愚か者だ。確かに僕よりは、カイルのほうがずっといい。それは断言できる。
「まあ、世の中には、変態が好きっていう人もいるから。そう絶望する必要もないわよ。顔だけはいいんだし。顔だけだけど、顔がないよりマシよ」
急に黙り込んだ僕を見て、ヘザーはちょっとだけ態度を軟化させた。なんだかんだ言っても、彼女は僕の幼馴染で親友。僕の愚かさなんて、もうずっと前からお見通しだった。
「慰めてくれて、ありがとう。変態だけど、顔で頑張るよ。とにかく、王宮ではちゃんと紳士らしく振る舞うから」
「よろしく頼むわね、美形変態さん。とにかく、クララには特に注意よ。カイルが守ってはいるけれど……」
カイルは高度魔法が使える。騎士として剣の腕も一級だ。クララを守る者として、相応しい能力がある。
「クララはそんなに危険なのか?殿下と関係がないなら、もう狙われないんじゃないか?そもそも、カイルとの婚約もそのための……」
偽装、なのだろうか。殿下との無関係を強調するだけの。それならば戦況が好転したら、クララは自由に?
いや、カイルがクララを手放すわけはない。あいつは彼女を深く愛している。
「殿下はクララにご執心よ。安全のために、敢えて他の男に託すくらいにね。本当は、妻にするのが正しい守り方だったと思うわ。そうはならなかったけど」
「王女様がいるからな」
「ちがうわよ。クララが殿下を愛していないから!相思相愛なら話は違ってた」
クララが誰を好きなのか、実際には聞いたことがない。知らないまま、僕たちは離れてしまった。
馬車が王宮へ到着した。時間通りだ。馬車から降りてレッドカーペットを歩く。それは、高位の貴族にだけに許された特権。
案内人について会場の入り口に立ったとき、僕はすぐにクララを見つけた。彼女がいるところだけが、輝くように見える。大人びた紺のドレスを着ていても、彼女の愛らしさは際立つばかりだった。
僕はクララに気づかないふりをして、そのままヘザーと前方へ進む。クララのそばを通過するとき、ヘザーは僕の腕をギュッと引いた。そして、わざとらしいくらいに明るい声を出す。
「クララ。素敵よ!」
「ヘザーも!」
クララは笑顔でそう答えた。でも、幼馴染の僕らには、その笑顔が本物じゃないとすぐに分かった。
「クララ、元気なかったわね」
その場を通り過ぎた後、ヘザーがボソっとそう言った。僕の心の中に、不安がさざ波のように広がる。
いよいよ幕が開けるそのときになって、この配役はミスキャストかもしれないと思い始めてしまう。
でも、ここで引き返すことはできない。入り口から殿下入場のファンファーレが鳴り響き、長い芝居の序章が始まったのだった。




