18. 果樹園の恋
僕は別に、弓が特別に好きだったわけじゃない。最初から得意だったわけでも、射的のセンスがあるわけでもない。
ただ、好きな子を喜ばせたかった。弓もそのための手段の一つというだけ。
「相変わらず、腕いいね。思わず見惚れちゃうくらいカッコ良かった」
クララは無邪気にそう言う。自分の言葉がどれほど僕を喜ばせるかなんて、たぶん考えたこともないんだ。僕は照れ隠しで、少し乱暴にクララが抱える本を奪い取る。
「そうか? なら、よかった。お前のおかげでうまくなったからな」
「なんで私?」
「覚えてないのかよ。果樹園でリンゴを落としてやっただろ」
食いしん坊のクララは、甘いリンゴが大好物。日当たりのいい高い枝には、熟れた真っ赤なリンゴが実る。先端は枝が細くて登れないから、いつも弓で落としてやっていた。
「そうだったね」
「お前にりんごを取ってやりたくて、冬の間にこっそり練習をしたんだ」
いつもなら、こんなことは言わない。僕にはできないことがないと、ずっとカッコつけてきた。でも、それじゃ、鈍感なクララには伝わらないんだ。
「ええっ!コソ練までしてたの?」
「まあな。魔法じゃなくても、取れたろ?」
「何それ、魔法?」
「お前、魔法でリンゴを取ってもらったって、すごく喜んでたじゃないか」
お忍びで遊びに来ていた王太子。あの当時はまだ立太子前で、第一王子という身分だった。結局はその後も弟妹を得ることなく、王族唯一の後継者となったけれど。
その殿下が、魔法でクララにリンゴを取ってやったんだ。僕が手に入れることのできない、高い枝に生った赤くて甘いリンゴを。
喜ぶクララを見て、僕は無性に悔しかった。クララが欲しがるものは、なんでも僕が手に入れてあげたいと思った。クララを笑顔にするのは僕だ。
あのときには、僕はもう彼女に恋をしていたんだろう。
「そんなことあった?いつの話?」
「三歳か四歳くらい」
「そんな前?覚えてないよ」
覚えていないなら、僕の努力は報われたということだ。あのとき以来、僕は何年も何年もクララに弓でリンゴを取ってやった。そのためなら、いくらでも頑張れた。クララの果樹園の思い出は、いつも僕と一緒にあるようにと。
「俺は覚えてる。あいつの魔法に負けたくなかったから、必死に練習したんだよ」
「変なとこで負けず嫌いよね。魔法に弓で張り合うとか。意味ないのに」
「張り合ったのは、そこじゃない。お前を喜ばせるのは、俺だけの特権だから」
僕は公爵家の一人息子。父の頭脳と母の容姿を受け継いで、幼い頃から誰からも誉めそやされた。自分は特別なんだと、うぬぼれていた。
だから、あいつに会ってショックを受けたんだ。何もかもが僕よりも優れた人間。そして、あっさりとクララの心を惹き付けた魅力。あいつに負けたくない。
「どういう理論?でも、ありがと。リンゴ取ってくれて嬉しかったな」
クララの言葉に、心が沸き立つ。クララの嬉しそうな顔を見れれば、どんな苦労もいっぺんに吹き飛んでしまう。
細い枝を射ることで、リンゴに傷をつけずに落とす。相当な特訓をしない限り、子どもができる芸当じゃない。本当に必死だったんだ。
「じゃ、その礼に、頼みたいことがある」
「お礼って、今更?しょうがないなあ。言ってみて」
そんなのは口実だ。こう言えばクララが断れない。その性格を熟知しているから、わざとこういう言い方をした。もうなりふり構っていられない。クララを僕の側に置いておけるなら、僕はどんな卑怯にでもなる。
「近いうちに公爵邸に来ないか。父に会ってほしい」
「いいけど、おじさまなら、いつも会ってるじゃない?改まって何?」
幼い頃から、クララは僕の家にはしょっちゅう遊びに来ていた。僕の母は、亡き親友の子であるクララを自分の娘のように可愛がっていたし、父も親代わりのつもりだ。
だから、僕たちは幼馴染で、家族公認の許婚。
「結婚の話をしようと思ってるんだ」
「え!もう結婚するの?」
何のために、僕が周囲から女を遠ざけたと思うんだ。男が身辺を整理するのは、妻を持って家庭を守るための準備。もうなんの問題もない。
「早いほうがいいだろ?」
僕はもうすぐ十八歳になる。クララはすでに十七歳で、そろそろ結婚を意識する年齢だ。正式な婚約者がいないままだと、縁談が舞い込んでくる。
クララの実家は男爵家とはいえ、古くから続く格式ある名家。加えて本人のこの美貌だ。裕福な平民や下級貴族がこぞって狙っている。彼らの企みを阻止するために、僕がどれほど苦労しているか。
表ではクララの婚約者然として振る舞っているけれど、裏では近づこうとする男たちに軽い脅しをかけるのも忘れていない。
将来の自分の立場を思えば、反感を買うようなまねはできない。ギリギリの線を狙った、スレスレの範囲で、それでもはっきりと彼らを牽制してきた。
筆頭公爵家の後継者に「俺の女に手を出すな」と釘を刺されれば、たいていは黙って引く。そうしないのは、たぶんあいつらだけ。僕を対等な人間として扱う二人の友。殿下とカイルだ。
正式な婚約でも既成事実でもいい。とにかく、クララとの関係を進めたい。そうじゃないと、どうしても安心できない。
なぜって、あいつらもきっとクララを好きになるから。それは確信に近い動物の勘だった。